第2章 第8話「まだ足りないもの」
第2章 第8話「まだ足りないもの」
翌朝、庭へ出ると、荷馬車は昨日置いた場所にあった。
荷台に掛けた布の端をめくり、空の板を眺める。父と片づけた納屋も、扉を開けばすぐ使える。昨日まではそれが嬉しくて、何度も行ったり来たりしていたが、今日は荷馬車の前で足が止まった。
引いてくれる馬がいない。
分かっていたことなのに、こうして家に届くと、早く動くところを見たくなる。鞄へ荷馬車の控えと書き込みのある紙を入れ、俺は貸し馬屋へ向かった。
*
一軒目の門を入ると、干し草の匂いがした。
厩の前には、水を飲んでいる馬と、手綱を持つ男がいる。俺が声を掛けると、男は桶を脇へ寄せて、
「乗る馬か、引く馬か?」
「荷馬車を引く馬です。一頭立ての荷車を買ったので、行商に使いたくて」
「何日借りる?」
「まだ行き先を決めていません。近場から始めるつもりですが、先に条件を聞いておこうと思いまして」
男は頷き、俺の持っていた紙へ目を向けた。荷車の控えを見せると、車体のことと積む荷を尋ねられた。買ったときに聞いた話は伝えられたが、商品については、まだ答えがない。
「荷車を持ってきてくれれば、馬具の方も合わせて見られる。荷が決まったら、それも聞かせてくれ」
「馬だけ借りればいいわけではないんですね」
「荷車につないで、荷を引くんだからな。合うものを使わんと、馬が困る」
俺は紙を広げ、借りるときに何を用意するのかを聞いた。馬具を含めた費用、餌の扱い、返す予定が延びたときの支払い。最初に尋ねた馬の借り賃だけでは、費用を比べられなかった。
書き終えたところで馬が顔を寄せ、紙のすぐ上へ鼻先を出した。慌てて引くと、男は手綱を短く持ち直して、
「食べ物は持ってないだろ?」
「紙しかありません」
「なら、そいつをやるなよ」
言われて笑いながら、紙を鞄へしまった。近くで見る馬の顔は大きい。これまで荷を積むときにも馬はいたが、扱う人が別にいて、俺がその顔をじっと見ることは少なかった。
「どの馬を借りるかは、そのときに決めるんですか?」
「そうだな。空いている馬も違うし、行く道と積む荷を聞いてからだ。荷馬車を扱い慣れているかも話してくれ」
「自分で行商に出るのは、これが初めてです。商会では荷の扱いはしていましたが、御者の仕事は人に任せていました」
「なら、それを最初に言ってくれればいい。借りに来たときには、つなぎ方も世話も確かめよう」
俺は頷いた。手綱を握るだけで出発できると思ってはいなかったが、尋ねることは、来る前よりずっと増えていた。
*
二軒目では、荷馬車を使う客に貸すときの条件をまとめて教えてもらった。
一軒目と比べると、借り賃に含まれるものが違う。紙に書いた値段を並べるだけなら、片方が安く見えたが、必要な馬具まで足してみると差は小さくなった。餌についても、移動先で用意できるか、持っていく必要があるかで変わるという。
店の男は、帰る日だけでなく時刻も聞かせてほしいと、
「夕方に戻れるつもりでも、荷を下ろしてから返すんだろ。ここへ来られるのが何時になるかも考えておいてくれ」
荷を下ろすところまで言われ、俺は家の庭を思い出した。
門をくぐれば終わり、とはいかない。納屋へ荷を運び、馬を荷車から外して、店へ返しに来る。疲れた足で歩いて戻るところまで、自分で段取りを付けることになる。
「宿泊するなら、馬を置ける宿も必要ですね」
「そうだ。自分だけ部屋へ入って、馬を表へ残すわけにはいかんからな」
まだ泊まりの行商をすると決めたわけではない。それでも、日数が増えれば借り賃だけが増えるわけではないことは、紙を見れば分かった。
店を出るときには、家に置いた荷馬車の姿が、朝とは少し違って思えた。御者台へ座る自分だけでなく、その前につながれた馬と、馬のために必要なものも浮かんでくる。
通りの先で、一台の荷馬車が動き出した。馬が踏み出すと、荷を積んだ車輪が石畳の上を回る。御者は前を見ながら手綱を持ち、角の手前で声を掛けていた。
立ち止まって見送り、俺も商業ギルドへ向かった。
*
ヒルデに会うと、まず荷馬車が届いたことを話した。
「雨よけも付けてもらった。納屋も片づけたし、荷物を置けるようになったよ」
「よかったわね。届いたものは、店で確かめたとおりだった?」
「ああ。手入れの仕方も聞いた。それで今日は、貸し馬屋を二軒回ってきたんだ」
