第11話「最初のデート」
第11話「最初のデート」
約束の朝は、雲ひとつない快晴だった。
商会の前に立って、俺は、もう三回目になる袖口の確認をしていた。休日用の服は、安物の麻のシャツが一枚だけ。見習いの給金では、それ以上の服には手が届かない。
(変じゃないよな。変じゃ、ないはずだ)
「お待たせ、アッシュくん」
振り向いて、思わず息を止めた。
先輩は、淡い草色のワンピースを着ていた。仕事中の動きやすい服とは、まるで違う。編んだ髪には、細い白のリボンが結んである。
「……早いですね」
「アッシュくんこそ。ずいぶん待たせちゃった?」
「いえ、今、来たところです」
嘘だった。一時間前から、ここにいた。
「そう。じゃあ、行こうか」
先輩が、ほんの少しだけ照れたように笑って、歩き出した。その半歩後ろを、俺は並ぶべきか迷いながら、ついていった。
先輩が行きたがっていたのは、帝都の南にある、雑貨の露店通りだった。
石畳の両側に、小さな屋台が、ずらりと並んでいる。ガラス細工、革の小物、香り袋、細い鎖の首飾り。どの店も、色とりどりの品を、陽の下に広げていた。
「わあ。こんなに、あるんだね」
先輩は、目を輝かせて、一軒目の屋台に駆け寄った。髪飾りが並んだ台を、真剣な顔で覗き込む。
その横で、俺は、つい、並んだ品を眺めてしまった。
(銀細工風の髪留めか。本物の銀じゃない。たぶん、錫の合金に、薄く磨きをかけたものだ。原価は銅貨三十枚いかないな。売値は百二十。四倍か。強気だな)
「どうしたの?」
「あ、いえ。あの髪留め、売値が原価の四倍くらいで」
「え?」
「たぶん、材料は錫で。ただ、細工は丁寧なので、手間賃を考えると、まあ、妥当、ですかね」
先輩が、ぽかんとして、それから、噴き出した。
「アッシュくん」
「はい」
「今日は、商売じゃないでしょう?」
笑いすぎて、先輩の肩が震えている。
「すみません。つい」
「ふふっ、いいの。でも、せっかくのお休みなんだから、値段じゃなくて、きれいかどうかで見てみて」
「きれいかどうか、ですか」
「そう。たとえば、これ」
先輩が、青いガラスの小さなペンダントを、手のひらに乗せた。光に透かすと、深い海のような色が、揺れる。
「……きれい、ですね」
「でしょう?」
「はい。それに、ガラスの厚みが均一で、気泡が少ない。職人の腕が」
「アッシュくん」
「すみません」
また、二人で笑った。
屋台を二つ、三つと巡るうちに、俺の肩の力も、少しずつ抜けていった。
通りの角で、焼き栗の屋台に寄る。屋台の主人が、指先から小さな炎を出して、栗を温め直してくれた。
「熱いから、気をつけてな」
「ありがとうございます」
袋を受け取って、先輩と並んで、石段に腰を下ろす。甘い香りが、湯気と一緒に立ちのぼった。
「そういえば」
栗の皮を剥きながら、俺は、前から気になっていたことを聞いた。
「ダグさんが、先輩のこと、アニーって呼んでましたよね」
「ああ、聞こえちゃった?」
先輩は、少し照れたように、髪の先をくるくる巻いた。
「アデリーナだと、長いでしょう? 小さい頃から、家でもずっと、アニーなの」
「そうなんですね」
「商会に来た初日にね、ダグさんに言われたの。『アデリーナなんて、舌が回らねえ』って。それで、アニーでいいって答えたら、それっきり」
その時のダグの顔が、目に浮かぶようだった。
「アッシュくんは、呼ばないの?」
「えっ」
先輩が、栗を口に運びながら、横目で俺を見た。冗談めかした口調。けれど、その目は、案外、真剣だった。
「……先輩は、先輩ですから」
少しの間、先輩は、何も言わなかった。
「そっか」
それだけ言って、先輩は、小さく笑った。
(呼べない、んじゃない。呼ぶのが、怖いんだ)
自分でも、理由が分からなかった。その名前を口にしたら、何かが変わってしまう気がした。
「……いい名前ですね」
やっとのことで、それだけ言った。
先輩は、驚いたように目を瞬かせて、それから、嬉しそうに頷いた。
