第2章 第12話「最初の一歩」
第2章 第12話「最初の一歩」
目が覚めたとき、窓の外はまだ薄暗かった。
寝台で少しだけ耳を澄ます。庭からは何の音もしない。馬が来るには早いし、三人が集まる時間にもなっていなかった。
それでも、もう一度寝る気にはならない。起き上がって服を着ると、机の脇へ置いた鞄を開いた。書類と帳面、釣り銭、別にしておいた買い付け用の金。昨日の夜に確かめたものが、そのまま収まっている。
鞄を閉じ、剣を腰へ下げた。歩くときに邪魔にならないか確かめてから、部屋を出る。
家の中にもまだ静けさが残っていた。台所にいた母へ、注文した食料を受け取りに行くと伝えると、こちらへ振り返って、
「もう起きたの?」
「目が覚めた。遅れるよりはいいだろ」
「そうね。忘れ物を取りに戻ってこなくて済むようにね」
そこは大丈夫だと返し、外へ出た。歩き始めてから、納屋の鍵があるか確かめる。指に触れた感触で安心したが、今の動きを母に見られたら笑われそうだった。
*
店で受け取ったパンは、包み越しにも温かかった。
家へ戻り、三人と朝に食べる分を分けてから、道中の食料をほかの荷とまとめる。水も用意し、庭の荷馬車へ運んだ。
納屋から出した布を、昨日決めた場所へ積む。針と糸の箱を置き、見せるための品は取り出しやすいところへ寄せた。食料と道具は商品と分け、箱が動かないように縄を掛ける。
一つ載せるたびに、空いていた荷台が変わっていく。
店で選んだ布も、包みに入っていた針も、今日は俺が港まで運ぶ品だった。手を止めて眺めていると、家の方から父が来て、荷台へ目を向けた。
「全部積めたか」
「ああ。あとは馬を待つだけ……じゃないな。三人も来る」
「先に確認を済ませておきなさい。待たせながら慌てることになるぞ」
俺は頷き、縄をもう一度確かめた。荷を取る順番も、雨よけの布を戻す手順も、昨日やったとおりだ。納屋に忘れたものがないか見てから、扉へ鍵を掛ける。
父はその間に荷馬車の周りを歩き、門までの通り道を見ていた。
*
約束の時間になると、表から馬の足音が聞こえた。
門を開けると、貸し馬屋の男が茶色い馬を引いていた。昨日は荷車だけを見てもらったが、今日はその前へ馬が来る。
「おはよう。荷は、このとおりで全部だな?」
「はい。食料と道具も積みました」
男は荷台を見てから、馬を荷車の前へ導いた。俺もそばへ立ち、馬具をつなぐところを一緒に確かめる。説明された場所を見て、手を添えるように言われたところへ触れると、馬の体温が近くにあった。
荷馬車だけを眺めていたときより、ずっと気が引き締まる。
つなぎ終えると、男は俺へ手綱を渡し、持ち方と声の掛け方を確かめてくれた。馬の横から見る顔は大きく、厩で紙へ鼻先を寄せてきたときのことを思い出す。
「引かせようとして、ずっと力を入れるなよ。まず、落ち着いて持て」
「はい」
少し息を吐き、握り直した。馬は一度耳を動かしたが、急いで踏み出すことはなかった。
借りる条件と返却の予定を改めて確かめ、代金を払う。男は控えを渡し、庭から出すときにも見ていくと言ってくれた。
それから間もなく、三人が門へ来た。
ロイが先に顔を見せ、その後ろからニーナとメアリが入ってくる。メアリは道順を書いた紙を鞄へ戻し、荷馬車を見て、
「ここで合っていましたね」
「ようこそ。まだ出てないから、間に合ってるよ」
俺が言うと、ニーナは馬と荷台へ目を向けて、
「ちゃんと揃ったわね」
「馬が来たのは今だけどな。荷は積めた」
ロイも近づき、俺が縄を留めたところを一緒に見た。ニーナは荷台の脇を回り、何がどこに置いてあるかを尋ねる。食料の包みを示すと、今度はそれを忘れずに確かめた。
「朝の分もあるよ。出る前に食べてくれ」
「ありがとう。移動しながら食べることになるかと思った」
三人へパンを渡し、俺も自分の分を手に取った。庭先で食べながら、今日の経路と、港を出る予定をもう一度話す。