相談机へ紙を広げると、ヒルデは俺の書き込みを順に見ていった。馬具や餌について聞いたことを話し終えると、余白へ指を添えて、
「行き先と日数が決まってから、もう一度相談することになったのね」
「そう。今借りても、庭で待たせるだけだからな」
「その間の世話も、あなたがすることになるわ」
俺は頷き、紙を自分の方へ少し戻した。
「荷馬車が来たら、ずいぶん準備が進んだ気がしたんだけど、動かすまでには、まだあるんだな」
「進んではいるわよ。これを買う前は、馬を借りる条件も、今ほど具体的には聞けなかったでしょう」
そう言われると、確かにそうだった。店で聞かれたことに全部は答えられなくても、荷車については伝えられた。次は荷と道を決めれば、今日より詳しく聞ける。
ヒルデは別の紙を出し、荷馬車に払った分と、父に払う納屋の使用料を書き分けた。それから俺のメモを横へ置いて、
「出発一回にかかる費用は、こちらへ分けましょう。馬を借りる費用と餌、護衛の報酬、食事。それに、行く場所で払うものもあるわ」
「門で払う税や、商売する場所の代金か」
「ええ。道によっては通行料も。行き先の候補ごとに、調べたものを出すから、日数と一緒に比べてみて」
ヒルデは近場の商売先についてまとめた資料を出し、紙の横へ置いた。市場の開かれる日や、商売できる場所も記されている。あとで落ち着いて読もうと、俺は受け取った。
商会でも運ぶ費用は見てきた。けれど今は、どの荷にいくら掛かったかを見るだけでなく、まだ買っていない品のために、道から選ばなくてはならない。
「先に全部仕入れたら、馬や護衛に払う分が足りなくなることもあるな」
「そうね。売れるまで戻ってこないお金もあるし、帰りに買い付ける分も残すなら、そこまで含めて考えておいて」
その言葉で、空の荷台に何を並べるかばかり考えていたことに気づいた。行きの商品が売れたとしても、帰りに何かを買うなら、その金と積む場所が要る。
「港や村で見つけたものを買って帰るなら、売る相手も先に調べるんだったな」
「ええ。持って帰っただけでは、荷物が増えるだけだもの」
「納屋を空けた途端、売れないものを詰めるのは困る」
俺が言うと、ヒルデは少し笑った。それから筆を置き、
「荷馬車が買えたことが嬉しいのは、分かるわ。だからこそ、最初から無理に全部埋めようとしないでね」
「そんなに分かりやすいか?」
「届いたって話しているときから、ずっと」
俺は紙へ目を落とした。そう言われても、庭に一台置かれているところを思い出すと、やはり嬉しい。
「あとは、護衛だな。町の外へは、一人で出ない」
「ええ。冒険者ギルドで、候補になる人たちを探しておきましょう。まずは近距離で、街道を中心に動くつもりだと伝えて、できる仕事を聞いてみて」
「行き先がまだ決まってなくても、相談できるか?」
「正式に頼むには場所と日程が必要だけれど、その前に話を聞くことはできるわ。あなたが何を頼みたいのかと、相手に何ができるのかを確かめておけば、行き先を選ぶときにも役立つでしょう」
俺は紙の端へ、冒険者ギルド、と書いた。その隣に、三日間の訓練で教わったことと、風の使い方についても話す、と足しておく。
風も勝手に使わず、何ができるか先に話しておく。ゴードンさんに教わったことを、忘れないように書き留めた。
ヒルデは書き終えるのを待ち、
「あなたがどれくらい動けるかも、ちゃんと伝えるのよ」
「できるふりはしないよ。左手のことも言う」
「ええ。出発までには、落ち着いているといいわね」
俺は左手を軽く開いた。傷は少しずつよくなっているが、荷物を持つときにはまだ気をつけている。準備が終わる前に、もう一度転ぶことだけは避けたかった。
*
家へ戻ると、納屋へ鞄を置き、庭の荷馬車に近づいた。
朝と同じ空の荷台だ。けれど今日は、紙に書いたものを一つずつ思い浮かべながら眺めた。売る商品、俺の食料、馬のために用意するもの。泊まるなら、そのための荷物も増える。
全部が決まったとき、この一台は、どんな姿になるだろう。
御者台へ上がりかけたが、今日は地面から前を見た。昨日届けに来た馬がいた場所には、まだ何もいない。その横を歩く護衛の顔も、俺は知らなかった。
明日は冒険者ギルドへ行こう。
訓練を受けに行ったときとは、用件が違う。今度は、俺の商売に一緒についてきてくれる人を探しに行く。
荷台の布を元どおりに掛け、納屋の鞄を取った。家へ戻る足は、今日も少しだけ弾んでいた。