「うん。私も、気に入ってる」
通りの一番奥まで来た頃、一軒の屋台の前で、足が止まった。
石畳の端に、擦り切れた布を一枚敷いただけの、小さな露店だった。台の上には、小さな箱や瓶、革の袋が、雑然と並べられている。
どれもこれも、傷だらけだった。
蓋の角が欠けた木箱。擦れて色の剥げた革の袋。ひびの入った小さな瓶。店主らしい若い男は、台の奥で、頬杖をついて、ぼんやりと空を眺めていた。二十代の前半だろうか。眠そうな目で、客を呼び込む気配もない。
「ここ、傷物ばかりだね」
「はい。でも」
近づいて、一番手前の箱に目を落とした。蓋の角は欠けている。けれど、中に収められた縫い針の束は、どれも真っすぐで、錆びひとつない。
「この針。箱は傷物ですけど、針は、上等です」
「え?」
「こっちの革袋も。表の皮は擦れてるけど、縫い目が細かくて、金具が重い。いい仕事です。瓶のほうも、割れているのは外側だけで、中の香油は」
蓋を、そっと嗅いだ。
「……いい香りです。混ぜ物のない、本物の香油ですね」
台の奥の男が、ぴくりと動いた。頬杖を外して、初めて、こちらを見る。
「お」
眠たげだった目が、少しだけ、見開かれた。
「分かるのか」
「中身は、悪くないと思いました。外装の傷さえなければ、ここの倍の値で売れる品ばかりです」
「ふうん」
露店の男は、にやりとも笑わず、ただ、俺をじっと見た。
「若いのに、目はあるな」
「いえ。たまたま、気になっただけで」
「たまたま、で、針の質は見ねえよ」
低い声で、ぼそりと言う。
(この人、ぼんやりして見えて、全部、分かってて並べてるんだ)
傷物にして、安く。けれど、中身は、本物ばかり。そんな品を仕入れて、売る。簡単そうで、目利きと、確かな仕入れ先がなければ、絶対にできない商売だった。
(どこから仕入れているんだろう)
喉まで出かかった言葉を、飲み込んだ。聞くのは、商人としてのマナー違反だ。
「アッシュくん、見て」
先輩が、台の端の革の小物入れを手に取っていた。小さな手帳の、表紙を覆うカバーだ。革は濃い茶色で、角に、擦れた傷が一つある。
「これ、私の手帳に、ちょうど合いそう」
「あ、いいですね。革が、しなやかです」
「いくら?」
男は、値札も見ずに答えた。
「銅貨、百五十」
「え、もう少し、まかりませんか」
「……百三十」
「もう一声、お願いします」
「……百二十。これ以上は、無理だ」
「ありがとうございます!」
先輩は、嬉しそうに銅貨を渡した。
その横で、俺は、こっそり計算していた。傷を理由に値を下げて、百二十。それでも、仕入れ値より、はっきり上のはずだ。無理な値引きではなく、元から、ここまでは下げられる値付けにしてある。
(損は、してない。ぜんぜん)
男は、受け取った銅貨を、何でもなさそうに、懐へ落とした。
「毎度。また来い」
「はい。また来ます」
そう答えたのは、先輩だった。
店を離れてから、先輩が、小さな袋に入ったカバーを、大事そうに抱えた。
「いいお店だったね」
「はい。……ああいう商売の仕方も、あるんですね」
「アッシュくん、また分析してる」
「すみません」
「ううん。今日は、いいの」
先輩は、くすくす笑った。
「そういうところ、嫌いじゃないから」
何気ないように言われた言葉が、胸の奥に、ずっと残った。
夕方、川沿いの道を並んで歩いた。
空が、橙色に染まっていく。水面に、街の灯りが、少しずつ映り始めていた。
肩が触れ合うほど近い。何度か、手の甲が触れて、そのたびに、どちらも、気づかないふりをした。
三度目に触れた時、先輩の指が、そっと、俺の指先を握った。
ほんの少しだけ。温かい。
(あ)
俺は、握り返した。声が、出なかった。
先輩は、前を向いたまま、小さな声で言った。
「今日、すごく楽しかった」
「私もです」
「また、来たいな」
夕焼けの中で、先輩の横顔が、ふわりと笑った。
「はい。また、来ましょう」
つないだ手を、離さないまま、俺たちは、ゆっくり、帰り道を歩いた。




