第4話「教育担当」
三日目の朝は、腕の痛みが少しだけましになっていた。
それでも台車を押す手には力が入らず、ダグに「昨日より二割増しで遅え」と言われながら、開店前の売り場の掃除を終えた。箒を片付けたところで、入口の扉が静かに開いた。
「失礼します。今日から教育担当を務める、アデリーナといいます」
入ってきたのは、俺より少し年上の女性だった。
亜麻色の髪を緩く編んで、肩に流している。背は俺の肩ぐらいまでしかない。商会の見習いが着る灰色の上衣ではなく、淡い青の、仕立ての良さそうな服だった。袖口には細かい刺繍がある。腕には、分厚い手帳を抱えていた。
「おう、来たか」
ダグが、なぜかにやにやしながら片手を上げた。
「こいつが新入りのアッシュだ。腕は細えが、目は悪くねえ。あとは頼んだぜ」
「はい。お預かりします」
ダグは「せいぜい気張れよ」と言い残して、倉庫のほうへ消えた。売り場に、二人だけが残る。
「えっと」
彼女は手帳を抱え直して、俺を見上げた。
「アデリーナです。見習いを卒業したばかりで、人に教えるのは、これが初めてなの。至らないところもあると思うけど、よろしくね」
緊張しているのが、すぐに分かった。手帳の角を、右手の指先がとんとんと叩いている。本人は気づいていないらしい。
「アッシュです。よろしくお願いします」
「うん。それでね、ええと」
彼女は、少しだけ視線を泳がせてから、早口で言った。
「呼び方なんだけど。その、『先輩』って呼んでもらえると、嬉しいかな。ずっと呼ぶ側だったから、一度、呼ばれてみたくて」
言ってから、耳の先が赤くなる。
思わず、笑いそうになった。けれど笑ったら失礼な気がして、俺は咳払いでごまかした。年上で、教育担当で、初対面だ。ここは、丁寧にいこう。
「分かりました、先輩。私で良ければ、何でも聞いてください」
「……あ、ありがとう」
先輩は、ほっとしたように息を吐いた。それから、何かを思い出したように手帳を開く。
「じゃあ、最初の授業。奥の帳場を借りてあるの。ついてきて」
売り場の奥に、小さな帳場があった。
机と椅子が二脚、棚には帳簿が並んでいる。天井の魔道具の灯りが、机の上を白く照らしていた。
先輩は、机の上に手帳を広げた。ページは、びっしりと書き込みで埋まっている。昨日の夜に、何度も練習したのだろう。
「今日は、商売のいちばん基本から。商品が、仕入れから売れるまでに、どうお金が動くか。分かる?」
「大まかには、学院で習いました」
「じゃあ、確認も兼ねて。例を出すね。塩一袋」
塩、と聞いて、宿場町の屋台が頭に浮かんだ。
先輩は、紙にさらさらと数字を書いていく。
「まず、仕入れ値。問屋から一袋を買う値段が、銅貨百枚」
「はい」
「次に、輸送費。産地から、この倉庫まで運ぶ費用。これが二十枚」
「橋の通行料も入りますか?」
先輩が、ペンを止めた。
「……橋?」
「街道の途中に、通行料を取る橋があります。帝都に来る途中で、二つ通りました。塩みたいな重い荷は、橋のたびに少しずつ値が乗るんだと思います」
「よく見てるのね」
先輩は目を丸くして、それから小さく笑った。
「そう。通行料も、輸送費に含まれる。街道が長くて橋が多いほど、輸送費は膨らむの」
それから先輩は、少しだけ説明の順番を間違えて、「あ、違った。ええと、次は」と手帳を確かめた。指先が、また角を叩いている。
それでも説明そのものは、驚くほど丁寧だった。
倉庫での保管代と、湿気で固まったり袋が破れたりする目減りの分が、十枚。ここまでを足した、百三十枚が、その塩の「原価」。
「そして、売値を百六十枚にしたとすると」
「利益は、三十枚ですね」
「そう。売値から原価を引いたものが、利益」
先輩は数字の横に、小さく丸をつけた。そして、紙の上にあった数字を、指先で順になぞる。指先にほんのりと熱をともして、濡れたインクをさっと乾かした。
