↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大商人の軌跡  作者: なるみくん
第1章 帝都修行編
11/69

第11話「最初のデート」

第11話「最初のデート」


約束の朝は、雲ひとつない快晴だった。


商会の前に立って、俺は、もう三回目になる袖口の確認をしていた。休日用の服は、安物の麻のシャツが一枚だけ。見習いの給金では、それ以上の服には手が届かない。


(変じゃないよな。変じゃ、ないはずだ)


「お待たせ、アッシュくん」


振り向いて、思わず息を止めた。


先輩は、淡い草色のワンピースを着ていた。仕事中の動きやすい服とは、まるで違う。編んだ髪には、細い白のリボンが結んである。


「……早いですね」

「アッシュくんこそ。ずいぶん待たせちゃった?」

「いえ、今、来たところです」


嘘だった。一時間前から、ここにいた。


「そう。じゃあ、行こうか」


先輩が、ほんの少しだけ照れたように笑って、歩き出した。その半歩後ろを、俺は並ぶべきか迷いながら、ついていった。


先輩が行きたがっていたのは、帝都の南にある、雑貨の露店通りだった。


石畳の両側に、小さな屋台が、ずらりと並んでいる。ガラス細工、革の小物、香り袋、細い鎖の首飾り。どの店も、色とりどりの品を、陽の下に広げていた。


「わあ。こんなに、あるんだね」


先輩は、目を輝かせて、一軒目の屋台に駆け寄った。髪飾りが並んだ台を、真剣な顔で覗き込む。


その横で、俺は、つい、並んだ品を眺めてしまった。


(銀細工風の髪留めか。本物の銀じゃない。たぶん、錫の合金に、薄く磨きをかけたものだ。原価は銅貨三十枚いかないな。売値は百二十。四倍か。強気だな)


「どうしたの?」

「あ、いえ。あの髪留め、売値が原価の四倍くらいで」

「え?」

「たぶん、材料は錫で。ただ、細工は丁寧なので、手間賃を考えると、まあ、妥当、ですかね」


先輩が、ぽかんとして、それから、噴き出した。


「アッシュくん」

「はい」

「今日は、商売じゃないでしょう?」


笑いすぎて、先輩の肩が震えている。


「すみません。つい」

「ふふっ、いいの。でも、せっかくのお休みなんだから、値段じゃなくて、きれいかどうかで見てみて」

「きれいかどうか、ですか」

「そう。たとえば、これ」


先輩が、青いガラスの小さなペンダントを、手のひらに乗せた。光に透かすと、深い海のような色が、揺れる。


「……きれい、ですね」

「でしょう?」

「はい。それに、ガラスの厚みが均一で、気泡が少ない。職人の腕が」

「アッシュくん」

「すみません」


また、二人で笑った。


屋台を二つ、三つと巡るうちに、俺の肩の力も、少しずつ抜けていった。


通りの角で、焼き栗の屋台に寄る。屋台の主人が、指先から小さな炎を出して、栗を温め直してくれた。


「熱いから、気をつけてな」

「ありがとうございます」


袋を受け取って、先輩と並んで、石段に腰を下ろす。甘い香りが、湯気と一緒に立ちのぼった。


「そういえば」


栗の皮を剥きながら、俺は、前から気になっていたことを聞いた。


「ダグさんが、先輩のこと、アニーって呼んでましたよね」

「ああ、聞こえちゃった?」


先輩は、少し照れたように、髪の先をくるくる巻いた。


「アデリーナだと、長いでしょう? 小さい頃から、家でもずっと、アニーなの」

「そうなんですね」

「商会に来た初日にね、ダグさんに言われたの。『アデリーナなんて、舌が回らねえ』って。それで、アニーでいいって答えたら、それっきり」


その時のダグの顔が、目に浮かぶようだった。


「アッシュくんは、呼ばないの?」

「えっ」


先輩が、栗を口に運びながら、横目で俺を見た。冗談めかした口調。けれど、その目は、案外、真剣だった。


「……先輩は、先輩ですから」


少しの間、先輩は、何も言わなかった。


「そっか」


それだけ言って、先輩は、小さく笑った。


(呼べない、んじゃない。呼ぶのが、怖いんだ)


