第10話「人を見る」
第10話「人を見る」
「今週の宿題を出します」
朝の打ち合わせのあと、先輩は、いつもの穏やかな声で言った。
「お店の人たちを、よく見ること。誰が、何を、上手にやっているか。一週間後に、気づいたことを聞かせてね」
「人、ですか。商品や帳簿じゃなくて」
「うん。人」
それだけ言って、先輩は、手帳を閉じた。
昨夜、川沿いの道で別れた時の、いたずらっぽい笑顔は、どこにもなかった。仕事の時の先輩は、いつも通りの、落ち着いた指導役だ。
(切り替え、早いな)
安心したような、少しだけ、寂しいような。そんな気持ちを、棚卸しの数字の中に押し込めて、俺は倉庫の奥へ向かった。
まず、目に入ったのは、売り場の接客だった。
ミレイさんという、二十代半ばの女性の店員がいる。いつも、袖をまくって、てきぱきと動き回っている人だ。
その日は、気難しそうな老婦人が来ていた。
「悪いけど、この布、色が気に入らないのよ」
「そうですよね。実は私も、最初はそう思ったんです」
ミレイさんは、肩をすくめて笑った。
「でも、このくすんだ色、窓辺のカーテンに使うと、不思議と落ち着くんですよ。お客さん、お部屋は、日当たりが良いほうですか?」
老婦人は、一瞬ぽかんとしてから、目を細めた。
「……そうねえ。日当たりは、いいのよ。西向きでね」
「なら、ちょうどいいです。夕方の光が、この色をきれいに見せてくれますよ」
結局、老婦人は、予定の倍の布を買って帰っていった。帰り際に、「また来るわね」と言い残して。
(売ったんじゃない)
見ていて、そう思った。ミレイさんは、客の欲しいものを、聞き出しただけだ。
次に、検品台の前で足が止まった。
ロルフさんが、届いたばかりの麻布を一巻、台に広げている。三十代の無口な男で、荷を扱うときは、ほとんど喋らない。
彼は、布の端をつまんで、一度だけ、指先に小さな灯りを浮かべた。豆粒より、さらに小さな光。それを布の裏側から当てて、織りの目を、じっと透かして見る。
「……染めが、甘いな。この一巻だけ、色が抜ける」
同じ生活魔法で、俺は手元を照らすのがやっとなのに。使い方ひとつで、こんな目利きになるのか。
「ロルフさん、どうして分かるんですか」
「光の通り方が、違う」
それだけ答えて、ロルフさんは、また黙々と作業に戻った。
最後に、帳場だ。
オットーさんは、いつもの席で、帳面を睨んでいた。数字の列を、指でなぞるだけで、間違いを見つけ出す。昨日も、問屋の請求書の桁が一つ違っていたのを、一目で見抜いた。
(数字を見る人。客を見る人。物を見る人)
三人が三人とも、俺にはできない見方をしている。
そして、その日の午後。
売り場が、急に慌ただしくなった。
季節の変わり目で、客が一気に押し寄せたのだ。その中で、ミレイさんが、泣きそうな顔で、帳場に駆け込んできた。
「オットーさん、お願い! この数字、合わなくて。助けて!」
「……また、お前か」
オットーさんは、ため息をつきながら、数字を数え直し始めた。数分で、ミレイさんが書いた伝票の間違いを、全部直してしまった。
「ありがとう! 本当に助かる!」
「次は、桁を書いたら、必ず指で追え」
「はーい!」
ミレイさんは、笑顔で売り場へ駆け戻っていった。
(あんなに接客がうまいのに、数字は苦手なんだ)
別の日には、ロルフさんが、客の相手をさせられて、困っていた。
「この布は、いい布だ」
「え、でも、どこがいいんですか?」
「……光の通りが、いい」
客が、首を傾げたまま、帰っていってしまった。
人は、全部が全部、できるわけじゃない。
