4 メリケルテスの寵愛(2)
ヴリリエール公女ジャンヌは知っていた。
彼女の婚約者となるはずの、エノシガイオス公子メリケルテスの来訪を。
体だけ大きく知性のない鈍重な牛のように扉前で佇む、卑しい邪教徒であるエノシガイオス衛兵が、酷い流感にかかって満足に声も出ないような、聞き苦しく耳障りなエノシガイオス語で叫ぶ前から。
裏切りの売女、フランクベルト王太后マリーが、この館に戻って早々、ジャンヌに予告してきたのだ。
親切顔を装って。慌ただしくも、弾んだ声色で。
それだから、メリケルテスの訪れにジャンヌが驚くことはない。そのはずだった。
だが、ジャンヌは少なからず驚いた。
男の口から出た言葉が、訛り混じりのフランクベルト語だったからだ。
『お加減はいかがでしょうか』
挨拶代わりの、無難な機嫌伺い。
もっと攻撃的な、こちらを卑しめる罵倒や皮肉が開口早々、飛び出てくるものと身構えていた。もちろんエノシガイオス語で。
あるいはジャンヌには口もきかないだろうと。彼の生母マリーだけを優遇し、あからさまな無視を決め込み、冷遇するのだろうと。
エノシガイオス公子メリケルテス。
南島トゥーニスを蹂躙し尽くした、悪夢のように残虐な野蛮人。
敬虔な信仰心も道徳も理性も慈悲もなく、邪神に通じ。その身に詰まっているのは悪徳のみ。
腹を切り裂いてやったら、邪悪な笑みを浮かべた悪魔が飛び出してくるに違いない。そうなればあたりは腐臭に満ち、葉は枯れ白い花々も黒く染まり、河川の水は濁って腐り、森は焼け落ち、イナゴの大群が作物を食い尽くす。
この世のありとあらゆる不幸がまき散らされるのだ。
ジャンヌの夫となるはずの敵国人は、そういった邪悪な極悪非道の悪魔で、きっと言葉など通じない。あるいは言葉を持たない粗野な野蛮人だろう。
なぜなら彼はエノシガイオス人なのだから。
ジャンヌはずっと、敵国エノシガイオスを憎悪していた。
父アンリに言い聞かせられるまでもなく。
ジャンヌのトライデント送りが、少年王レオンハルトによって命じられた日。
屋敷に戻った父アンリは、哀れな人身御供ジャンヌの不幸を嘆いたが、かといってこの沙汰を取り下げるよう王に嘆願するつもりもなく。またジャンヌとて抗議する気もなかった。
敵地へ入り込めということならば、ヴリリエールのため、延いてはフランクベルトのため。与えられた機会を生かすのみだ。
出立前、ジャンヌは父アンリに誓った。
たとえどれほどの苦境に立たされようとも、ヴリリエール公女として誇り高く振る舞うことを。
それだから、メリケルテスがジャンヌにまで差し当たって礼を示したことは、ややもするとジャンヌに肩透かしを食らわせた。
敵国エノシガイオス。その次期国主としてのさばる、野蛮人中の野蛮人に、まさかフランクベルトの言葉を用いる能があるとは。
それだけではない。
ジャンヌは女だ。女相手に気遣いを見せる度量を持ち合わせているとは。
ともすれば、このように下等な女相手に憐憫だか温情だかを見せることで、ジャンヌを懐柔しようという意図だろうか。安く見られたものだ。
ジャンヌは頭を下げたままモザイクタイルの床を睨み、改めて決意した。
決して負けはしまいと。
男に劣る女の身であろうとも、劣等なる野蛮人相手に、心理戦で負けるはずがない。
ジャンヌは誉れ高きヴリリエールの娘であるのだから。
ドレスをつまむ指先に力が込もり、灰白の枯れ枝のようなジャンヌの指は、ますますしなびたように色を失った。
◇
今日まで。
ジャンヌはマリーの指示に従い、与えられた客間でひっそりと養生するふりをしていた。
実際、ジャンヌの体調は芳しくなかった。
なかなかにない馬車での長旅は、足腰や尻など至る所を痛ませた。
書き物や刺繍、楽器の演奏といった、運動とも呼べないお粗末な運動。
そういった些細な運動もどきを除く、まっとうな運動を退けて生きていける傲慢なジャンヌの体は、この旅路によって散々に懲らしめられた。
今後はもう少し運動を日常に取り入れるよう、心がけた方がいいかもしれない。
それはさておき、気温が高すぎることもいけない。
ヴリリエールは王都フランクベルトほどではないにしろ、寒涼寄りの気候だ。
比べてここトライデントは、昼も夜もずっと温度の下がらないぬるま湯に浸っているようで、頭がぼうっとする。
加えて臭いだ。
塩辛い。苦い。生臭い。家畜小屋の籠もった糞臭。
腐臭もする。
日持ちするはずの塩漬け肉が腐り、それでも貴重な糧であるからと。ジャンヌを公女と知らず、備蓄食料の管理に出向いた執事の使いと勘違いし、厨房棟の食糧貯蔵室に案内した下女が、ジャンヌの鼻先に吊るした一切れの肉――。
海から吹く生温い風が馬車内に入り込むたび、少しずつ臭いが変わり、ジャンヌの鼻を突き刺す。
