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3 メリケルテスの寵愛(1)




 トライデント騎士団長館。

 白い水しぶきをあげて海へと繋がる池。池を囲う赤褐色の粘度鉢。緑の葉と紫の花が鮮やかに咲き誇る庭園。並び立つ大理石の神像。

 潮風の通り抜ける回廊。白い列柱に、モザイクタイルの床。


 故トリトンの愛した美しく歴史ある建築物であり、英雄亡き今は、息子であるメリケルテスが引き継いだ。

 メリケルテスは亡き父の指針に同じく、女主人としての名目を彼の義母であるディオネに許し、住まわせている。

 だが、女主人として実際に差配を振るうのは、ディオネではない。メリケルテスの生母マリーだ。


 マリーがトライデントに到着する前までその役に就いていたのは、婚前からディオネに仕える、去勢された男奴隷だった。

 家政を担うことのできないディオネに代わって、トリトンとディオネ、夫婦ともに信頼する奴隷が任されていたのだ。


 神殿から騎士団長館へと戻ったメリケルテスは、いかにも億劫だとのろのろと両手をあげた。物憂げな表情を浮かべ、奴隷が上衣を脱がすに任せる。

 軍会議で着用していた紺碧の上衣が丁寧な手つきで脱がされると、メリケルテスは奴隷が恭しく献上する貝紫の上衣に手を伸ばした。


 上衣そのものは、日に翳せば向こう側が透けて見えるほど柔らかく、軽い。

 だが金の飾りが上から下までびっしりと縫いつけられていて、その重みで前端は垂れ下がるに違いない。床に引きずってしまいそうだ。


 メリケルテスは繊細な紗にも金飾りにも気を遣うことなく、乱暴な手つきで着替えの上衣を掴んだ。

 案の定、繊細な紗に金飾りが引っ掛かり、細い貝紫の糸がぴょんと飛び出る。

 着替えを献上した奴隷が慌てて新たな着替えを用意しようと、控えていた他の奴隷に命ずる。



「着替えはもうよい。このままで参る」

 メリケルテスは奴隷を止め、先ほどまで羽織っていた紺碧の上衣を片手でぐしゃりと掴み取った。


 ちょっとした摩擦では傷つくことのない厚手の平織りシルク。

 色はトライデントの海と同じ紺碧で、メリケルテスが身に着けているエノシガイオスの旗と同じ濃紺のチュニックとよく馴染む。


 この方がずっといい。扱いやすいし、なによりエノシガイオスの男らしい。

 貝紫の紗など、メリケルテスの記憶の中の父トリトンは、身に着けていなかった。


 隔離された小屋で貝染めの奴隷たちが何万個もの巻貝をこじ開け、強烈な悪臭に嗅覚を失い、死ぬまで取れることのない紫で手首まで染める。そうすることでようやく仕上がる、高貴なる貝紫の織物。

 非常に貴族らしく、非常に女々しい。


 そんなものを身に着けて喜ぶ男は、議会では猛々しい演説を尤もらしく振るうものの、戦場には決して出てこない元老院の議員。


 もしくは、そもそもが男ではない。女だ。


 行く手を遮る石積みの壁と白い石柱と、不届きな侵入者を惑わせるような垂れ布に焚き染めた薫香。そこへ重なる、男を誘うように思わせぶりな花々の、軽やかに甘い香水。その奥の奥。

