第6話「売れ残り」
その布は、売り場の一番奥の棚で、もう三週間も同じ場所に座っていた。
濃紺の麻混の反物が、全部で十巻。染めは深く、織りも詰まっている。悪い品ではないと思う。けれど、手前に並んだ明るい色の布や、花の刺繍入りの布の横に置くと、どうにも地味だった。
「動かねえなあ」
朝の棚卸しの最中、ダグが腕を組んで、その棚を見上げた。
「最初は手前に置いてたんだ。売れねえから、奥に回した。値札も二回書き直した」
「八百枚から、七百枚まで下げたんですね」
台帳を開いて、数字を確かめる。
「仕入れ値は一巻で六百枚。保管の分や目減りを足した原価は、六百八十枚です。七百で売れても、利益は二十枚しかありません」
「そういうこった。しかも、その七百でも売れてねえ」
ダグは、棚の下段に積まれた反物をぽんと叩いた。舞い上がった埃を、掌をかざして、さっと散らす。
「動かねえ品は、場所を食って、金を食う。初日に教えたろ」
「はい」
「で、お前なら、どうする?」
唐突に振られて、俺は台帳から顔を上げた。
「値段を、もっと下げるとか」
「原価割れだぞ」
「ですよね。……でも、七百でも売れないのは、値段の問題じゃない気がします」
ここ数日、売り場に立って見ていたことがある。
この店に来る客は、近所の家の奥さんや、贈り物を探す人が多い。彼女たちは、布を手に取ると、まず色を見る。次に柄を見る。この濃紺の麻混は、どちらの目にも、ほとんど引っかからない。
「この布は、この店の客に向いてないんだと思います」
「ほう。じゃあ、誰に向いてる?」
「……丈夫で、地味で、汚れが目立たない。仕事着とか、前掛けとか」
自分で言いながら、そこで言葉が止まった。
誰が、それを欲しがるのか。この店にいる限り、その答えは出てこない。
ダグは、それを見透かしたように、にやりと笑った。
「東の職人街に、朝市が立つ。染物屋や仕立屋が、自分の店の仕入れに来る市だ。あそこの客は、色より先に、布の強さを見る」
「そこへ、この布を持っていく?」
「やるかどうかは、お前が決めろ」
ダグは、あっさり言った。
「売れるかどうかは、俺にも分からん。売れなきゃ、場所代の分だけ損が出る。持っていくなら、値段も売り方も、お前が決めろ。俺は台車を押すだけだ。口は、なるべく出さねえ」
「なるべく、ですか」
「なるべくだ」
先輩は今週、本店での会議に出ずっぱりで、店にはいない。約束してもらった「小さな取引」も、先輩が戻ってからになる。だから、これは俺一人の判断だ。
少し考えてから、頷いた。
「やります。十巻、全部持っていきます」
「よし。上への話は、俺が通しておく」
翌朝、まだ薄暗いうちに、俺とダグは台車を押して店を出た。
東の職人街は、朝からひどく賑やかだった。
通りの両側に、簡素な屋台と、地面に敷いた布の上の商品が、ぎっしり並んでいる。染料の匂い。糸の束。刃物を研ぐ音。客は、前掛けをつけた職人や、腕まくりをした仕立屋の見習いばかりだ。売り場の客層とは、空気がまるで違う。
市の係の男に、場所代の銅貨を六十枚払って、隅の一角を借りた。
反物を並べ終えると、ダグは数歩下がって、近くの樽に腰を下ろした。串焼きを食べ始める。完全に見物の構えだった。
(本当に、口を出さないつもりだ)
俺は、売り場に立って、通りを眺めた。
最初に分かったのは、ここの客が、布を見る目の違いだった。
店の客は、布を目の高さに持ち上げて眺める。ここの客は、端をつまんで、指で強く引っ張る。織りの目を確かめ、裏返し、日にかざす。色を見る人は、ほとんどいない。
隣の屋台にも、似たような麻布が並んでいた。値札を盗み見る。一巻、九百枚前後。
(店では、七百でも売れなかった。ここなら、九百が相場)
胸の奥で、数字が跳ねた。
