第9話「距離が縮まる」
第9話「距離が縮まる」
商会に入って、半年が過ぎた。
朝の空気に、冷たさが混じり始めている。倉庫には秋物の荷が並び、売り場は衣替えの客で賑わっていた。
荷運びにも、帳場の手伝いにも、ようやく慣れた。手ぬぐいの一件以来、ダグの口の悪さも、不思議と気にならなくなっている。
ただ、あの雨の夜から、俺の中で、一つだけ変わったことがある。
先輩の顔を、うまく見られなくなった。
仕事の話をしている間は、平気だ。原価でも、仕入れ値でも、いくらでも真面目に聞ける。けれど、ふとした拍子に、帳場の灯りの下の横顔が頭に浮かんで、台帳の数字が飛ぶ。
(商売の相手なら、何を考えているか、ちゃんと読めるのにな)
「アッシュくん」
「は、はいっ!」
勢いよく返事をしたせいで、先輩が目を丸くした。
「どうしたの? 声が大きいよ」
「すみません。少し、考え事を」
「そう。じゃあ、ちょうどいいかな」
先輩は、売り場の片付けを終えた俺の前に立って、編んだ髪の先を、指でくるくると巻いた。
「明日、お休みでしょう? 半年の区切りだし、食事に行かない? 後輩を労うのも、先輩の仕事だから」
仕事。そう言われれば、断る理由はない。むしろ、断る理由を探すほうがおかしい。
「……ぜひ。お願いします」
「よかった。じゃあ、夕方に、商会の前で」
先輩は、ほっとしたように笑った。その手が、まだ髪の先をいじっている。
(緊張、してる?)
珍しいものを見た気がして、その夜は、あまり眠れなかった。
連れていかれたのは、川沿いの小さな食堂だった。
窓から、夕暮れの水面が見える。壁の燭台には、小さな炎がともっていた。先輩が指先を向けると、隣のテーブルの蝋燭に、ぽっと火が移る。生活魔法で、店の主人が忙しい時の、ちょっとした手助けらしい。
「ここね、前から来てみたかったの。川魚の香草焼きが、おいしいんだって」
「先輩、詳しいんですね」
「友達に聞いただけ。実は、初めて入るの」
注文を済ませて、運ばれてきた果実水に口をつける。向かいに座る先輩は、仕事中より少しだけ幼く見えた。
(先輩は、俺のことを、どう思って誘ったんだ?)
頭の中で、つい分析を始めてしまう。
(労いなら、会頭の店とか、他にもあったはずだ。わざわざ、初めての店を選んだ。目的は何だ。……いや、相手の目的を、読もうとしている時点で、おかしい)
「アッシュくん?」
「はい!」
「また、考え事してる」
「すみません。あの、いい店だなって」
「ふふ。そう言ってもらえると、嬉しい」
香草焼きが、運ばれてきた。皮はこんがり、中は柔らかい。素直に、うまかった。
しばらく、仕事の話をした。手ぬぐいの件、反物の件、問屋の若い店主のこと。先輩は、俺の話に、何度も頷いてくれた。
「初めて原価の話をした日のこと、覚えてる?」
「塩の例えで、教えてもらいました」
「そう。私、すごく緊張してたの。アッシュくんが、あんまり真剣な顔で聞いてくれるから。間違えたらどうしよう、って」
「全然、そんな風には」
「手帳の角、ずっと叩いてたでしょう? あれ、緊張してる時の癖なの」
先輩は、くすくす笑った。
「アッシュくん、来てくれて、本当に助かってる」
「いえ、私のほうこそ」
「違うの。私ね、アッシュくんが来る前は、すごく悩んでたの」
先輩は、フォークを置いた。
「見習いを卒業したばかりで、いきなり後輩を持たされて。何から教えたらいいのか、全然分からなくて」
「そんな風には、見えませんでした」
「見せないようにしてたの。毎晩、手帳に書いてた。明日は何を教えよう、どう言ったら伝わるかな、って」