「ここで、大事な話」
「はい」
「売値は、高ければ高いほど良い、ってわけじゃないの。百六十枚で売れなかったら、利益はゼロ。売れ残って、倉庫の場所を食うだけ」
「売れる値段と、利益が出る値段は、別なんですね」
「そう」
先輩が、顔を上げた。
「利益が出る値段は、こちらの都合。売れる値段は、お客さんの都合。その二つの間を見つけるのが、商売なんだと思う。……って、私も先輩から教わったんだけど」
そこまで言って、先輩ははっとして、慌てて手帳に視線を落とした。
「ごめんね。ちょっと、偉そうだった?」
「全然です。分かりやすいです」
本心だった。学院でも、仕入れと原価の授業はあった。けれど、数字の羅列だった。塩の袋が、橋を渡って、倉庫に入って、店先に並ぶまでの流れが、頭の中で初めて繋がった気がした。
「あの、ひとつ確認してもいいですか」
「どうぞ」
「今の例は、産地から帝都までの塩です。もし、同じ塩を、もっと遠くの町に運ぶとしたら」
「輸送費が増えるから、原価が上がるね」
「売値も、上げないと利益が出ません。でも、遠い町のほうが塩が手に入らないなら、客は高くても買う。だとしたら」
自分で言いながら、頭の中の何かが、ぱちんと噛み合った。
「運ぶ距離そのものが、商売になるんじゃないでしょうか」
先輩は、しばらく黙って、俺の顔を見ていた。
それから、手帳を閉じた。
「アッシュくん」
「はい」
「それ、来月の授業で教える予定だった内容なんだけど」
「えっ」
「すごいな、って思って。私、見習いの最初の頃は、輸送費と手間賃の区別もつかなくて、何度も怒られたのに」
先輩は、困ったように、けれど嬉しそうに笑った。
「教えることが、なくなっちゃうかも」
「まだ、何も教わってないです」
「そうだね。ちゃんと、教えるね」
そのやり取りが、やけにくすぐったかった。
年上の、初めて会った人。けれど、話していると、いつの間にか肩の力が抜けていた。優しい声で、少し不器用で、でも、説明は真剣で。
(感じのいい人だな)
そんなことを思ってから、慌てて頭から追い払った。仕事中だ。
昼になって、先輩は小さな包みを取り出した。
「お昼は、私がいつも、ここで食べるの。よかったら一緒にどう?」
「いいんですか」
「教育担当だもの。ちゃんと、食事も教えないとね」
包みの中身は、白いパンと、薄く切ったハムと、香草のついたチーズだった。俺の倉庫メシとは、明らかに質が違う。そう思いながら、差し出されたパンを半分もらった。
「あの、先輩。どうして私の教育担当になったんですか」
「新人が入ったら、見習いを卒業したての人が担当するのが、ここの決まりなの。教える側も、勉強になるからって」
「なるほど」
「だから私も、初めて。アッシュくんが、最初の生徒」
「光栄です」
「……本当に?」
「はい」
先輩は、パンを口に運びながら、こっそり微笑んだ。
午後は、売り場の商品の値札を一緒に見て回った。同じ塩でも、奥の棚と手前の棚で、客の層が違うこと。値札の書き方、客の目線の高さ、品の並べ方。先輩は、時々手帳をめくりながら、それでも、ひとつひとつ丁寧に説明してくれた。
夕方になって、店が閉まる頃には、俺の頭は情報でいっぱいだった。
片付けを終えた先輩は、入口で振り返った。
「今日は、お疲れさま。初日にしては、上出来だったと思う」
「ありがとうございます。先輩のおかげです」
「そんな、私は」
先輩は、くすぐったそうに笑った。それから、手帳の角を、一度だけ指で叩いた。
「明日は、外での仕入れ交渉に行きます。穀物問屋さん。ついてきてね」
「はい」
先輩は軽く手を振って、去っていった。
その背中を見送りながら、俺は、鞄の留め金を確かめるように、そっと手を当てた。
明日のことを考えると、なぜか、少しだけ楽しみだった。