ただ、それは隣の屋台の値段だ。うちの布が、本当にその値に見合うのか。売れ残りの品に、自信を持って九百枚と言えるのか。
値札を握った手が、少しだけ止まった。
視線を感じて、樽のほうを見る。ダグは串をかじりながら、こっちを見もしなかった。
(……決めろ、ってことか)
「九百」と書いた。
最初の一時間は、誰も足を止めなかった。
けれど、布を並べ直して、一番上に広げた一巻の端を、自分で引っ張ってみせると、通りがかりの女の職人が足を止めた。
「それ、強いの?」
「織りを見てください。麻に少し混ぜ物をして、詰めてあります。洗っても、色が落ちにくいです」
「ふうん」
彼女は端をつまんで、思い切り引っ張り、裏返し、日にかざした。
「悪くないね。いくら?」
「九百枚です」
「九百ねえ。ちょっと高いけど、この厚みなら」
彼女は二巻を抱えて、銅貨を渡してきた。
それが、きっかけだった。
あとは早かった。あちこちの職人が足を止め、端をつまみ、引っ張り、頷いた。昼前には、老いた仕立屋の親方が、大きな体を揺らしてやってきて、三巻を指さした。
「この布、前掛け用に、まとめてほしくてな。これだけか」
「今日は、十巻持ってきました。残りは、あと五巻です」
「じゃあ、残り全部もらおう」
親方は、最後の五巻を、何の値切りもなく買っていった。
日が高くなる前に、台車の上は空になった。
「……売れた」
自分の声が、ぼんやり聞こえた。手の中の銅貨が、やけに重い。
「おう、やったな」
いつの間にか、ダグが横に立っていた。串の棒を、くわえたままにしている。
「十巻、全部、九百で。よく踏ん張ったな」
「隣の屋台の値段を見て、決めました」
「知ってる。見てた」
「口は、出さなかったですね」
「出すとこが、なかった」
ダグは、ふんと鼻を鳴らした。
帰り道は、空の台車を押して、ゆっくり歩いた。
頭の中で、数字を並べる。
九百枚が、十巻で九千枚。原価は六千八百枚。場所代が六十枚。残りが、二千百四十枚。一巻あたりにすると、二百枚を少し超える。
店では、七百枚まで下げても、一巻あたり二十枚の利益しか出なかった。売れなければ、ゼロだ。
「同じ布なのに」
口から、勝手に言葉が出た。
「同じ布なのに、場所が変わっただけで、値打ちが全然違いました」
「布が変わったんじゃねえ」
ダグが、前を向いたまま言った。
「客が変わったんだ。店の客に地味だった布が、職人には、ちょうど良かった。それだけだ」
「客が、変わった」
「動かねえ品は、腐らせちゃいけねえ。ただ、動かす先を見つけるのは、倉庫番の仕事じゃねえ。商人の仕事だ」
ダグは、ちらっと俺を見た。
「ま、初めての判断にしちゃ、悪くねえ」
それだけ言って、また前を向く。ほめられたのか、ただの事実を言われたのか、いつものように、よく分からなかった。けれど、背中を叩く手は、少しだけ強かった。
通りは、夕方の光に染まり始めていた。
空になった台車の車輪が、石畳の上で、からからと鳴る。
宿場町の屋台の前に立った夜のことを、思い出していた。
塩の値札。倍近い値段。あの行商人の、串を片手にした笑い顔。
――商売ってのはな、突き詰めりゃ『運ぶだけで、値が変わる』ってことよ。
あの時は、街道の長さが、値段を作っていると思った。
今日は、同じ帝都の中を、ほんの半日、台車で運んだだけだ。それだけで、売れなかった布が、ちゃんと値のつく布になった。
(場所が、違うだけで、こんなに変わる)
だったら。
帝都の東と西じゃなくて、もっと、ずっと遠くの場所だったら。
宿場町どころか、国を越えて、海を越えたら。
遠くの誰かが作ったものが、遠くの誰かの手に届く。あの景色が、また頭の奥をよぎった気がした。
(これを、もっと大きな距離でやったらどうなる?)
空っぽの台車を押しながら、俺は、夕焼けに染まった街の、遠い端のほうを見ていた。




