1 エノシガイオスの息子たち
「おお、エノシガイオスの息子たちよ。
悠久なる歴史に、その輝かしき名を刻め。
父のように。祖父のように。
祖先より脈々と続く神の血よ。
神聖なる権能にて齎された勝利は、巫女の祈りをもって捧げられん。
偉大なる英雄の霊魂が、神々の住まう宮殿へと迎え入れられるとき。
神々が慈悲の眸で見下ろす地上にて、色褪せぬ名声は永遠に響き渡らん」
宇宙と大地が奈落と惜別し、混沌から暗黒と夜、光と昼が産まれたのち、詩歌の女神は勇猛なる戦士と敬虔なる巫女へ、そのように告げられた。
――長編叙事詩『ギュリッポス』より抜粋
◇
整然と並び立つ、石造りの白い列柱。
金や象牙で飾られ、多彩色に塗られた巨大な神像が、矮小な人間を見下ろしている。
トライデントにおける、最も重要な、荘厳なる神殿。
今は軍会議のために使われているその空間には、大きな青銅の釜があった。
床は赤褐色の粘土煉瓦がモザイク状に敷き詰められ、緻密に織られた縦長のシルク絨毯は男たちが顔をつき合わせている石机を挟んで扉から扉へ、一直線上に敷かれている。
青銅釜はシルク絨毯を中心として線対称に配置され、右には赤々と燃え盛る松明。左には白煙を燻らせる樹脂に香灰。
「『ギュリッポス』の一節にあるような転落ぶりだな」
ゼピュロス公は卓上で短剣をもてあそびながら言った。
「先王ヨーハン統治よりくすぶっていたフランクベルトの内輪揉め。大規模な内乱に発展するのは、時間の問題だ。フランクベルトに着いた解放奴隷たちが、よい仕事をしてくれている」
「そもそも南島トゥーニスはフランクベルトへと支配権が移る以前、テイア帝国の植民都市でしたしね」
トライデント駐在のボレアス大使が追従する。
したり顔で「一連の流れはまさしく、『ギュリッポス』における『エウリュビアデスの戦』を彷彿とさせます」などと持論を述べてから、ボレアス大使はうっとりと陶酔しきった様子で叙事詩の一節を諳んじ始めた。
「『砦の上から見下ろす敵は、まるで甲虫のようだった。煮えたぎった油や雨のような矢が頭上から降り注ぐのを防がんと縦長の盾を掲げ、がさりごそりと動き回ったり止まったりする』――砦の攻防戦を再現できなかったことだけが残念です」
「一千門の大砲を搭載した艦隊で海上から攻めておきながら、包囲戦もクソもあるか」
現ノトス公の私生児の息子であるノトス大使は、鼻で笑った。
「ボレアスは相変わらず、カビの生えた懐古趣味だ」
「『ギュリッポス』は最古にして最大、そして最上の叙事詩であり、兵法書です」
ボレアス大使が、赤黒い顔で憤慨する。
「古典を笑い原点に返らぬ者は、足を掬われますよ。必ずや」
「『メノンの戦』に敗れたラオメドン家のようにか?」
ノトス大使は身を乗り出し、ボレアス大使が首から下げる金鎖をぐいと引っ張った。
「それとも、エオス家に吸い取られたティトノス家のようにか」
金鎖を飾る小粒の紫水晶で囲われた空玉が、ノトスとボレアス、睨み合う両国大使の鼻先でぶらぶらと左右に振れた。
「そうか。エオスがいないな」
ゼピュロス公は気だるげな素振りで、睨み合いを続ける二人の大使へ、短剣を投げつける。
ひっという短い悲鳴がノトスとボレアス双方から上がるが、ゼピュロス公は気にもとめず、メリケルテスへと振り返った。
「メリケルテス殿。エオスはやはりフランクベルトについたままか?」
「そのようだ」
メリケルテスは秀麗な眉をひそめ、苦々しい心境を吐露した。
「選帝侯が一堂に会することこそ、亡き父トリトンの望みだったのだが、力が及ばず。すまない」
「いや。それは貴殿ではなくエノシガイオス公が尽力なさればよかろう」
ゼピュロス公は片眉をあげ、昨今戦場に出たばかりで肩肘の張った若き指揮官を諌めた。
「少なくとも我が息子は、我が見せ場を奪うほどの手柄など立てておらぬ」
「ゼピュロス公よ。貴公が私生児なんぞにおべっかを使う必要はございませぬ」
ノトス公を祖父に持つノトス大使がボレアス大使に先んじて立ち直り、メリケルテスに非難を浴びせかけた。
「『選帝侯が一堂に会する』だと? エオスに限らず、ヘリオスすらこの場におらぬではないか」
メリケルテスは現在、エノシガイオス公パライモン八世から正式にエノシガイオス公子としての身位を認められており、各国にもそのように通達がなされている。
だがもとを辿れば、メリケルテスはトリトンの非嫡出子。ノトス大使に同じく、正当なる血筋を引く後継者とは認められまい。そのはずだ。
ノトス大使はメリケルテスにじっとりと恨みがましい視線を向けた。