ロイは食べ終えた包みを畳み、
「道で何かあったら、声を掛ける。慌てて荷車から降りなくていいからな」
「ああ。俺が見つけたものも、先に知らせる」
「風を使うときもね」
ニーナに言われ、頷いた。メアリは水の用意を確かめ、空いた包みをまとめてくれる。
俺の机に並んでいた準備が、今は馬と荷車の周りで、三人との会話になっていた。
*
御者台へ上がり、手綱を持つ。
何度も座った場所なのに、馬が前にいるだけで、膝の置き方まで気になった。剣の鞘が縁に当たらないように直し、前を見る。
母が戸口から来て、荷台を見上げた。
「帰りは、暗くなる前のつもりだったわね」
「ああ。港を出る時間も決めてある。遅れそうなら、無理に急がせないよ」
「売れないものがあっても、ちゃんと持って帰ってきなさい。帰ってから考えればいいんだから」
俺は頷いた。布も針も売りたいが、今日中に全部売れると決まってはいない。積んだ品へ目をやってから、母へ視線を戻し、
「分かった。行ってくる」
父が門のそばへ立ち、母もその隣へ寄った。ロイたちが二人へ挨拶をすると、母は少し頭を下げて、俺だけでなく三人も気をつけるようにと言った。
貸し馬屋の男に見てもらいながら、馬へ声を掛ける。
馬が踏み出した。
荷台がわずかに揺れ、座っている板を通して車輪の動きが伝わってくる。思わず手綱を握り込んだが、男の声を聞いて力を緩めた。
門を通る間は、荷車の幅にも目を配った。ニーナが横から見てくれ、ロイは前の道へ出る。車輪が庭から通りへ下りると、荷台の箱が小さく鳴った。
振り返ると、家族が門のところにいた。手綱を持っているので手は上げず、代わりに少し大きく頷く。母が手を振り、父もこちらを見ていた。
荷馬車は、そのままいつもの通りへ進んだ。
*
貸し馬屋の男とは、通りへ出て動きを確かめてから別れた。
町の中を、歩く人に合わせた速さで進む。見慣れた店の看板が、今日は少し低い位置に見えた。前を横切る人がいれば待ち、道が狭くなるところでは、ロイの声を聞いてゆっくり動かす。
自分の足なら気にせず通り過ぎていた角でも、後ろの車輪まで抜けるのに時間が掛かった。
荷台へ目を向けかけ、前へ戻す。荷を見ていて人にぶつけたら、それこそ商売どころではない。後ろを気にしていた俺に、ニーナが横から声を掛けて、
「荷は動いてないわ。前を見ていて」
「ありがとう」
メアリも反対側を歩いていた。俺だけで全部を見ようとしなくても、三人が見てくれるところがある。その代わり、俺は手綱を持ち、馬と荷車を進める。
そうして門が近づく頃には、最初ほど肩に力が入っていなかった。
*
城門の前には、出入りする荷馬車と、荷を持った人がいた。
順番を待ち、求められた登録の書類を出す。行き先を尋ねられ、スイーネ港で商売をして今日中に戻る予定だと答えた。門の職員は書類と荷を確かめ、こちらへ返して、
「通っていい」
短い言葉だった。
俺は書類を鞄へ収め、手綱を持ち直した。荷馬車が門の下へ入ると、一瞬、日差しが途切れる。車輪の音が石の壁の間で少し大きくなり、横を歩く三人も影に入った。
スイーズの門を出るのは、初めてではない。帝都へ向かったときも、帰ってきたときも、この町から外へ続く道を通った。
今日は、俺が選んだ荷馬車に、俺の金で仕入れた商品が載っている。横を歩く三人に仕事を頼んだのも俺だ。荷台の中身も、向かう場所も、自分で決めてここまで来た。
門の影を抜けると、朝の光が戻ってきた。
道の先をロイが見ている。ニーナは周りへ目を配り、メアリは荷馬車の脇を歩いていた。馬の耳が動き、俺の手にある手綱が、踏み出すたびに少し揺れる。
「アッシュ。このまま街道を行こう」
ロイに声を掛けられ、俺は頷いて、
「ああ。港へ行こう」
海は、まだ見えない。見えているのは、町の外へ続く道と、その上を歩く馬の背中だった。
俺は前を向き、次の一歩に合わせて進む荷馬車の揺れを受け止めた。




