第13話「帝都の市場を歩く」
第13話「帝都の市場を歩く」
「今日の課題です」
朝、帳場の前で、先輩が一枚の紙を差し出した。
「穀物、布、香辛料。この三つの区を回って、今の相場と、賑わっている店、売れ筋を調べてきて。夕方までに、気づいたことを聞かせてね」
「先輩は、一緒じゃないんですか」
「今日は、取引先への挨拶回りで一日いないの。だから、アッシュくん一人で」
先輩は、いつもの穏やかな笑顔で言った。
「見る目は、もう育ってるから。大丈夫」
背中を、とんと軽く押された気がした。
帝都の中央市場は、朝から人の波だった。
広い石畳の広場を中心に、穀物区、布区、香辛料区、魚や肉の区が、放射状に広がっている。呼び声。荷車の軋む音。量り売りの秤の鳴る音。氷屋の屋台では、主人が掌をかざして、桶の水を一瞬で凍らせていた。
胸が、どくんと鳴った。
(すごい)
初めて来たわけじゃない。何度か、仕入れの手伝いで通ったことはある。けれど、仕事の目で、一人で歩くのは、初めてだった。
手帳を開く。帝都に来る道中から使っている、値段のメモ帳だ。
(まずは、穀物区から)
穀物区は、麦の匂いがした。
袋が高く積まれた店先を、端から順に見て回る。小麦の値札は、一袋あたり、銅貨にして千二百から千三百の間。昨日までの相場の、ほんの少し上だ。
荷車の数を、数えてみた。
(少ない)
いつもなら、この時間は、搬入の荷車が列をなしている。今日は、数台しか見えない。買い手のほうが、店先の袋を、不安そうに覗き込んでいる。
「坊主、さっきから何を見てる」
声をかけてきたのは、量り屋の老人だった。秤の前で、腕を組んでいる。
「相場を見ています。荷車が、いつもより少ないので」
「ほう」
「北の荷が、遅れているんでしょうか」
老人は、一瞬、目を丸くして、それから、にやりと笑った。
「当たりだ。北の街道で、橋の点検があってな。昼過ぎまで、荷が入らねえ」
「じゃあ、昼過ぎには、値が上がりますね」
「だろうな。買うなら、今のうちだ」
手帳に、「荷車の少なさ→昼過ぎに値上がり」と書き込む。
この知識は、使える。値段は、数字だけでなく、人の動きと荷の流れの中に、先に現れる。
(これは、予測の材料になる)
穀物区の端まで来た時、見覚えのある看板が目に入った。
ゲルト親方の店だった。親方は、店先で、麦の袋を肩に担いでいる。こちらに気づくと、袋を下ろして、手を振った。
「おう、あの時の若いのじゃねえか!」
「ご無沙汰しています」
「あの半金の前払いのおかげで、職人たちに日当が払えた。得意先の支払いも、ようやく入ってな。恩に着る」
「いえ、自分は何も。先輩がまとめてくださった話ですから」
「謙遜すんな。今度は、うちが助ける番だ。困ったら、いつでも来い」
親方は、豪快に笑って、また袋を担ぎ直した。
手帳の隅に、小さく書き足す。『助けた相手は、覚えている』。先日、先輩に聞いた言葉が、もう、目の前の景色になっていた。
次の布区は、色の洪水だった。
赤、青、黄、緑。布が、通りの両側に吊るされて、風に揺れている。あの東の職人街の朝市とは、まるで違う。大店の布は、どれも上品で、値札も高い。
その一角に、見覚えのある濃紺の麻混が、一巻、飾られていた。
(あ)
値札は、八百枚。
職人街の朝市で売った、あの布と、そっくりだ。あちらでは九百で売れた。ここでは、八百。同じ布でも、場所と客で、値打ちが違う。
「お客さん、それが気に入りました?」
声をかけてきたのは、布屋の若い女主人だった。
「あ、いえ。見覚えがあって。この麻混、仕立屋さんによく売れますか?」
「へえ、お目が高い。うちでは地味で、あんまり動かないんですけど、職人街の問屋さんがよく買っていくんですよ」
(やっぱり)
職人街の朝市。あの布が、本当に必要とされていた場所だ。
あの時の、ダグさんの顔が浮かんだ。「客が変わっただけだ」。
最後は、香辛料区だった。
その区に足を踏み入れた途端、空気が変わった。
濃い、甘い、刺すような香り。胡椒、肉桂、丁子。壺に詰められ、袋に包まれ、秤の上で量られている。人の声も、少しだけ低く、慎重だった。
驚いたのは、値段だった。
胡椒が、小さな袋で、銅貨にして、小麦一袋分に近い。
「高いですね」
「そりゃ、高いよ」
店先にいた恰幅のいい女主人が、にっと笑った。
「この胡椒はね、海を渡って来たんだ。遠い国の、あたしらが一生行けない場所から」
「海を、渡って」
「嵐もある。海賊もいる。それでも運んでくる人がいるから、あたしらは、ここで胡椒が買える」
袋の口に、鼻を近づける。
きつくて、甘くて、焦げたような香り。この世界のどこかに、この胡椒が育つ土地がある。誰かが摘んで、干して、袋に詰めて、船に積んだ。
そして今、俺の目の前にある。
(知らない土地の、知らない人の手が、ここまで繋がってるんだ)
足元から、すっと何かが抜けていくような、不思議な感覚だった。
どこかで、見たことがある。遠い、遠い景色。巨大な建物の間を、見知らぬ乗り物が走って、人が溢れて、商品を売る店が並んでいる。そして、どの商品も、遠く離れた誰かの手を、通ってきている。
(……また、これか)
胸の奥が、ふわりと、あたたかくなった。
三つの区を回り終えたのは、日が傾き始めた頃だった。
広場の噴水の縁に腰を下ろして、屋台で買った熱いパンをかじる。手帳には、びっしり数字と書き込みが並んでいた。
穀物区の、荷の少なさと、値上がりの兆し。布区の、同じ布でも違う値。香辛料区の、海を越えてくる高価な胡椒。
(全部、繋がってる)
穀物の値は、街道の橋の点検で動く。布の値は、客層で動く。香辛料の値は、海の向こうの嵐で動くのかもしれない。
世界のあちこちで起きていることが、この広場に集まって、人の声と、値札になって、並んでいる。
そして、その値札を見て、誰かが何かを買う。誰かが何かを売る。そこに、小さな駆け引きと、笑顔と、ため息がある。
(俺は、これが好きなんだ)
気づいたら、手帳を握りしめて、笑っていた。
売ることが好きなんじゃない。儲けることが好きなんじゃない。
この、大きな流れの中に、自分が立っていることが。人と物と情報が、絶えず動いて、誰かと誰かが、繋がる、その瞬間に、触れていることが。
(商売って、面白い)
口に出さないまま、心の中でだけ、そう呟いた。
この感情は、きっと、誰に説明しても、うまく伝わらない。けれど、確かに、ここにある。
噴水の水音の向こうから、ふと、別の匂いが流れてきた。
(潮の匂い?)
顔を上げた。
広場の東の端。港のある方角から、一台の荷車が、ゆっくり近づいてくる。荷台には、見慣れない形の木箱が積まれていた。縄は、塩に晒されて白くなっている。
そして、その木箱の側面に、焼印が見えた。
見覚えのある、模様。
倉庫の隅にあった、あの木箱と、よく似ている。
(港から、来たのか)
荷車は、広場の人混みの向こうへ、ゆっくりと消えていった。
潮の香りだけが、しばらく、噴水の周りに、残っていた。