先輩は、少し照れたように笑う。
「あの手ぬぐいのときもね。本当は、すぐに助けてあげたかった。でも、手を出したら、アッシュくんのためにならないって、自分に言い聞かせて。毎日、売り場から、ちらちら見てた」
「……宿屋街の角で、淡い青の服を見かけた気がしたんですが」
「あ、気づいてた?」
先輩は、顔を赤くして、俯いた。
「教えるって、難しいね。私、全然、先輩らしくないのに」
「そんなことないです」
思わず、声が出た。
「先輩がいたから、あの損を、材料にできました。あの夜、先輩が灯りをつけてくれなかったら、私は一人で、数字を睨んだまま、動けなかったと思います」
言ってから、自分の言葉の重さに、顔が熱くなった。
先輩は、きょとんとして、それから、ゆっくり微笑んだ。
「……そっか。なら、私も、少しは先輩だったんだね」
その後、デザートの焼き林檎が運ばれてきた。甘い香りの湯気越しに、先輩が、ふと質問してきた。
「アッシュくんは、どうして商人になりたいと思ったの?」
「面白いからです。商売って。物が動いて、人が動いて、お金が動く。それを見ているのが、好きで」
「そっか。じゃあ、ぴったりだ」
「先輩は?」
「私? 実家が、商会なの」
さらっと言われて、手が止まった。
「帝都で、商売をしている家なんだ。だから、小さい頃から、帳簿の匂いが身近で。『よその釜の飯を食べてきなさい』って、この商会に預けられたの」
そう言われて、納得した。
仕立ての良い服。昼の白いパン。商会の娘が、他所の商会で修行をする。この世界では、珍しい話ではない。
(それで、教え方が、あんなに丁寧なのか)
「そうなんですね。……お家の方は、心配されてるでしょうね。こんなに遅くまで」
「大丈夫。商人の娘だもの。それより」
先輩は、焼き林檎をつつく手を止めて、俺をじっと見た。
「アッシュくんは、夜、仕事が終わったら、何してるの?」
「部屋で寝てるか、本を読んでるか。それだけです」
「誰かと、会ったりは?」
「いません。誰とも」
答えながら、(どうして、こんな質問を)と思う。思ってから、気づいた。
先輩の編んだ髪の先が、指に、ぎゅっと巻きついている。
「……私もね」
先輩は、小さな声で言った。
「こうして、誰かと夜に食事するの、すごく久しぶり。今日、思ったより、楽しかったの」
「私も、です」
「ほんとに?」
「はい。……すごく」
沈黙が、降りた。
窓の外で、川が静かに流れている。燭台の火が、ゆらりと揺れた。
「じゃあ、アッシュくん」
先輩が、顔を上げた。頬が、ほんのり赤い。
「これからも、たまに、こうして食事に付き合ってくれる? 仕事のお疲れさまじゃなくて」
仕事じゃなくて。
言葉の意味を、頭の中で、ゆっくりなぞる。
「それって」
「うん。そういうことに、してくれると、嬉しいな」
心臓が、うるさい。商談の場なら、どんな駆け引きの時でも、こんなに乱れたことはなかった。
「……はい。喜んで」
声が裏返らなかったのは、奇跡に近い。
先輩は、ほっと息を吐いて、へにゃりと笑った。
食堂を出ると、夜風が、火照った頬に気持ちよかった。
川沿いの道を並んで歩く。肩と肩の間は、人ひとり分、空いている。何度か、手の甲が触れそうになって、そのたびに、お互い、何でもない顔で、少しだけ距離を取り直した。けれど、その空き具合が、昼間より、少しだけ近い気がした。
商会の裏手が近づいた頃、先輩が、足を止めた。
「アッシュくん」
「はい」
「今度の休み、街を歩かない?」
月明かりの中で、先輩は、少しだけ、いたずらっぽく笑っていた。




