第2章 第13話「街道の現実」
第2章 第13話「街道の現実」
門を出てしばらくすると、車輪の音が変わった。
石畳を離れ、踏み固められた道へ入る。御者台の揺れも、町の中とは違っていた。轍の深いところを通るたびに体が少し傾き、俺は足の置き方を変えて座り直した。
前を歩くロイが、道の窪みを指して、
「そこは、少し左へ寄った方がいい」
「ああ」
馬の進む方向を見ながら、ゆっくり寄せる。車輪が窪みの脇を通ると、荷台の箱は小さく鳴っただけで済んだ。
町を出るまでは、歩いている人や曲がり角を見ていた。今は、道そのものにも気を配る必要がある。近い港へ行くだけでも、家の庭からそのまま走れるわけではなかった。
街道の先から、荷馬車が一台来た。
すれ違うために速さを落とすと、向こうの御者が軽く手を上げた。俺も頷いて返す。荷台には口を縛った袋が並び、護衛らしい男が脇を歩いていた。
「あれは、港から来た荷かな」
通り過ぎてから言うと、ニーナが少し振り返って、
「そっちから来たけど、中身までは分からないわね」
「だよな。何を積んでるのか、ちょっと気になった」
「今は、自分の荷を見ておいて」
「動いてないか?」
「今のところは。縄も緩んでない」
その返事で前へ目を戻した。並んで歩くメアリは、道だけでなく、馬の様子にも時々目を向けている。三人は話していても、ずっと俺の顔を見ているわけではなかった。
そういうところも、仕事なのだろう。俺は手綱の感触を確かめ、馬を急がせないように進んだ。
*
道の右側に、草の茂ったところがあった。
最初に気づいたのは、ニーナだった。御者台の右脇を歩いていた彼女が足を止め、弓へ手を掛けて、
「右。藪のところ、何かいる」
ロイが振り向いた。俺もそちらへ目を向けたが、はじめは揺れる草しか見えなかった。
次に、灰色の背中が現れた。
犬に似た姿をしている。だが、肩の辺りが妙に盛り上がり、低く出した顔には、唇からはみ出す牙が見えた。草から道へ足を出すと、馬が耳を動かし、短く鼻を鳴らした。
「魔物だ。アッシュ、止めて」
ロイの声で、俺は馬を止めようとした。手綱を強く引きかけ、慌てて力を加減する。馬が足を止めると、荷馬車が揺れ、箱が一つ鳴った。
音を確かめようと後ろを向きかけたところで、ニーナが声を上げた。
「荷は大丈夫。前を見て」
俺は前へ向き直った。
ロイは馬の右斜め前へ出て、魔物との間に立っていた。剣を抜き、足を少し開く。ニーナは道の右端へ寄り、ロイと重ならない位置から弓を上げた。メアリは荷馬車の左側に残り、反対側の草むらと後ろの道も確かめている。
剣を抜く音が、訓練場で木剣を持ち上げたときとは全く違って聞こえた。
魔物が低く唸る。
馬が一歩、後ろへ動こうとした。俺は思わず腰を浮かせたが、馬の頭へ駆け寄ろうとすれば、戦っているロイのそばへ出ることになる。
御者台へ座り直し、手綱を持って、馬へ声を掛けた。
「大丈夫だ。待ってくれ」
自分にも言っているような声だった。馬は首を振ったが、走り出しはしなかった。
*
魔物が飛び出した。
ニーナの矢が放たれ、灰色の体へ刺さる。そいつは姿勢を崩したが、止まらずにロイへ向かった。
ロイが半歩退き、剣を振る。
刃が背に触れたように見えた。けれど、魔物は倒れず、地面を蹴って向きを変えた。俺から見てロイの右側へ回り、荷馬車の方へ近づこうとする。
ロイも横へ動いて進路を塞ぐ。その袖が牙に引っかかり、布の裂ける音がした。
俺は手綱を握ったまま、腰の剣へ目を落とした。
抜くか。
そう考えた瞬間、馬がまた首を動かした。俺が手を離したら、今度はどうなる。ロイの前へ降りて、剣を持って立てば、彼は俺まで守ることにならないか。
鞘へ伸ばしかけた右手を戻した。
ロイの足元の近く、道の右端に枯れ葉が溜まっている。魔物はそこを背にして、剣の先を見ていた。御者台から数歩先で、風を出すなら、まだ届きそうな場所だった。
「ロイ! そいつの横、道の右端の葉を動かす!」
ロイは魔物から目を離さず、
「やってくれ!」
ニーナも矢をつがえ直していたが、俺の声に気づき、狙う動きを一度止めた。
手綱を左手へまとめ、右手を葉の方へ向ける。魔物でもロイでもなく、道端の一か所。訓練場の布を動かしたときの感覚を思い出し、短く風を起こした。
葉がかさりと擦れ、二、三枚が浮いた。
魔物の耳が動く。首が、ほんの少しだけ道端へ向いた。