自分でも、理由が分からなかった。その名前を口にしたら、何かが変わってしまう気がした。


「……いい名前ですね」


やっとのことで、それだけ言った。


先輩は、驚いたように目を瞬かせて、それから、嬉しそうに頷いた。


「うん。私も、気に入ってる」


通りの一番奥まで来た頃、一軒の屋台の前で、足が止まった。


石畳の端に、擦り切れた布を一枚敷いただけの、小さな露店だった。台の上には、小さな箱や瓶、革の袋が、雑然と並べられている。


どれもこれも、傷だらけだった。


蓋の角が欠けた木箱。擦れて色の剥げた革の袋。ひびの入った小さな瓶。店主らしい若い男は、台の奥で、頬杖をついて、ぼんやりと空を眺めていた。二十代の前半だろうか。眠そうな目で、客を呼び込む気配もない。


「ここ、傷物ばかりだね」

「はい。でも」


近づいて、一番手前の箱に目を落とした。蓋の角は欠けている。けれど、中に収められた縫い針の束は、どれも真っすぐで、錆びひとつない。


「この針。箱は傷物ですけど、針は、上等です」

「え?」

「こっちの革袋も。表の皮は擦れてるけど、縫い目が細かくて、金具が重い。いい仕事です。瓶のほうも、割れているのは外側だけで、中の香油は」


蓋を、そっと嗅いだ。


「……いい香りです。混ぜ物のない、本物の香油ですね」


台の奥の男が、ぴくりと動いた。頬杖を外して、初めて、こちらを見る。


「お」


眠たげだった目が、少しだけ、見開かれた。


「分かるのか」

「中身は、悪くないと思いました。外装の傷さえなければ、ここの倍の値で売れる品ばかりです」

「ふうん」


露店の男は、にやりとも笑わず、ただ、俺をじっと見た。


「若いのに、目はあるな」

「いえ。たまたま、気になっただけで」

「たまたま、で、針の質は見ねえよ」


低い声で、ぼそりと言う。


(この人、ぼんやりして見えて、全部、分かってて並べてるんだ)


傷物にして、安く。けれど、中身は、本物ばかり。そんな品を仕入れて、売る。簡単そうで、目利きと、確かな仕入れ先がなければ、絶対にできない商売だった。


(どこから仕入れているんだろう)


喉まで出かかった言葉を、飲み込んだ。聞くのは、商人としてのマナー違反だ。


「アッシュくん、見て」


先輩が、台の端の革の小物入れを手に取っていた。小さな手帳の、表紙を覆うカバーだ。革は濃い茶色で、角に、擦れた傷が一つある。


「これ、私の手帳に、ちょうど合いそう」

「あ、いいですね。革が、しなやかです」

「いくら?」


男は、値札も見ずに答えた。


「銅貨、百五十」

「え、もう少し、まかりませんか」

「……百三十」

「もう一声、お願いします」

「……百二十。これ以上は、無理だ」

「ありがとうございます!」


先輩は、嬉しそうに銅貨を渡した。


その横で、俺は、こっそり計算していた。傷を理由に値を下げて、百二十。それでも、仕入れ値より、はっきり上のはずだ。無理な値引きではなく、元から、ここまでは下げられる値付けにしてある。


(損は、してない。ぜんぜん)


男は、受け取った銅貨を、何でもなさそうに、懐へ落とした。


「毎度。また来い」

「はい。また来ます」


そう答えたのは、先輩だった。


店を離れてから、先輩が、小さな袋に入ったカバーを、大事そうに抱えた。


「いいお店だったね」

「はい。……ああいう商売の仕方も、あるんですね」

「アッシュくん、また分析してる」

「すみません」

「ううん。今日は、いいの」


先輩は、くすくす笑った。


「そういうところ、嫌いじゃないから」


何気ないように言われた言葉が、胸の奥に、ずっと残った。


夕方、川沿いの道を並んで歩いた。


空が、橙色に染まっていく。水面に、街の灯りが、少しずつ映り始めていた。


肩が触れ合うほど近い。何度か、手の甲が触れて、そのたびに、どちらも、気づかないふりをした。


三度目に触れた時、先輩の指が、そっと、俺の指先を握った。


ほんの少しだけ。温かい。


(あ)


俺は、握り返した。声が、出なかった。


先輩は、前を向いたまま、小さな声で言った。


「今日、すごく楽しかった」

「私もです」

「また、来たいな」


夕焼けの中で、先輩の横顔が、ふわりと笑った。


「はい。また、来ましょう」


つないだ手を、離さないまま、俺たちは、ゆっくり、帰り道を歩いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。