頭が狂いそうだ。
もともとジャンヌは、それほど体が強いほうではない。
骨と皮だけの痩せ細った体に宿る魂は、どんな男にも勝る気概に満ちている。だが、そうはいっても体力はない。
ジャンヌは一般的な貴族令嬢なのだ。
キャンベル家のナタリーのような、男に交じって戦場にまで出てしまう規格外の野猿令嬢とは違う。
トライデントに到着して間もなく。
案内された客室にて連れてきた扈従が荷物を点検し仕分けする一方で、貴婦人であるジャンヌとマリーは手持ち無沙汰に、薄めたワインで喉を潤し、馬車旅で凝り固まった体を休めていた。
彼女たちがそれぞれ信を置く高位の女扈従を侍らせ、柔らかく上質な亜麻布を張った長椅子に身を置いた。
マリーはゆったりと寝そべるようにして、横並びにある長椅子のうち、右手側のひとつへ。
ジャンヌは左手側のひとつに浅く腰掛け、開放したつま先を足台に載せた。すかさず彼女の扈従が毛織の膝掛けで、貴婦人のつま先を隠す。
「あまり顔色がよくないわね」
ワイン片手にイチジクをつまみ、マリーがジャンヌの顔を覗き込んだ。
「しばらく休みなさい。一日、二日と言わず、少なくとも十日は養生なさいな。トライデントの人間とは、私がやり取りしますから」
フランクベルト王太后マリー。
先王ヨーハンの正妃であり、現王レオンハルトの生母。加えて、エノシガイオス公子メリケルテスの生母でもある。
夫も愛人も亡くした、女盛りの未亡人。
腹の底から腐った売女だが、見た目だけは極上の美女だ。ジャンヌも認めざるをえない。
禁欲的な喪に身を包み、しっとりと優美な、そのうえ慈愛のこもった眼差しで微笑みかけられてしまえば、うっかり見惚れてしまう。
「お心配りに痛み入ります、王太后陛下」
ジャンヌは疲れを滲ませながらも、礼儀正しく答えた。
「けれども――王太后陛下にはおそれながら、お尋ねいたします――よろしいのでしょうか。仮にもメリケルテス公子殿下に嫁ぐよう求められた身で、表に出ず養生するなど、許されるのでしょうか」
ジャンヌはガラス杯を持っていることにすら疲労を覚え、ワインを一口飲んですぐさま、扈従の手に杯を押しつけた。
杯はミルフィオリ産の高級品だろう。
持ち手はごてごてと金で装飾され、ガラス全体にはぐるりと緻密なカットが施されている。鮮やかな青に染まる部分と無色透明な部分との対比が美しい。そして重い。
念のため、トライデント側が提供したワインは、彼等が去ったあとで、陶器の汚物入れに捨てさせた。
この時点で客人を害する毒を飲ませる利点は、敵側にとっても少ないだろう。とはいえ、妙な呪いでもかけられていたらたまらない。
毒の正体がわからなければ、フランクベルトの魔術師も解毒は難しい。
正常な状態とは果たしてどういうことかを厳密に――つまりは、優秀な魔術師たちが大学の研究室に籠もって、ある対象において本来の状態とは、正常とは異常とは、個体差におけるいくつかの差異についてはどういった場合において認められ、その許容範囲とはどれほどであるかなど、ああでもないこうでもないと数年かけて討論するような――見極め定義してからようやく、『あらゆる毒を取り除いた状態に戻す』という魔術式を考案することができる。
毒の正体が知れている場合の単純な解毒とは、魔術の難易度が桁違いだ。
そのうえ邪教徒の呪いなど、以ての外だ。
フランクベルトに呪い師はいない。
エノシガイオスの呪いとフランクベルトの魔法や魔術とでは、形態がまるで異なる。そもそも基盤となる神すら違うのだ。
容易に解けるはずがない。
そういったわけで、貴婦人ふたりが優雅に嗜んでいるのは、フランクベルトから持参したワインである。
酔いが回らないよう水で薄め、しかしながら水そのものではなく、弱りきったジャンヌにわずかでも滋養がつくよう、マリーがワインを勧めた。
ワインを薄めるために用いた水は、旅路の途中で汲んだ海水。
連れてきた扈従のうち数名が、梟のオルレアンから譲られた魔術師であったため、海水を浄化し、真水に変えることができた。
ジャンヌとマリーの連れてきた扈従たちの元来の雇用主は、彼女たちの生家、あるいは婚家であるヴリリエール、フランクベルト、リシュリューといった三家に限らない。
鷲のメロヴィング、馬のガスコーニュ、梟のオルレアン、蛙のアングレーム、豚のエヴルー。
法律、警護、医療、祝福、資産管理、その他さまざまな理由から、建国の七忠の家々よりまんべんなく提供された。
「トリトンの葬儀が、おそらく十日前後続くでしょう。英雄の国葬に、外国人は歓迎されません。あなたはおそらく、参列を拒否されるでしょうね」
マリーはジャンヌを慰めるかのように優しい口ぶりで言い聞かせ、それから悪戯っぽく笑った。
「もしかしたら私も」




