第2章 第29話「割れた壺」
第2章 第29話「割れた壺」
朝、宿の庭で、蜂蜜の箱を荷台へ載せた。
昨日決めた下段八箱、上段六箱の位置へ置いても、最後に縄を締める前には、もう一度中を見たくなる。俺は蓋を開け、壺の間に挟んだ布を直した。五十六個とも口は留まり、外側に蜜が付いているものもない。
隣へ蜜蝋の十袋を載せ、残りの商品と旅の道具を置く。ロイと箱の動かないことを見てから、雨よけを掛けた。
朝食を済ませ、頼んでおいた道の食べ物を受け取る。馬具を付け、宿の人に泊まりの精算をしてもらうと、ルーネで過ごす二晩が終わった。
「また品を見たいときは、寄っておくれ」
宿の女の人が言い、俺は礼を返した。
「はい。今度来るときは、太い針と糸も探してきます」
庭を出ると、昨日買い付けをした家の方へ目が向いた。まだ戸の閉まっている家もあれば、外で籠を動かしている人もいる。
俺は馬を急がせず、村から帰りの道へ入った。
*
荷が重くなった分、道の傾きが気になった。
緩い坂でも、荷車の動きは来たときと少し違う。手綱を持つ手だけでなく、車輪の音や箱の鳴り方へも気を配る。
ロイは先を歩き、ニーナは曲がるところで荷車の後ろを見てくれた。メアリも、反対側から縄の様子を伝えてくれる。
「ここは、轍が深いね」
ニーナの声に、俺は歩みを緩めた。
踏み固められた道に溝ができ、片側には土と草が寄っている。前の車輪を深いところへ落とさないように通し、荷台の方も抜けるのを待った。
そのとき、後ろの車輪が、草際の石を踏んだ。
御者台が持ち上がるように揺れ、次に落ちる。箱の鳴る音に、短く硬い音が重なった。
手綱を持ったまま、肩へ力が入る。
「荷、動いたか?」
俺が聞くと、メアリは荷台へ目を向けた。
「縄は掛かったままです。でも、箱の中から音がしました」
道はまだ狭い。俺は馬を落ち着かせ、先の少し広いところまで進んで止めた。ロイたちが周囲を見ている間に御者台を下り、雨よけをめくる。
箱の外側には、いつもと違う濡れた跡があった。
そこへ顔を寄せる前に、甘い匂いがした。
*
ロイと上に載せた箱を先に下ろし、濡れた跡のある下段の箱を開けた。一つの壺の胴に割れ目が入っていた。
下の方で欠けた部分から、蜂蜜が布へ流れている。敷いていた古い布は濃い色になり、木の底にも蜜が広がっていた。
俺はしばらく、壺を持ち上げる手を出せなかった。
口の蓋は留まっている。隣の壺に押されている様子もない。箱の縄も緩んでいなかった。それなのに、底に近いところから割れている。
「アッシュ、まず、その箱を下ろそう」
ロイの声で顔を上げた。彼は箱の反対側へ回り、持ち手を握った。俺も手を掛け、揺らさないように地面へ下ろす。
ニーナは道と木立を見ていた。メアリが空ける場所を作り、無事な壺を一つずつ移すのを手伝ってくれる。
割れた壺の中には、まだ蜂蜜が残っていた。けれど、底から剥がれた欠片も入っている。布へ染み込んだ分を集めても、村で量ってもらった品には戻せない。
俺は蓋の印を見て、買った家の控えを出した。
一つに五キロ。中身だけで銅百五十枚を払ったものだ。
壺にも銅十二枚を使っている。
昨日、町で売る見込みを書いたときには、こちらも銀二枚と銅五十枚で引き取ってもらえるはずの荷に入っていた。
「これは、売る分から外す」
口に出すと、ようやく壺から目を離せた。
「中に残っている分も?」
ロイが聞いたので、俺は頷いた。
「欠片が混じってる。町へ持っていっても、買ってもらう品にはできない」
メアリが布を寄せ、割れた陶器に触れないよう、箱の中を分けてくれた。俺も無事な壺の底を見た。外へ付いた蜜は拭き取り、中身が混ざらないように蓋を留め直す。
ひとつ失ったことより、まだ見ていない箱にも同じことが起きていたらどうしようという気持ちが、遅れて大きくなった。
*
残りの箱も全部開けた。
口と胴、底に近いところを順に見る。ほかの五十五個に割れや漏れは見つからず、蜜蝋の袋と生活物資の箱も無事だった。
俺はその数を帳面へ書き、ようやく息を吐いた。
「布を入れて、箱も留めてたんだけどな」
濡れた布へ目を落とすと、ロイが荷台の方を見た。
「箱そのものは、大きく動いてないみたいだ」
「うん。壺同士が当たらなくても、下から揺れが来るのかもしれない。布も、底で押し潰されてる」
俺は薄くなった敷き布を指でつまんだ。
空の壺を運んだときには、これで村まで着けた。中身を詰め、重くなった壺を載せたときにも同じだけ守ってくれると、考えすぎていたのだろう。