その間に、ロイが踏み込んだ。
今度は剣が深く入り、灰色の体が地面へ崩れた。足が一度動き、唸り声が途切れる。
俺は両手で手綱を持ち直した。
終わった、と思ったところで、ニーナがまだ弓を下ろしていないことに気づく。彼女は藪へ目を向け、メアリも反対側を見ていた。
俺も周りを見る。草の奥から別のものが来ないか、後ろの道で何か動いていないか。さっきの一匹しか見えなかったが、見えなかっただけかもしれない。
ロイが魔物から少し下がり、周囲を確かめた。それから剣を下げて、
「ほかはいないみたいだ。少し、待ってくれ」
その声を聞いて、ようやく息を大きく吐けた。
*
メアリがロイの袖を見て、こちらへ来るようにと言った。
裂けた布の下に、浅い傷があった。ロイは自分でも腕を見て、動くから大丈夫だと答えたが、メアリは首を振り、
「動かせることと、手当てがいらないことは別です」
ニーナが周囲を見ている間、メアリは傷を確かめて、手をかざした。滲んでいた血が止まり、ロイの腕に入っていた力が少し抜ける。
俺は馬を落ち着かせてから、ロイへ声を掛けた。
「悪い。怪我をさせた」
「お前が噛んだわけじゃないだろ」
返されて、言葉が止まった。
ロイは腕を曲げ伸ばしし、メアリへ礼を言ってから、俺を見て、
「回り込まれたとき、剣を振る場所が近すぎた。次は、もう少し先で止めたい」
「……俺は、何か邪魔になってなかったか?」
「馬を止めてくれたし、急に降りてこなかった。風も、言ってから使ってくれた。それでよかったよ」
ニーナも藪から目を戻し、
「私の矢だけで止まるとは限らないからね。今みたいに、そのあとも見ていて」
俺は頷いた。矢が当たった瞬間、少しだけ安心していた。けれど、魔物は止まらず、そのあともロイが動いていた。
メアリが手当ての道具を片づけてから、俺の顔を見て、
「アッシュさんは、怪我はありませんか?」
「ああ。御者台にいたから」
「それなら、よかったです」
俺は手綱へ目を落とした。握っていた手が、まだ少しこわばっている。何度か指を動かし、力を抜いた。
ニーナが、もう荷車から降りて確かめても大丈夫だと言ったので、足の置き場を見て地面へ下りた。馬具と車輪、荷台の縄を順に見る。
箱は動いていなかった。布も濡れておらず、包みが外へ飛び出した様子もない。朝に掛けた縄は、そのまま留まっていた。
それを見た途端、膝の辺りから力が抜けそうになった。
荷は無事で、馬も立っている。三人も動ける。出発する前には当たり前に揃っていたものを、一つずつ見て、ようやくほっとした。
ロイが魔物の体を道の外へ寄せ、回収できるものをまとめる間も、ニーナは周囲を見ていた。俺は馬のそばへ戻り、メアリと一緒に様子を確かめてから、御者台へ上がった。
*
再び動き出すと、車輪が小さく揺れた。
行く前と変わらない道に見える。草があり、轍があり、先へ続いている。けれど今は、草の揺れが目に入るたびに、そちらを見てしまった。
ニーナはその様子に気づき、
「全部を怖がらなくていいわ。何か見つけたら、教えて」
「分かってるつもりなんだけど、どうしても気になるな」
「最初は、そうなると思う」
ロイは前を歩き、メアリはまた荷馬車の脇へ戻っていた。その位置へ目を向けると、俺も少し落ち着く。周りを見るために馬を放ってしまわないよう、手綱の感触へ意識を戻した。
朝の庭では、三人を迎えることが嬉しかった。今は、ここにいてくれることがありがたかった。
ゴードンさんに教わったことも、頭の中で思い出すだけではなかった。荷台の箱が鳴っても勝手に動かず、見たものを知らせ、手を離さない。その一つずつで、どうにか乗り切れたのだろう。
「港に着いたら、少し水を飲む時間を取ろう」
俺が言うと、ロイが振り返って、
「ああ。馬も休ませたいな」
予定の紙には、戦ったあとの俺たちの顔までは書いていなかった。市場に間に合うように急ぎたくなるが、今は馬の歩調を変えずに進む。
やがて道の先に、港町の建物が見えてきた。その向こうへ、細い線のような船のマストが幾つも伸びている。
俺は少し身を起こし、眺めた。
荷台の布も、針と糸の箱も、まだ売る前のまま載っている。まずはここまで運んできた。門へ近づいたら、書類を出し、市場へ向かう場所を確かめよう。
馬の歩く音を聞きながら、俺はスイーネ港の入口へ目を向けた。




