第5話「初めての交渉」
翌朝、先輩は帳場の前で待っていた。
昨日と同じ淡い青の服に、同じ分厚い手帳。ただ、今日は肩から小さな革鞄を提げている。中身は、契約書の束と、算盤らしい。
「おはよう。筋肉痛は、大丈夫?」
「だいぶましです。先輩のほうこそ、眠れましたか」
「……あまり」
先輩は、気まずそうに笑った。手帳の角を指が叩いている。
「今日の交渉、相手が手強いの。穀物問屋のゲルトさんっていう人で、ここ五年、うちの麦はずっとその人から仕入れてるんだけど」
「値段を下げたいんですか」
「そう。最近、別の問屋さんが、少し安い値段を出してきたの。だから、今の取引先にも、同じくらいまで下げてもらえないかなって」
歩きながら、先輩はそう説明してくれた。
「私が最初に話して、アッシュくんは横で見ててね。気づいたことがあったら、後で教えて」
「分かりました」
道は、朝の市で賑わっていた。人波をかき分けるように進みながら、俺は先輩の背中を見た。さっきまで緊張していたのに、歩き方は、いつの間にか落ち着いている。
(仕事の顔に、切り替わったんだな)
そう思うと、少しだけ、背筋が伸びた。
ゲルトの店は、帝都の北側、穀物の倉庫が集まる区画にあった。
店構えは、ロンバルド商会の第二倉庫店より大きい。入口には、麦袋を積んだ荷車が何台も並び、職人たちが忙しく出入りしている。奥の帳場では、若い店員が、何人も机に向かって帳簿をつけていた。
「失礼します。ロンバルド商会のアデリーナです。ゲルト親方は、いらっしゃいますか」
「おう、来たか」
奥から、でっぷりとした男が出てきた。五十手前だろうか。太い眉に、丸い鼻。首には、汗拭きの布を巻いている。
「ロンバルドの姉ちゃんか。今日は、新入りを連れてきたんだな」
「はい。研修中の新人です」
「自分は、アッシュです。よろしくお願いします」
年配の男性への挨拶は、「自分」と決めている。ゲルトは、俺を頭のてっぺんから足先まで眺めて、ふんと鼻を鳴らした。
「若えな。まあ、座れ」
奥の小さな応接の間に通された。机の上には、すでに茶が用意されている。ゲルトの店員が、湯の入った鉄瓶に指先をかざして、ぬるくなった分を魔法でさっと温め直した。立ちのぼる湯気に、麦の香りがわずかに混じっている。
「で、用件は」
「次の仕入れの件です。麦、百袋分」
「うん。いつもの値段でいいな」
「そのことなんですが」
先輩は、背筋を伸ばした。
「今回は、一袋あたり五枚、値引きをお願いしたいんです」
ゲルトの眉が、ぴくりと動いた。
「五枚? 今の値段は、銅貨百二十枚だぞ。百十五枚にしろってか」
「はい。他の問屋さんから、その値段の見積もりが来ていまして」
「そいつは、どこの問屋だ」
「それは、申し上げられません」
「ふん」
ゲルトは、茶を一口すすった。
「あのな、姉ちゃん。うちの麦は、他所より質がいい。粒が揃ってるし、虫もつかねえ。安いのには、安いなりの理由があるんだよ」
「それは、承知しています。ですので、質の差を含めて、四枚でも」
「四枚も、五枚も、同じだ」
「では、三枚では」
「同じだって言ってんだろうが」
ゲルトは、声を荒らげた。けれど、怒っているという感じではなかった。むしろ、何かを堪えているような、苦しそうな声だった。
「値引きは、できねえ。うちも、今は、ぎりぎりでな。回らねえんだ」
先輩は、一瞬だけ口をつぐんだ。
俺は、横でその様子を見ていた。先輩の指が、手帳の角を叩く。焦っている。このままだと、また同じ押し問答の繰り返しになる。
そのとき、部屋の外から、声が聞こえた。
「親方、すみません! 日当の、職人たちが」
入ってきたのは、さっき帳場にいた若い店員だった。顔を強張らせて、ゲルトの耳元に何かを囁く。
「……後にしろ」
「でも、今日中にって、みんなが」
「分かってる。後にしろと言ってる」
店員は、歯を食いしばって、部屋を出ていった。ゲルトは、何事もなかったように、また茶を口に運ぶ。けれど、その手が、わずかに震えていた。
(職人の日当?)
頭の奥で、何かが引っかかった。
思い出す。入口にいた荷運びの男たち。奥の帳場の店員たちの、落ち着かない空気。そして今、『今日中に』と言った、あの声。
それに、さっきのゲルトの言葉だ。
――うちも今は、ぎりぎりでな。回らねえんだ。
値引きを渋る理由は、二つ考えられる。ひとつは、単純に利益が薄いから。もうひとつは。
(お金が、足りない?)
