34.アリシャの変化
「――エル」
目の前の聖女が、僕の名を呼ぶ。
耳になじむその声を聴いた瞬間、アリシアの顔に幼いアリシャの顔が浮かんで見えた。
もうとっくに死んでしまったと思っていた幼馴染の顔が。
あり得ない。
混乱の波が、僕を飲み込み、思考を阻害する。
冒険者組合の情報では、あの村の生き残りはいなかった。
魔獣から生き延びていたとしても、幼い子供が一人で生活できるほど、この世界は甘くない。
聖人に至るためには長い年月をかけて徳を積み、人々のために尽くしていかなければならないはずだ。
それに突然成長した僕の年齢の差が合わない。
僕の直感を否定する材料がいくつも湧いて出てくる中、しかし僕は、目の前の聖人がアリシャだと確信していた。
具体的な根拠は何ということはできないが、なぜか。
「エル、だよね……?」
アリシアが、アリシャが再度僕の名を呼ぶ。
二度目は確認するように、そして少しの不安を含みつつ。
その泣きそうな声が、僕を驚愕と困惑の硬直から解放させた。
僕はそれが勘違いであったらどうしようという恐怖をアリシアが感じていることに気付き、そして口を開く。
「ああ、そうだよ。……アリシャ」
「――っ!あぁ……」
口にした瞬間、アリシャが言葉にならない声を上げ、強く抱き着いてきた。
あまりの突然の事態に、そして若い女性から抱き着かれるという今まで経験したことのなかった出来事に再び僕は混乱するが、しかしそれも長くは続かなかった。
アリシャの嗚咽が、そして涙交じりの声が耳に届いたからである。
「……生きてっ、生きてた。……よかったぁ。もう……」
言葉としては意味をなしてなかったが、しかし僕はそこに、アリシャの安堵と歓喜の感情をはっきりと感じることができた。
今まで僕のことを心に抱え、そして聖人として生きてきたことも。
自らを守るために死んでいった、エルという少年のことをアリシャが気に病んでいたことを。
「……頑張ったんだね」
それはまだ幼かったアリシャにとってどんなにつらいことだったのだろうかと。
僕はアリシャの背中を撫でながら、優しく声をかける。
その言葉にさらに泣きじゃくるアリシャが落ち着くまで、僕は幼い子供をなだめるように、アリシャを抱きしめ続けた。
「……落ち着いた?」
「うん……ごめんね。突然……」
泣きじゃくる姿をさらしてしまったのが恥ずかしかったのか、アリシアが顔を赤らめる。
その様子が昔とあまり変わってないように感じ、僕は思わず微笑んだ。
それを笑われたと思われたのか、アリシャは少し怒ったように口を開く。
「あっ!今笑ったでしょ!もうエルったら!」
「違う違うって。なんか昔と変わってないなぁっておもっただけ。そんな怒らないでってば」
「ふんだ!今まで私がどんな気持ちでいたかも知らないくせに!」
表面上は怒った様子だったが、アリシャはどこか楽し気にそう言う。
聖人として僕の前に立った時とは性格の差がすごいが、多分こちらが彼女の素なのだろう。
数年間抑圧されてきた、アリシャの素。
「それで、聞きたいことはたくさんあるんだけど……、とりあえず今はアリシアって呼べばいいの?」
「うーん、アリシャでいいよ。エルにはそう呼ばれてた方がしっくりくるから。私のことアリシャって呼ぶ人はエルだけだしね!」
「分かったよ。……アリシャ」
言うとアリシャは、嬉しそうにフフッと笑う。
長い間呼ばれていなかったその名を、懐かしいと振り返るように。
「……ずいぶんと成長したね。僕が言うのもなんだけど」
類まれなる美貌と称されるアリシアの、成長したその端正な顔に笑みが浮かぶのを目の当たりにし、僕は照れくささを感じつつふと感じた疑問を投げかけた。
そう、成長しすぎなのだ。
数年たっただけとは思えないぐらいに。
その答えとして、しかし要領を得ないようにアリシャは言う。