 優雅な手つきでひよこ豆の薄焼きケーキに蜂蜜を垂らし、オリーブやブドウ、イチジクにチーズを挟んでは赤い唇へ運び、ワインを飲む貴婦人。


 貝紫の紗は、そういった類の人間が身に着けるものだ。


 メリケルテスが紺碧の上衣を羽織ると、奴隷が襟を抜き、肩から手首にかけて、袖の形を整える。

 奴隷たちはつぎつぎに頭を垂れ、メリケルテスへ恭順を示した。


 二列に分かれた奴隷たちの間を、メリケリテスは苦行だと言わんばかりの遅々とした足取りで進んだ。

 彼の心は、膝が震えるような恐怖に似た後悔と、恋い焦がれるように抑えきれない好奇心とでせわしくなく揺れ動いていた。


 メリケルテスが向かうのは、フランクベルト王太后マリーとヴリリエール公女ジャンヌが控える間。


 メリケルテスとジャンヌは、今日が初対面となる。

 フランクベルトからの一行がトライデント到着した後、長旅後の疲労も然ることながら、貴婦人にはさまざまな準備が必要だと、しばらく時間を設けていた。



「いっそこのまま、会わずに送り返すことはできまいか」

 誰に言うでもなく、メリケルテスは独りごちた。


 メリケルテスに付き従う奴隷が、驚いた顔でメリケルテスを見上げる。



「マリー様がいらっしゃれば、人質としてのフランクベルト人は、じゅうぶんでいらっしゃいます」

 慰み者の小人ピュグマイオイが短い腕をぶんぶんと振り回し、メリケルテスのすぐ後ろをぴょこぴょこ飛び跳ねる。

「殿の御心を慰める『欠けし者』としましても、ディオネ様とオイラとで、これまたじゅうぶんでいらっしゃいます!」


「知ったような口を抜かすな」

 メリケルテスは冷たく突き放すように言い捨てた。


 かと思えば、「母上もまた 『欠けし者』だ。なにしろ、生粋のエノシガイオス人ではないからな」などとつけ加える。



「母上もおまえやディオネ様に同じ。俺がこの胸に飼う、孤独という名の魔物を解き放つことができる、ごくわずかな生きた人間のひとりだ。忘れるな」


「忘れません! ありがとうございます! オイラは殿の『欠けし者』! 生きた人間でいらっしゃいます!」

 ピュグマイオイは嬉しそうに手を叩き、大きな口を耳まで裂くがごとく、ニィッとかっぴらいた。


 醜い小人の口元から覗く、不揃いな乱杭歯の不気味なことといったら。

 ピュグマイオイの存在に慣れた奴隷であっても、顔をしかめずにはいられなかった。



「そうだ。おまえは生きた人間だ。まだ死ぬなよ」

 メリケルテスは慈愛を込めた優しい手つきで、小人の縮れ毛を撫でた。


 ピュグマイオイはキャッキャとはしゃいで「オイラ、人間! 人間!」と繰り返し、頭上に置かれたメリケルテスの手を、バチンバチンと叩いた。


 ピュグマイオイの胸元で飛び跳ねる、赤碧玉の首飾り――南島トゥーニスの総督が生前、自慢げにぶら下げていた首飾りだ――を眺めながら、メリケルテスは漠然とした不安に取り憑かれた。


 フランクベルトの貴族娘ジャンヌを呼び寄せたのは、メリケルテスだ。

 だが、果たして彼女は、()()()必要だろうか。


 慰み者のピュグマイオイは、メリケルテスに二心なくよく尽くしてくれる。彼からの思慕には裏表がない。

 それに加えて義母のディオネもだ。彼女もまた、あるがままの偽りない、真っ直ぐな好意でもって、メリケルテスに接してくれる。

 そしてこれまでメリケルテスがどれほど焦がれようと、決して手に入らなかった生母マリー。その無条件の愛が、ここにある。


 生きるのに必要な愛は、足りているのではないか? この上さらに、愛の結びつきを結婚に求めるのは、強欲が過ぎるのではないか?

 ではメリケルテスがほかに望むべきものとは、いったいなんだ? 


 誰もが疑うことなく、真なるエノシガイオス人である父トリトン。

 半分フランクベルトの血が流れるとはいえ、元を辿ればエノシガイオス人であるリシュリュー家の生母マリー。

 生母マリーは聖なる神殿にて、完全なるエノシガイオス女であることを示してみせた。


 つまりメリケルテスは、英雄トリトンが戯れで蛮族(バルバロイ)の娘に産ませた、血筋の怪しい私生児などではなく。

 正統なるエノシガイオス公子として必要十分な資格を備えている。

 そのように諸外国からも認められたと見なしてよいだろう。


 それならば。息苦しくないもの――『欠けし者』で身の回りを固めるには、もう充分ではないか?

 確かに結婚という儀式を交わして得る妻が『欠けし者』であれば、胸の内をさらけ出しやすい。

 だがその役にはすでに、生母マリー、義母ディオネ、慰み者ピュグマイオイが就いているではないか。


 この上さらに『欠けし者』、つまりはエノシガイオスらしくない者を囲うことで、メリケルテスの『エノシガイオス人らしさ』を欠くことになりはしまいか。

 延いてはエノシガイオス公子としての正当性をメリケルテスから奪う、その因子を増やすこととなり、将来の公位に対し、危険ではないのか。


 ピュグマイオイを片手にぶら下げ、諾々と歩くうち、ついに客間へと辿り着いてしまった。


 扉の前。

 両脇に控える衛兵が、槍の石突で床を打ち鳴らす。

 声を張り上げ、メリケルテスの到着を告げる衛兵と、呼びかけに応じて開く扉。


 メリケルテスはピュグマイオイを見下ろし、力なく微笑むと、大きく腕を振り払った。

 小人がごろり、とモザイクタイルの床に転がる。



「ありゃ、ありゃ」

 ピュグマイオイは潰れて赤くなった鼻を両手でさすり、目の前にそびえ立つメリケルテスを見上げた。



「母上、ヴリリエール嬢」

 メリケルテスは室内へと足を踏み入れた。

「お加減はいかがでしょうか」



 マリーとジャンヌが、揃って扉へと振り返る。

 ふたりの高貴なる淑女は、それぞれのドレスをつまみ、頭を垂れて膝を折った。




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