中性的な美貌の持ち主と言えば聞こえはよいが、なよなよしい肩に薄っぺらい胸。まったくこの頼りなさときたらどうしたことだ。
サフラン色に染めた羊毛の一枚布でたっぷりとした襞をとり、肩にピン、細い腰にひもを巻かせてみれば、すぐさま高級娼婦として酒宴で活躍できるだろう。うまく道化を踊ってみせれば、抱いてやってもよい。
紅潮させた頬をひねってツンと細く尖った顎をわしづかみ、きゅっと締まった尻をたたき。よい声で鳴かせてやりたい。
屈辱の涙に濡れる双眸でこちらを睨む、哀れな公子。そのように情けない姿は、どんな娼婦にも勝るほど、おそろしく扇情的だろうに。
「選帝侯の選出を差し置き、帝位を独占し続ける強欲のヘリオスは、さてどこにいった」
ノトス大使は鼻息荒く石机に身を乗り出し、あたりを睨め回した。
「見当たらぬが?」
なによりメリケルテスなどと立派な名を与えられた、この私生児。彼には彼の父、英雄トリトンのような雄々しさなど、ひとかけらも見当たらぬではないか。
このような優男を果たして、エノシガイオスの次期君主と認めてよいものだろうか。
そもそもこの者は、先日ようやく戦場にて指揮をとったばかりの若造。たった一度の勝利に浮かれる愚か者は、選帝侯をトライデントに呼びつけようなどと、身の程をわきまえず、増長が過ぎる。
「ヘリオス家からは、ディオネ様がおられる」
好色と嫉妬で濁った眼差しから、メリケルテスは目を逸らした。
「ディオネ様は神殿に入る前の沐浴をなされているところだ。すぐにお姿を見せられよう」
目を逸らしたとて、ねっとりとこびりつくようなノトス大使の視線が皮膚の上を蠕虫がごとく這い回るよう、メリケルテスには感じられた。
ノトス大使の視線を振り払い身を守るため、膝上にきちんと並べていた拳を卓上にあげる。たっぷりとした襞袖からまろび出る素肌。石机に触れ、その冷たさがメリケルテスに生理的な震えを催す。
メリケルテスは卓上で両手を固く組み合わせた。
嫌悪と恐怖に震える姿を見せてはならない。彼はこれまでのような私生児、つまり悠久なる歴史の大海に埋もれるひと粒の砂ではなく、歴史に名を刻むべきエノシガイオス公子なのだ。
父や祖父、祖先に恥じない振る舞いをしなくてはならない。
「『ディオネ様』ですか」
血の気と落ち着きを取り戻し、椅子に腰掛け直したボレアス大使は、口の端をゆがめて笑った。
彼の祖先は市民階級ですらなく、流浪の外国人だ。奴隷同等の身分であったが、宮廷占い師として召し抱えられた。
結果、定住を約束させられ、そのよく当たる占いの褒美に、世襲ボレアス貴族として当時のボレアス公に認められた。その証が、彼の首にぶら下がる金鎖。小粒の紫水晶で囲われた空玉である。
「テイア帝国が扱いに困って、慈悲深く寛大なる英雄トリトンに押しつけた、あの白痴のことですね」
死して伝説となった英雄の威光を少しでも受け取ろうと、ボレアス大使は口をすぼめ、トリトンの名を味わうようにていねいに発音した。
「なるほど。英雄亡き今も、アレを帝国へ送り返さず誉れ高き寡婦としてトライデントに置いているのはなぜかと首を傾げておりましたが。ヘリオス家の名のために人質として養っていらしたのか」
ティア帝国の皇帝はかつて、エノシガイオス公やエオス公、ラオメドン公、ティトノス公、ゼピュロス公、ボレアス公、ノトス公、ヘリオス公といった八人の選帝侯によって選定された。
だがテイア帝国の皇帝の座はしだいに、家長自身も選帝侯としての役職に就くヘリオス家が独占するようになり、選帝侯の権限のうち皇帝の選出は、形骸化した。
エオス公は男子の絶えたティトノス家の女子と婚姻関係を結んだことで、ティトノス家の所有する財産と称号に帝国官位等を得て、ティトノス家は絶える。
ラオメドン家は戦に敗れて断絶。
ヘリオス家はテイア帝国皇帝に座するものの有名無実。かつての栄光からは遠く離れ、ほそぼそと存続している。
ゼピュロス家にボレアス家、ノトス家の三家は三すくみの状態で睨み合い。
エオシガイオス家は選帝侯のうち、もっとも先見の明があった家で、帝国外で最初に独立国を建立した家だ。
それというのも、テイア帝国とはそもそもがエノシガイオス人によるゆるやかな集合体であるからだ。
叙事詩『ギュリッポス』にて詩歌の女神が呼びかける、『エノシガイオスの息子たち』とは。
はてさて、つまりはテイア帝国に属する市民階級以上のひとびと――広義のエノシガイオス人を示すのである。
古典叙事詩『ギュリッポス』では、神の子エノシガイオス人としての故事来歴が明確に伝えられている。