「そうなの!聖人になった時に一気に成長したのよ。エレーナ様はなんか、身体の最適化、とか言ってたような……」
神、天使、そして聖人という存在は、人間と比べて極めて長寿であり、その体は健康に保たれるとされる。
これは彼らが高位の存在であり、生命力の源である魔力を多く蓄えているからに他ならない。
つまり、脆弱な人間が高位種族である聖人に進化するとき、その体に多くの魔力が与えられるときには、身体は最も丈夫で健康な状態へと作り変えられるのだ。
すなわち成人前後の体に。
しかしアリシャも詳しいことは知らず、そして僕もたいしてそのことに関して興味はなかった。
ただ単に、魔法の神秘と感じただけ。
「エルは?エルもずいぶん大きくなってるよねっ!」
「うーん、僕にもわからないんだよね。気づいたら大きくなってた、みたいな」
「そうなんだ。不思議なこともあるんだね」
「不思議なことって、そんな軽く……」
異常があふれるこの世界。
聖人として様々な神秘に触れてきたアリシャにとって、少しの不思議は日常のことなのだろう。
本当にどうでもよいというかの如く、アリシャは言葉を続ける。
「そんなことよりさ!ここに来たってことはエルって今冒険者ってことだよね」
「うん。低級の、大したことない冒険者だけど」
「やっぱり冒険者って危険なの?傷もできるし……」
そう言ってアリシャは足や腕についた小さな傷を指す。
僕が悪魔退治をしていたということがばれないように自ら付けた、カモフラージュの傷。
しかしアリシアには魔獣にやられた傷に見えたのか、どこか心配げな顔を見せている。
低級の冒険者だと自分から言ってしまったのもあるだろうが。
とりあえ悪魔のことはまだ聖人であるアリシアに告げられないので、平気そうな顔をしてごまかす。
「危険、と言ったらそうかもしれないけど。でも僕の行くようなところは大抵もう攻略済みのところだから安全は保障されてるし」
「でも怪我してるよ……?」
「これくらいはなんてことないさ。死ぬこともないしね」
「でも……」
久しぶりに会った幼馴染が不安定な冒険者になっているということに不安を覚えるのも分かる。
だけど実際僕に関しては魔獣にやられるとか、そういう心配もないわけで。
「……やっぱり危険だよ!こんな、いつ死ぬかもわからないような冒険者なんて……」
「大丈夫だって。もう僕も長い間、ではないけど冒険者やってきたんだから。そう簡単に死ぬことはないし」
「そう、なの?」
でも、と考えこみ、やはり大げさな態度で心配するアリシャ。
しかしこれも仕方がないのかもしれない。
一度アリシャのために無茶をして、そして死にかけた幼馴染が、久しぶりに会ったら明日の命すら不安定な冒険者になっていた。
そのことに再度、魔獣に追われたあの場面を連想してしまうのは、もしかしたらアリシャに大きなトラウマを植え付けてしまった僕に責任があるのかもしれないのだから。
そう考えているとアリシャが、考えをまとめたようで、頷いた。
「うん、わかった。エルは冒険者になりたいって言ってたもんね。だけど危ないところには行っちゃだめよ?それと、怖い魔獣と出会ったら私を呼んで。いつでも駆けつけるから」
「え!?い、いや……」
「どうしたの?もしかして約束できない?」
いささか過保護とも呼べる約束を要求してくるアリシャ。
しかしこうなってしまったのも僕に責任がある、か。
「わかったよ。約束する。……でも呼ぶって、どうやって?」
「大きな声で名前を呼んでくればいいよ。私にはエレーナ様譲りの能力が少しあるから、こえが届かない場所にいても大丈夫」
「能力、か」
「うん!これからはエルの近くにずっといることにするから、いつでもすぐに駆け付けられるよ!」
「ん?今なんて?」
おかしい。
