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2 優生エノシガイオス人




「お待たせしてしまったかしら。遅くなってごめんなさい」

 底抜けに明るい声が、男たちによる張りつめた沈黙を破った。


 声の主へと振り返れば、ちょうど青銅釜の炎が盛んに立ち上ったところで、火の穂の女神が舞い降りたかと錯覚する。

 実際には扉が大きく開かれたために急激に外気が室内へと入り込み、炎を巻き上げたせいなのだろう。



「男の人たちばっかりの中で、わたしひとりだけ女の人なのはこわくって。だからね、お友達も連れてきたの」

 火の穂の女神がごとく登場した女が無邪気に手をあげ、軽く振ってみせる。

「いいでしょう?」



 女の浅黒い素肌の上で、しゃらりと揺れる金環。

 幅広の金環に繋がれた金鎖はイワシの形をしていて、連なった金のイワシより二回り大きな紫水晶のイルカが対になって左右に取り付けられている。

 巻貝で染めた高貴なる貝紫の薄絹ドレスもまた、女が歩を進めるたび、浜辺に押し寄せる波のように幾重にも重なって揺れた。


 朗らかな笑顔で石机へと向かってくる女。故トリトンの正妻であり、ヘリオス家の名代として参席するディオネだ。

 彼女の浅黒く肉付き豊かな手がしっかと掴むのは、透けるように白く華奢な女の手。

 広く薄暗い神殿内では、前を行く女の影に隠れて曖昧模糊とした黒装束の女。その姿は勢いよく燃え盛る松明の横を通ったところで、ようやく輪郭をなした。



「母上!」

 メリケルテスがぱっと顔を輝かせ、立ち上がる。

「ええ、ディオネ様。もちろん、『いい』に決まっております」



 女ふたりのもとへと急ぎ駆け寄るメリケルテス。

 紺碧の上衣が翻り、たっぷりとした襞に織り込まれた金糸と銀糸の繊細な文様、宝石の数々が、松明の光を浴びて、晴れた日の波間のように輝く。

 心弾ませる彼の耳には、ゼピュロス公の「フランクベルトの毒蛾か」という、狼のような低い唸り声は届かなかった。


 トリトンの生前。彼がディオネとの婚姻を交わす前。

 彼の花嫁候補に、ゼピュロス公の腹違いの妹の名があがっていたことがあった。

 複数いた花嫁候補の中でもゼピュロス公の妹は最有力と目されていた。

 だが、トリトンが敵国フランクベルトの貴族娘マリーと恋に落ちたことで、すっかり当てが外れてしまった。


 ゼピュロス公の妹が激しい拒絶を表明したのだ。


 トリトンはマリーと恋に落ちてすぐ、生涯でただ一度きりの、誠の愛をマリーに捧げると、神々に誓った。

 神への誓いは、断じて破られてはならない。他者が神との誓約の破棄を唆すこともまた、神々の怒りを買い、災いが齎される。


 それゆえにゼピュロス公の妹は、己に愛を注がぬことが明白であるトリトンの元へ嫁ぐことに、決して頷かなかった。


 彼女はたとえエノシガイオス公子トリトンという地位も名誉も財産も武勇も血筋も、いずれも文句のつけどころのないすばらしい美丈夫が相手であっても、他の女を愛する男であることこそが最大の欠陥であると見なした。