ただ、何が決め手になって割れたのかまでは分からない。石を踏んだ揺れ、壺の置き方、布の厚さ、上下に置いた箱の支え方。そのどれも確かめず、町で買った壺が悪かったと言うことはできなかった。
ニーナが周囲へ目を配りながら、こちらへ声を掛けた。
「ほかの箱は、積み直せそう?」
「ああ。今、やる」
俺は乾いた布を道具の包みから出し、底へ足した。少し敷く厚さを増やし、壺を箱の中へ戻す。縄の掛け方と箱の位置も見直したが、これでもう絶対に割れないと思えるほどの理由はなかった。
割れた壺と、欠片の混じった蜜は、無事な品から分けてまとめた。濡れた布も別に包み、泊まる宿へ着いてから片づけることにする。
荷車に何を積んでいるかは、朝と同じつもりだった。今は、売れる蜂蜜が五十五壺に減っている。
俺は帳面へ損失を記し、荷を戻した。
*
再び進み始めると、後ろで箱が鳴るたびに気になった。
すべての小石を避けることはできない。それでも、馬を急がせず、車輪の通る場所を前よりよく見る。休める場所では止まり、縄だけでなく箱の中まで見た。
昼の食事では、包みを開いてから、しばらく手が止まった。
ロイが水を飲み、こちらへ目を向ける。
「帰ったら、荷を運ぶ店の人にも聞いてみたらどうだ。壺を積んでる荷車は、町でも見るだろ」
「そうだな。買い取りの条件は聞いたけど、運び方をもっと聞けたかもしれない」
ニーナはパンをちぎりながら、
「今は、残った分を町へ持っていこう。ここからは、一つも減らさずに帰りたいね」
俺は頷き、食べ始めた。
昼の包みを脇へ置いたまま悔しがっていても、残った品が丈夫になるわけではない。三人も馬も、ここからまだ道を進む。
水を飲み、帰りに泊まる宿までの道をもう一度見た。
*
途中の村へ着いたのは、日がまだ高いうちだった。
行きに泊まった宿の男が、俺たちを見て手を上げる。
「ルーネから戻ったか」
「はい。今夜も四人で泊まりたいんですが」
空きを確かめ、馬と荷の置き場を頼んだ。荷を下ろす前に壺の箱を見直し、それ以上割れたものがないことを確かめる。
破損した品は別にしたまま、宿の男へ片づける場所を相談した。蜜の付いた箱を洗い、欠片をまとめる。中身も処分し、無事な品の部屋へ持ち込まないようにした。
片づけが終わるころには、庭へ長い影が伸び始めていた。
俺は残った布と針と糸の箱へ手を伸ばした。今日は壺ばかり気にしていたが、あの売り場で品を見てもらうつもりで戻ってきたのだ。
宿で売り場の様子を聞き、必要な手続きを済ませてから、もう一度商品を並べた。
「今度は帰りかい?」
行きにも品を見てくれた女の人が、台の前へ来た。
「はい。ルーネで買ったものを、町へ運ぶところです。こちらでも、残っている品を見てもらおうと思って」
糸の巻を見せると、女の人は一つ選んだ。ほかにも、布を少し切ってほしいという人や、針を買う人が来る。
欲しいものを聞き、布を測り、代金を受け取る。売るときの手順に戻ると、目の前の品と客の顔へ、久しぶりに落ち着いて目を向けられた。
今日売れたものを記す帳面の前には、壺を一つ失った記録がある。どちらも、同じ日に俺の商売で起きたことだった。
日が沈む前に品を畳み、残りを宿へしまった。
*
夕食を終え、部屋で帳面を開いた。
売れる蜂蜜は五十五壺、二百七十五キロ。蜜蝋は十袋、二十キロのまま。中身を失った一壺分の仕入れは銅百五十枚、容器の代金は銅十二枚。損失として、合わせて銅百六十二枚を分けて書いた。五十六個の壺を買った控えには、無事な五十五個と破損した一個を記しておく。
同時に、蜂蜜の売却見込みを、一壺分の銅二百五十枚だけ減らす。銀百四十枚の見込みは、銀百三十七枚と銅五十枚になった。蜜蝋の銀十四枚と合わせれば、特産品の売却見込みは銀百五十一枚と銅五十枚。まだ受け取っていない売上の見込みと、使った金の損失を、一緒の数字にはしなかった。
村での買い付けの控えは、そのまま残してある。払った銀貨が減ってくれるわけではない。
俺は手元に残った旅費も見て、明日帰るための金があることを確かめた。それから、壺を割った場所と、車輪が踏んだ石、箱の中の布の状態を書き留める。
町へ戻ったら、ヒルデにもこの話をしよう。壺を売る店や、荷を運ぶ人にも、重い容器をどう積んでいるか聞きたい。
窓の外で、ロイが庭へ出ていく足音がした。今夜も三人が荷を見てくれる。
俺は帳面を閉じ、明朝に積む箱の順を紙へ残した。
買ったときのまま、全部を町へ持っていくつもりだった。今日は、それができなかった。
明日は、五十五個を届けよう。
枕元へ鞄を置き、その数をもう一度、頭の中で確かめた。