けれど、それぞれが、得意なところだけは、驚くほど深い。
(だったら、この店は)
頭の中で、何かが、ぱちんとつながった気がした。
その日の夕方、倉庫の隅で、一人で考え込んでいたら、ダグが、後ろから肩を叩いた。
「何、ジロジロ見て回ってんだ。一日中」
「あ、すみません。先輩の宿題で」
「宿題?」
事情を話すと、ダグは「ほう」と、腕を組んだ。
「で、何か分かったか」
「ミレイさんは客の本音を聞き出すのが上手くて、ロルフさんは荷の目利き。オットーさんは数字。でも、全員が全員、苦手もあります」
「ほう」
「だから、それぞれの得意なことを、得意な人に任せたほうが、店は回るんじゃないかって」
ダグは、しばらく黙っていた。それから、にやりと笑った。
「やっと、気づいたか」
「え?」
「この倉庫の割り振り、全部、俺が決めてんだ。ミレイを数字に回さねえ。ロルフを客の前に出さねえ。ずっと、そうしてる」
ダグは、胸を張った。
「力仕事は、お前ら若いのに任せるがな。人を見るのだけは、得意でな」
そうか。この倉庫が回っているのは、ダグさんが、人を見て、割り振ってきたからだ。
(口は悪いけど、この人も)
「ダグさんも、すごいです」
「当たりめえだ。今さら気づくな」
「じゃあ、自分は、何の担当に見えますか」
何気なく聞いたつもりだったが、ダグは、じろりと俺を上から下まで眺めた。
「お前は、まだ何でも屋だ。何をやらせても、そこそこ。だが、人の話を聞いて、物を見る目は、悪くねえ。何が得意になるかは、これから決まる」
「これから、ですか」
「そうだ。焦るな」
ダグは、鼻を鳴らして、それから、急に声を落とした。
「ところでよ」
「はい」
「お前、アニーの顔を見る時だけ、目が泳いでんぞ」
心臓が、止まりかけた。
「な、何のことですか」
「昼休みに、目を合わせねえ時間が、長すぎる。しかも、アニーのほうも、同じだ」
「それは、仕事中だからで」
「ほう。仕事中だから、な」
ダグは、にやにやしている。
「誰にも言わねえよ。面白えからな」
「からかわないでください」
「からかってねえ。見守ってんだ」
ダグは、笑いながら去っていった。後ろ姿を見送りながら、俺は、熱くなった頬を、手の甲で押さえた。
(……この人に、隠し事は、無理だ)
その夜、部屋で、観察した内容を紙にまとめた。
ミレイさん。客の本音を聞き出す。数字は苦手。
ロルフさん。荷の目利き。接客は苦手。
オットーさん。数字と間違い探し。
ダグさん。人を見て、割り振る。
四人の名前を書き並べて、ペンを止める。同じ倉庫の中にいても、誰一人、同じ仕事をしていない。その全部がかみ合って、初めて、店は動いている。
(一人で何でもやる商人より、人を活かせる商人のほうが、大きくなれるのかもしれない)
その考えは、まだ形にならないまま、ふわりと頭の隅に浮かんで、消えた。
一週間後、宿題を提出した。
先輩は、俺のまとめた紙を、一枚ずつ、ゆっくり読んだ。それから、顔を上げた。
「いいところに気づいたね。人は、全部できなくていいの。得意な人を見つけて、任せる。それが、店を回すってこと」
「会頭は、それが一番、上手い人なんでしょうか」
「そう。会頭は、人を見る名人だから。いつか、アッシュくんにも、その目が育つといいね」
先輩は、紙を机に置いて、すっと、声を落とした。
「……明日の休み、楽しみにしてる」
「え、あ、はい!」
また、声が大きくなった。先輩が、口元を押さえて、笑いをこらえている。
帳場を出てから、明日の天気を、何度も確かめた。
雲は、ない。空は、高く晴れていた。




