第8話「損をする商人」
第8話「損をする商人」
雨は、四週目に入っても止まなかった。
倉庫の一角に積まれた百五十枚の手ぬぐいは、見るたびに、少しずつ大きくなっている気がした。実際には、一枚も増えていない。重たく見えるのは、俺の目のほうだ。
(どうする)
先輩は「見てるから」と言ったきり、何も言ってこない。売り場の向こうから、ときどき視線を感じる。けれど、振り向くと、いつも先輩は別の客の相手をしていた。
(本当に、教えないつもりなんだな)
三日前から、手ぬぐいの値札を、六十枚から五十枚に下げてみた。四十五枚にもした。それでも、一枚も売れなかった。値段の問題では、ないのだ。
「おい、アッシュ」
倉庫の奥から、ダグの声がした。
「来月、秋物の荷が入る。あの一角、空けなきゃならねえ」
「分かっています。あと一月で、何とかします」
「何とか、ねえ」
ダグは、手ぬぐいの山をじろりと眺めた。
「お前、今いくらで売ろうとしてる」
「四十五枚です。原価が四十枚なので、まだ少しだけ利益が」
「売れてねえのに、利益の話をしてどうする」
ぐっと、言葉に詰まる。
「いいか。売れねえ品は、毎日、金を食う。倉庫の場所代。目減り。それに、この金で別の仕入れをすりゃ稼げたはずの、儲け。持ってるだけで、損は増えていくんだ」
「……はい」
「だから、見切る。原価を割っても、二束三文でも、ここぞって時に手放す。損切りだ」
「負けを、認めるってことですか」
「違う」
ダグは、はっきり首を振った。
「負けを広げねえ、って決めるんだ。認めるのと、決めるのは、違う。これ以上、損は増やさねえ。そう決めて、手を打つ。それが損切りだ」
それだけ言って、ダグは台車を押して行ってしまった。
その日の午後、台帳を返しに帳場へ行くと、年配の帳簿係が、眼鏡をずらしてこちらを見た。
オットーさん。この店に二十年いるという人で、口数は少ない。数字を見る目だけが、やたらと鋭い。
「手ぬぐいか」
「はい。損の書き方を、教えてほしくて」
「数字は、一行で済む。『手ぬぐい、損、いくら』。それだけだ」
オットーさんは、帳面の余白を、指でとんと叩いた。
「だが、その横に、もう一行書け。なぜ外れたか、だ」
「長雨を、読まなかったことです。それは、もう分かっています」
「それだけか」
「……え」
「外れた理由は、一つとは限らん。雨で、街で何が起きたか。もう少し、見てみろ」
オットーさんは、眼鏡を押し上げた。
「損を、数字だけで終わらせる商人は、また同じ損をする。損の中から材料を拾える商人は、その損を、次の儲けに変える」
(雨で、街で、何が起きたか)
帳場を出てからも、その言葉が頭に残った。
翌日、昼の仕入れの帰りに、大通り裏の食堂に飛び込んだ。傘が役に立たないほどの雨で、全身がびしょ濡れだった。
「いらっしゃい。そこ、空いてるよ」
小さな店だった。カウンターの向こうで、主人が鍋をかき回している。席に着くと、主人が、湿った布巾をぽんと投げてよこした。
「悪いな。それで顔でも拭いてくれ。乾いた布巾が、もう残ってなくてよ」
受け取った布巾は、重たく濡れていた。
「この雨でな。洗っても洗っても、乾きゃしねえ」
主人は、愚痴をこぼしながら、別の布巾を掌に包んで、じっと目を閉じた。ふわり、と掌から熱気が立つ。生活魔法の乾燥だ。けれど、一枚乾かすのに、ずいぶん時間がかかっている。
「魔法で乾かしても、追いつかねえんだ。何枚あっても、足りやしねえ」
何枚あっても、足りない。
その言葉に、頭の奥で、何かが小さく鳴った。
(布巾。乾きの早い、布)
俺は、肩にかけていた鞄から、仕入れの時に持ち歩いていた手ぬぐいを一枚、取り出した。薄手の麻の布だ。
「すみません、これ、使ってみてください」
「ん?」
主人は、不思議そうに受け取り、濡れた皿を一枚、拭いた。
「……お、よく吸うな。薄いのに」
「麻なので、水を吸うのも、乾くのも早いんです。軽く絞って干せば、半日で乾きます」
「へえ。確かに、さっきの布巾より、だいぶ軽いや」
主人は、手ぬぐいを日の当たらない窓辺に広げて、じっと見つめた。
「これ、いくらだ」
心臓が、強く跳ねた。
(汗拭きとして買う人が、いないだけだ)
売れないのは、布の問題ではなかった。使い道の問題だった。
雨の街で、一番困っているのは、汗をかく人じゃない。濡れた布巾が乾かなくて、困っている人だ。
「十枚単位でなら、一枚三十五枚です」
原価の四十枚を、少しだけ割る。損は出る。けれど、動かなければ、ゼロだ。
(負けを広げない、と決める。ダグさんの言った通りだ)
「十枚、くれ。いや、二十枚だ」
その日のうちに、同じ通りの食堂と宿屋を、六軒回った。
最初の店では、「手ぬぐいなんて、いらないよ」と、あっさり断られた。肩を落としかけて、思い直す。
「では、一枚だけ置いていきます。今夜の洗い物で、使ってみてください。気に入らなければ、捨ててもらって構いません」
翌朝、その店の主人は、自分から追加を頼みに来た。
どの店も、同じ悩みを抱えていた。厨房の布巾が乾かない。宿屋の洗い場も、客用の拭き布が足りなくなっている。生活魔法で追いつかないほど、街中の布が濡れていた。
宿屋街の角を曲がった時、通りの向こうに、淡い青の服がちらりと見えた気がした。振り向いた時には、もう人混みに紛れていた。
(……見てる、のかな)
気のせいかもしれない。けれど、背筋が、少しだけ伸びた。
一週間で、百枚が、売れた。
「どこで思いついた」
倉庫で、ダグが山の減り具合を見て、目を丸くした。
「食堂で、雨宿りをした時です。布巾が乾かないって、愚痴を聞いて」
「汗拭きの手ぬぐいを、布巾にか」
「オットーさんに、雨で街に何が起きたか見ろ、と言われたので」
ダグは、あごをなでて、にやりと笑った。
「あの爺さん、言いやがるなあ」
残りの五十枚は、欲張らなかった。
雨の終わりが見え始めた頃、元の問屋へ持ち込んだ。若い店主は、手ぬぐいの山を見て苦笑したが、一枚二十枚で引き取ってくれた。
仕入れが七千二百枚。戻ってきたのは、最初に売れた分の千八百枚、食堂街の三千五百枚、問屋の千枚。合わせて、六千三百枚。
損は、九百枚。
最悪の場合の六千枚が、九百枚まで小さくなった。
帳面を開いて、損の金額を書き込む。その横に、一行。
『長雨を読まなかった。ただし、雨の年は、麻の布巾が不足する』
最後の手ぬぐいを、問屋へ運び終えた夕方、倉庫の一角は、すっかり空になっていた。
そこに、先輩が立っていた。
「全部、片付いたんだね」
「はい。損は、九百枚で収まりました」
「うん。見てた」
先輩は、空いた一角を眺めてから、俺の顔を見た。
「よくやったね、アッシュくん」
その一言が、思っていたより、胸の奥に沁みた。
先輩に褒められたのは、これが初めてではない。けれど、「よくやったね」と言われたのは、初めてだった。
先輩は、何も言わずに、ただ笑っていた。




