第7話「小さな失敗」
第7話「小さな失敗」
先輩が本店から戻ってきたのは、俺が反物を完売させた翌々日の朝だった。
「ただいま、アッシュくん。ダグさんから聞いたよ。濃紺の麻混、十巻全部、九百枚で売ったんだって?」
「話が早いですね」
「ダグさん、嬉しそうだったもの。口では『まあまあだ』って言ってたけど」
先輩は、くすっと笑ってから、手帳を開いた。
「約束してたでしょう。小さな取引、アッシュくんに任せるって。今日は仕入れの数を、あなたが決めてみて」
差し出されたのは、夏物の汗拭き用の手ぬぐいだった。薄手の麻の生地で、一枚あたりの原価は銅貨で四十枚。売値は六十枚。
「問屋さんとの話も、アッシュくんが最初に。私は隣にいるだけ。口は出さないから」
胸の奥が、すっと熱くなった。
数を決めるために、去年の台帳を開いた。
初夏のひと月で、手ぬぐいは八十枚売れている。余白に、小さな字で「十日目に品切れ」と書き込みがあった。
(売り逃しだ)
品切れになったのなら、本当に欲しかった客は、八十人より多かったはずだ。それに、今年は暑さが早い。近所の氷屋は、去年より半月も早く店を開けていた。
「百八十枚にします」
自分でも驚くほど、迷いなく言えた。先輩が、手帳の角を指でとんとんと叩く。
「去年の倍より多いね。根拠は?」
「品切れで売り逃した分があること。それと、今年は暑さが早いことです」
「うん。筋は通ってる」
先輩は、少し間を置いた。
「じゃあ、一つだけ。外れた時の逃げ道は、考えてある?」
「安い品ですし、夏は長いですから。いずれ売れると思います」
「……そう」
先輩は、それ以上は何も言わなかった。
問屋の若い店主は、最初、一枚四十五枚を譲らなかった。
「百八十枚、まとめて引き取ります。倉庫に置いておく手間が省けるでしょう。その分を、値に回してもらえませんか」
店主は少し唸ってから、肩をすくめた。
「……仕方ない。四十枚でいい」
数字を口にした時、隣で先輩が小さく頷いたのが分かった。
(ほら、やっぱり)
反物の時も、塩の時も、読みは当たっていた。
百八十枚の手ぬぐいが、倉庫の一角に、麻の束になって積まれた。
最初の三日間は、順調だった。
空は晴れ上がって、売り場には汗をかいた客が次々と来た。三日で、手ぬぐいは二十枚近く売れた。
四日目の朝から、雨が降り出した。
その雨が、止まなかった。
一日、二日、五日。厚い雲が、街の上に居座っている。蒸し暑さはどこかへ消えて、人々は上着を羽織り、手ぬぐいで汗を拭く者は、一人もいなくなった。
十日経って、売れた数は、三十枚を超えたところで止まっていた。
「だめだ、こりゃ」
雨の売り場で、ダグが、積まれた麻の束を見上げて言った。
「雨の日に、汗拭きを買う奴はいねえ。いくら夏物でもな」
「……はい」
「ま、そのうち晴れる。たぶんな」
励ましているのか、見捨てているのか、よく分からない口調だった。
雨は、街の音まで湿らせた。
売り場の入口から入ってくる客は、傘を畳んで、外套の水を払うだけで、手ぬぐいの棚には目もくれない。手前に出した麻の束は、日ごとに、ただ重たそうに見えてきた。
三週間が過ぎた頃には、手ぬぐいの山が、倉庫の一角をはっきり占領していた。
残りは、百五十枚。銅貨にして、六千枚分の金が、そのまま寝ている。
先輩は、何も言わなかった。
責められもしない。慰められもしない。ただ、いつも通りに仕事を教えてくれて、いつも通りに笑ってくれる。それが、かえって堪えた。
(自分で決めたんだ)
その夜、店が閉まったあとも、俺は帳場に残っていた。