僕の耳がおかしくなったとしか考えられない言葉が飛び込んできて、思わず聞き返す。
「うん?これからはずっとエルのそばにいるようにするからって……」
「誰が誰の」
「だから!私がエルのそばにずっといるって言ってるの!……あっ、でも一緒のところに住むのは無理かもしれないけど……」
「いやいや、そういうことじゃなくて!というか僕のところに住むつもりだったんだ……、じゃなくて、……え?」
「だ!か!ら!ここまで言ってもまだわからないの?」
可愛らしく頬を膨らませ―こんなしぐさ聖人になってからは一度もしたことがなかったので少しぎこちなかったが―怒った様子を見せるアリシャ。
「まあ意味は分かるけど……。え、だって聖人の仕事は?」
「そんなのもうどうでもいいもん。エルの方が優先に決まってるじゃない」
「あ、決まってるんですか……」
久しぶりに会っただけの幼馴染が、聖人としての使命よりも優先されると言い切ったアリシャ。
……だいぶ残念な子になってるかもしれないという感想が浮かぶが、今の言葉はそれどころの騒ぎではない。
人類の護り手である聖人が、ヒト種すべてに救済の手を差し伸べるべき存在が、総体としての人類よりも一個人を優先させると言っているのだ。
ある意味では、聖人をやめると取られても仕方のない言葉。
決して聖人が言っていい言葉ではないのだ。
「うーん、それは……」
どうにかして説得しようとするが、うまい言葉が出てこない。
そもそもアリシャが僕を気にかけるのは、あの一件の僕の勝手のせいだ。
言ってしまえば僕の責任ということになり、説得するのも難しいか……。
そう僕が迷っていると、救いの手を差し伸べるがごとく扉が鳴らされ、そして神官の声がした。
「すいません、アリシア様。少しいいですか」
「うぇ?あ、部屋には入らないで、そのままでお願いできますか?」
「え?……わかりました」
神官が疑問の声を出すが、それ以上の詮索は失礼と思ったのかすぐに切り替える。
アリシアの声も、さっきまでの素の声ではなく聖人の時のそれに代わっていた。
「なんでしょうか?」
「はい。冒険者たちもいなくなったことですし、そろそろ帰るべきではないかと思いまして。トロッコも残り少なくなってきたようですし」
「そうですか。……わかりました。それでは先に行っていてください。すぐに行きますので」
アリシアがそう言うと、神官の困惑が扉越しに伝わってくる。
「ええと、我々は護衛なのでそれは……」
「では入り口のところで待っていてください。それならいいでしょう」
「ええ、まあ……」
疑問を感じる神官の声だったが、アリシアの強い口調に押されたのだろう、「わかりました」という言葉とともに扉から遠ざかっていく。
神官の足音が聞こえなくなったのを確認して、アリシアは口を開く。
「……もう行かなきゃいけないみたい。ごめんね」
「ああ、いや、大丈夫だよ。アリシャも聖人の仕事で忙しいだろうしね」
聖人の仕事、という言葉でアリシャは何かを言いたそうにしたが、時間がないと思ったのか声には出さなかった。
「……うん。何かあったら私を呼んでね。私は領主の家にいるから。それと……」
「ん?」
アリシャ言葉を切ると腕を広げ、そして恥ずかしそうな表情を見せる。
「ん。……ねえ、はやく」
「……ふう、アリシャは変わってないなあ」
さすがにこれを放って外へ出れるほど、僕は豪胆じゃない。
年齢が上がった今だと少し恥ずかしい気はするけれど、昔よく、アリシャが落ち込んだ時にやっていたことだ。
本当にアリシャは、昔から変わっていない。
そう感じると僕も腕を広げ、そしてアリシャを優しく、抱きしめる。
「ふふっ。……あったかい」
アリシャのそんな幸せそうな声を聞きながら。
アリシャがいいよと言うまでの長い間、僕は抱擁を続けた。