 娘とは家長に養われる者であり、基本的には家財に同じく、数えられる財産としての立場にある。

 財産の受け渡しにおいて、奴隷よりも通貨と取り決めの手間、制約とを多く必要とする、『家畜や奴隷よりも価値の高い財産』という扱いだ。

 だがその娘の意思を、父や兄弟、伯父に叔父がそれなりに尊重するという男女間の均衡が、かねてよりエノシガイオス人の不文律として存在していた。


 広義のエノシガイオス人――テイア帝国に属するひとびとの慣わしとして、家長が絶対の意思決定を有する。

 この点においては、フランクベルトに同じ。

 だが、結論に至る過程として、家長の采配で家族の意思を汲むことは珍しくない。また非常に稀なことではあるが、大巫女など、家長が女であることすらあった。

 それぞれの信仰が思想に影響を与えているのだろう。男の意見のみが通ずるフランクベルトとは、女の地位が大きく異なる。


 そのため現ゼピュロス公の父は、完全に臍を曲げた娘をトリトンの嫁にと無理強いすることはなかった。

 彼の、善きエノシガイオス人として当然抱くべき父性が、それを許さなかったからだ。

 兄である現ゼピュロス公は強く反意を唱えたが、父は当事者である娘の意思を、婚姻においては部外者である兄の反意よりも重んじた。



「神聖なるこの神殿に毒蛾が舞い込むなど、神々の怒りを買うことになりはせぬか」

 ゼピュロス公は当時の苦いやり取りを思い出し、苛立ちを滲ませて、ボレアス大使とノトス大使に議論を吹っかけた。

「どう思う」



 墨でぐるりと囲った目を細めては見下ろしてくるゼピュロス公に、ボレアスとノトスの両大使は目を見合わせた。

 ゼピュロス公は鳥の巣のようにもじゃもじゃと密集した暗金色の顎髭を、太くて節ばった指でしごいては伸ばしを繰り返し、両大使の答えを待ち構えている。



「過度な感情は破滅を招きます」

 ボレアス大使は古代の哲学者を真似て、婉曲にゼピュロス公へ否を伝えた。



「肝要なのは、理性だ」

 ノトス大使もボレアス大使のやり口に便乗する。

「理性で感情を自制せねば」


「本質を見極め、真理を追究することこそ、最善なる人生の模索であり、意義ある生でありましょう。自制心を失った感情の暴走こそ、神々は目をつけるでしょう」

 ボレアス大使は、元来相性の悪いノトス大使という、思わぬ味方を得て、戸惑いに瞬きを繰り返しながらも、憮然とするゼピュロス公へ切々と語りかけた。

「ゼピュロス公。理性です。理性で物事を見極めましょう」



 真面目くさったボレアス大使と、小馬鹿にしたようなノトス大使。

 態度は対照的だが、言わんとすることは同じ。

 この場でマリーに非寛容であるのは、ゼピュロス公のみであるということだ。


 ボレアスとノトス。両国大使にとってマリーはトリトンの唯一無二。死して伝説となった英雄が神々に誓った、最愛の女性だ。

 それだけではない。マリーは美しかった。

 年を重ねてさえも。敵国フランクベルトの王母であってさえも。


 帝国の名ばかり皇女。英雄の名ばかり正妻。

 白痴のディオネより、ずっと。

 彼等にとって、マリーは美しかったのだ。敬意を捧げるに相応しく。



「寛大なる御心遣いに感謝いたします」

 黒紋紗のベールで顔を覆ったマリーは、メリケルテスの手を取り、その甲へと恭しく接吻をした。


 それから対になった青銅釜の間を通って、三人の男たちが待ち構える石机へ、静々と歩を進めた。

 ゼピュロス公、ノトス大使、ボレアスの大使の順に、彼らの手の甲へ、感謝と恭順とを示す接吻を捧げる。


 麗しき未亡人から漂う瑞々しいバラの香りに、陶然とする三人の男たち。

 ベール越しに艶やかな微笑みがうっすらと透けて見える。

 かと思えば、マリーは男たちにくるりと背を向け、ベールを指でつまんで押し上げた。大きく両手を広げながら、その場に膝を折る。



「偉大なる神々よ、この祝福に感謝いたします」

 巨大な神像を仰いでからまぶたを閉じ、マリーは白く丸い額を床に擦りつけた。

「この世を創り賜いた神々に、永遠の栄光あれ。神の地エノシガイオスに、永続なる栄誉あれ」



 濃淡さまざまな赤褐色の粘土煉瓦の上。

 艶のある朱子織りシルクのドレスが、円状に広がる。潰れたイカが、末期に吐き出した墨のようだ。


 数多の人の足が幾度となく通い、踏みつけた敷物へ、直に膝をつき。ベールを上げた皮膚の薄く繊細な額をこすりつけ。

 オリーブの枝のようにしなやかなマリーの腕が、神々を讃え、神像の足元に大きく広げられている。


 フランクベルト人が見れば、あまりに芝居がかって滑稽ですらある、マリーの振る舞い。

 だがエノシガイオス人であるゼピュロス公はその様を目の当たりにし、顔中を覆う豊かな髭の下で頑固な渋面を解いた。


 ついに神殿にいる男たち全員が、敵国フランクベルト王太后マリーを歓迎する事態となった。


 なぜならエノシガイオス人であるとは、いったいどういうことか。

 マリーは理解し、体現することができたからだ。




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