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大商人の軌跡  作者: なるみくん
第1章 帝都修行編
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第12話「帳簿の向こう側」

第12話「帳簿の向こう側」


「今日は、帳簿の読み方を教えます」


昼下がりの帳場で、先輩は、分厚い台帳を机の上にどんと置いた。


オットーさんは、取引先との帳合わせで、朝から外出している。広い帳場には、俺と先輩の二人きりだった。


「これは、去年一年分の仕入れ台帳。数字がぎっしりでしょう?」

「……はい。目が回りそうです」

「大丈夫。慣れれば、地図になるから」


先輩は、いつもの穏やかな口調で、背筋をすっと伸ばした。


その横顔を、つい、じっと見てしまう。


(この人、先週の休みに、俺の手を握ったんだよな)


川沿いの夕暮れ。指先の温かさ。手を握り返した時の、頭の中が真っ白になった感覚。思い出すだけで、顔が熱くなりかける。


なのに、今、目の前にいる先輩は、完全に指導役の顔をしていた。声の調子も、視線の向け方も、あの日とはまるで別人だ。


(切り替え、すごいな)


感心しつつ、少しだけ、悔しいような気もした。


「アッシュくん、聞いてる?」

「は、はい! 聞いてます」

「まず、一番上から、麻布の仕入れを見てみて。縦に、単価を追っていくの」


言われた通りに、人差し指で数字をなぞった。


春の初めは、七百枚近い。それが、夏にかけて、少しずつ下がっていく。秋に入ると、六百枚前後で落ち着いた。


「あ。値段が、季節で動いてます」

「どうして?」

「麻の刈り入れが、夏の前後だから。刈る前は、畑にまだ麻がなくて、値が上がる。刈ったあとは、たくさん出回って、下がる」

「そう。数字の動きは、畑や、天気や、季節の動きが、そのまま映っているの。帳簿は、世界の動きの、小さな写しなんだよ」


(世界の、写し)


その言葉に、頭の奥が、ちりっとした。


遠く離れた場所の出来事が、数字になって、この紙の上に並んでいる。見知らぬ畑の、見知らぬ誰かの仕事が、俺の指先の数字に、繋がっている。


不思議な感覚だった。


どこかで、同じような景色を見た気がする。たくさんの人が、見えない糸で繋がっている景色。


「次は、横に見るよ。仕入れ先と、支払いの日付」


先輩の声で、現実に引き戻された。


横の欄には、取引先の名前と、お金を払った日が並んでいる。


「あ、ここ」


見覚えのある名前があった。


「ゲルト親方。穀物問屋の」

「覚えてたんだね。あの日の取引、ここに載ってる」


指でなぞると、『半金前払い』という書き込みが、そこにあった。


「アッシュくんが提案してくれた、前払いの半金。あれ、数字だけ見たら、ただの『支払い方法の変更』でしょう?」

「はい」

「でも、あの半金は、ゲルトさんの職人さんたちの、今日の日当だった。数字の後ろに、人の事情が、ちゃんと隠れてるの」


あの日の、ゲルトの疲れた顔が、浮かんだ。


数字は、ただの数字じゃない。誰かの暮らしの、一部だ。


その時、帳場の入口に、人の気配がした。


顔を向けると、ダグが、戸口の柱にもたれかかって、こちらを見ていた。


俺と先輩は、一冊の台帳を、二人で覗き込んでいる。頭と頭が、ずいぶん近い。


ダグは、何も言わなかった。ただ、にやりと口の端を上げて、親指で自分の肩を、とんと叩く。それから、さっさと去っていった。


「ダグさん、どうしたのかな? 何か用事だったのかしら」

「……さあ。何でも、ないと思います」


先輩は、まったく気づいていなかった。


(あの人、絶対に、あとでからかってくる)


咳払いをして、台帳に視線を戻す。


「じゃあ、次。売り先の台帳も見てみよう」


先輩は、別の台帳を引き寄せた。こちらは、商会が売った相手と、お金が入った日が記されている。


「この、仕立屋組合の親方を見て。何か、気づく?」


指でなぞって、はっとした。


「支払いが、遅れてます。去年の春は、いつも月末だったのに、秋からは、十日ほど遅れて」

「そう。ここだけ、少しずつ、遅れが大きくなってるの」

「……資金繰りが、苦しいんでしょうか」

「かもしれない。でもね、アッシュくん」


先輩は、台帳の数字を、指でそっと叩いた。


「こういう数字を見つけた時、すぐに取引を切るのは、簡単なの。でも、それだけだと、ただの冷たい商人。まずは、理由を聞いてあげるのが先」

「理由を」

「うん。病気かもしれないし、お店の大事な職人さんが、辞めたのかもしれない。事情が分かれば、支払いの期日を調整して、一緒に乗り越えられることもあるから」


(そうか)


数字の異変は、問題の始まりじゃない。相手が、何かに困っているという、合図なのだ。


「それに、助けた相手は、助けてもらったことを、ずっと覚えてる。信用って、そういうところから育つんだよ」


先輩の言葉が、胸に、すとんと落ちた。


ふと、台帳の後ろのほうに、細い字の一行を見つけた。


『預かり品・外国品・港経由』


(倉庫の隅にある、あの木箱のことか)


三つの木箱。読めない文字の焼印。港から来たものが、どうしてこの店の倉庫に、預けられているのか。それ以上は、台帳には書かれていなかった。


(今度、ダグさんに聞いてみよう)


そのまま、ページをめくる手が、止まった。


一ヶ月分の、赤い数字が並んだ行。


『手ぬぐい・損・九百枚』


あの雨の夜の、数字だった。


けれど、その行の下には、さらに小さな書き込みがあった。俺が書いた、あの一行。『長雨を読まなかった。ただし、雨の年は、麻の布巾が不足する』


そして、その隣に、小さな字が、もう一つ。


『川沿いの食堂、五枚』『宿屋の洗い場、二十枚』


食堂の主人の、濡れた布巾を持った姿が、浮かんだ。宿屋の洗い場の女将の、困った顔。魔法でも追いつかない、街中の濡れた布。


(あの人たちが、この数字の向こうにいたんだ)


「アッシュくん?」

「はい」

「顔が、少し、赤いよ」

「あ、いえ。ちょっと、思い出して」

「何を?」

「手ぬぐいのときのことを。この数字の向こうに、あの時に会った人たちがいるって、急に、見えたんです」


先輩は、少し目を見開いて、それから、嬉しそうに笑った。


「うん。それが、見えるようになったんだね」


先輩は、机の上の白い紙を、一枚引き寄せた。


「じゃあ、最後に。今日、気づいたことを、図にしてみよう」


指先で、ペンのインクをさっと乾かして、紙の真ん中に、小さな丸を描く。


「ここが、うちの店。ここに、仕入れ先の問屋さんたち。こっちに、買ってくれるお客さん。それから、お金の流れの矢印」


先輩は、迷いなく、線を引いていく。


「数字の羅列が、地図になる」

「そう。この線の一本一本が、人と人の間を、渡っているの」


地図は、驚くほど、鮮やかだった。


数字の列だったはずのものが、誰かの顔や、誰かの暮らしに、変わっていく。


「アッシュくん」


先輩が、ペンを置いて、俺を見た。


「数字の裏には、必ず人がいるんだよ」


その言葉が、静かな帳場に、ゆっくり広がっていった。


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