でも、それなら、なぜ五年来の取引先の値引きを、こうも頑なに断るんだろう。お金が足りないなら、むしろ、少しでも売りたいはずだ。
いや。
逆かもしれない。
売るのが、問題じゃない。お金が入る『時期』のほうが、問題なのかもしれない。
俺は、思い切って口を開いた。
「あの、ひとつ、質問してもいいですか」
先輩が、驚いた顔で俺を見た。ゲルトも、眉をひそめる。
「なんだ、坊主」
「ロンバルド商会の支払いは、いつも、月末でしたよね」
「ああ、そうだ。掛けで、月末の締めだな」
「月の途中で、現金が必要になることは、ありますか」
部屋の空気が、ぴたりと止まった。
ゲルトは、じっと俺の顔を見ていた。さっきまでの無愛想な顔が、少しだけ固まっている。
「……何が言いてえんだ」
「すみません。失礼なことを言うかもしれません」
俺は、言葉を選びながら続けた。
「先ほど、店員の方が、日当の件で来られていました。職人さんたちへの支払いが、今日中に必要なのではないでしょうか。でも、うちの代金が入るのは月末で、まだ十日以上ある」
「坊主」
「親方にとって、値段の話より、お金が入る時期のほうが、大事なのではないかと、思いました」
沈黙が、落ちた。
先輩が、息を呑む気配がした。ゲルトは、ゆっくりと体を起こし、腕を組む。
「……生意気な坊主だ」
「申し訳ありません」
「いや」
ゲルトは、ふうと長く息を吐いた。それから、頭を掻いた。
「当たりだよ。ここだけの話だがな」
ゲルトは、声を落とした。
「得意先の一つが、支払いを延ばしてきてな。こっちは麦を先に納めちまったのに、代金がまだ入ってこねえ。職人の日当は、待ってくれねえ。値引きするとか、しねえとか、それ以前の話なんだ」
「では」
先輩が、身を乗り出した。
「代金を、前払いでお支払いする、というのは、どうでしょう」
「前払い?」
「はい。今回の百袋分の代金の、半分を、今日中にお支払いします。残りは、月末。その代わり」
先輩は、そこで一瞬だけ俺を見た。俺が頷くと、意を決したように続けた。
「一袋あたり、三枚の値引きを、お願いしたいんです」
ゲルトは、しばらく黙っていた。太い指が、机の上を、ゆっくり叩いている。
「半金が、今日か」
「はい。今日中に」
「……職人の、日当が払えるな」
「はい」
「三枚、引く。百十七枚だ。それで、半金を今日」
ゲルトが、手を差し出した。先輩は、きょとんとして、その手を見つめた。
「握手だよ、姉ちゃん」
「あっ、はい!」
二人は、固く手を握った。
店を出ると、昼の光が眩しかった。
先輩は、道の端で立ち止まって、しばらく動かなかった。それから、ふう、と大きく息を吐いて、その場にしゃがみこんだ。
「先輩?」
「……足が、震えてる」
情けない顔で、こっちを見上げる。
「緊張、してたの。もう、どうなるかと思った」
「でも、うまくいきました」
「うまくいったのは、アッシュくんのおかげよ」
先輩は、立ち上がって、俺の顔をまっすぐ見た。
「今日の気づき、すごく良かった。値段の話に見えて、本当は、お金が入る時期が問題だった。私、全然、気づかなかった。ゲルトさんのことは、三年も前から知っているのに」
「たまたまです。店員さんの様子が、気になっただけで」
「たまたまじゃないよ。私は値引きのことしか見てなかったのに、アッシュくんは、ゲルトさんが何に困っているのかを見たでしょう?」
「それは、まあ」
「それが、いちばん大切なことなの。ゲルトさんが困っていたのは、値段じゃなくて、今日のお金。商売は、値段だけで決まるんじゃないの。相手が本当に欲しいものを、見つけること」
そう言って、先輩は、ふわりと笑った。
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「すごいよ、アッシュくん。本当に」
頬が、かっと熱くなった。
こんなに真正面から褒められたのは、たぶん、学院でヒルデに成績で並ばれた日以来だ。けれど、あのときと、何かが違う。先輩の言葉は、やわらかくて、まっすぐで、受け取るたびに、胸の奥があたたかくなる。
「あ、ありがとう、ございます」
「照れてる」
「照れてません」
「照れてるよ。耳、赤いもの」
「先輩こそ、さっきまで足が震えてたじゃないですか」
「それは、言わないでって」
二人で、思わず笑った。
通りを歩き出しながら、先輩は、ふと立ち止まった。
「ねえ、アッシュくん」
「はい」
「次は、あなたが最初に話してみようか」
「え」
「小さな取引でいいの。私が隣で見てるから。やってみる?」
先輩の目は、真剣だった。けれど、その奥に、期待のようなものが見えた。
心臓が、どくんと跳ねた。
交渉。俺が、最初に、話す。
怖い。けれど、それ以上に、胸の奥が、わくわくしていた。
「……はい。やってみたいです」
先輩が、満足そうに頷いた。
その横顔を見ながら、俺は、明日からの日々を、少しだけ楽しみに思っていた