灯りの魔法を指先に灯して、台帳を開く。俺の魔法は、豆粒ほどの小さな光だ。数字を追うには、暗い。
「まだ残ってたの?」
顔を上げると、先輩が帳場の入口に立っていた。
「先輩、もう帰ったんじゃ」
「忘れ物を取りに戻ったの。そうしたら、小さな光が見えたから」
先輩は、そう言って、指をひとつ鳴らした。
天井近くに、柔らかな光が、ふわりと浮かぶ。帳場の長机が、琥珀色に照らされた。
「私も付き合うよ。一人で見るより、二人のほうが早いでしょう」
先輩は、俺の隣の椅子を引いて、腰を下ろした。
近い。亜麻色の編んだ髪が、肩の少し先で揺れている。インクと紙の、落ち着いた匂いがした。
台帳の数字が、一瞬、頭から飛んだ。
(……何を考えてるんだ、俺は)
咳払いをして、台帳に視線を戻す。
「読みを、外しました」
「うん」
「去年の台帳しか見ていませんでした。今年の天気が、どうなるかは、見ていなかった」
先輩は、黙って聞いていた。
「それに、外れた時のことも、考えていませんでした。先輩が聞いてくれたのに、いずれ売れるなんて、軽く答えて」
「聞いたのは、私だけどね」
先輩は、ふっと息を吐いて、手帳の角を指で叩いた。
「ねえ、私の初めての失敗、聞く?」
「え?」
「見習いの一年目にね。冬の毛糸を、三百巻、仕入れたの」
驚いて、先輩の顔を見た。
「去年の秋は、寒くなるのが早かったから、今年も同じだって決めつけて。そうしたら、記録的な暖冬」
「……三百巻、ですか」
「倉庫の半分が、毛糸で埋まったの。ダグさんに、毎日ぶつぶつ言われた」
先輩は、くすくす笑った。けれど、手帳の角を叩く指は、止まっていなかった。
「会頭にね、数字を全部、見せたの。叱られると思って、覚悟して。そうしたら、会頭は数字をじっと見て、一言だけ」
「何と?」
「『次は、どうする』って」
先輩の声が、少しだけ静かになった。
「叱られたほうが、よっぽど楽だった。でも、おかげで考えたの。次は、どうするか。それから、数を決める前に、必ず『外れた時の逃げ道』を、先に考えるようになった」
話を聞いているうちに、胸のつかえが、少しずつほどけていくのが分かった。
「アッシュくんは、今、何が分かった?」
「去年の数字だけを信じたこと。逃げ道を用意しなかったこと。それと」
少し迷ってから、言った。
「反物が、うまくいったから、自分は分かっていると思い込んでいました」
「うん。じゃあ、次は数字を書き出そうか。怖いものは、見える形にしたほうが、小さく見えるから」
先輩に促されて、白い紙に書いていく。
仕入れ、七千二百枚。売れた三十枚の売り上げが、千八百枚。残りは百五十枚で、原価にして六千枚。
「最悪の場合、この六千枚が、まるごと戻ってこない。そう考えると、どう?」
「……商会の一日の売り上げより、ずっと少ないです」
「でしょう? 痛いけど、店が傾く額じゃない。だから、落ち着いて考えられる」
数字にしてみると、さっきまでの重さが、少しだけ形を変えていた。底が見える。底が見えるなら、そこから上がる道も、探せる。
先輩は、台帳の上の俺の手の甲を、ぽんと軽く叩いた。
「あの手ぬぐい、どうするかは、アッシュくんが考えて。私は、教えない。見てるから」
「はい」
先輩は立ち上がり、灯りの魔法を静かに消した。帳場に、小さな豆粒の光だけが残る。
「失敗は、次の商売の材料になるんだよ」
そう言って、先輩は、先に帳場を出ていった。
俺は、豆粒の光の下で、しばらく動けなかった。
叩かれた手の甲に、さっきの温もりが、まだ残っていた。




