第2章 第7話「自分の一台」
第2章 第7話「自分の一台」
商業ギルドへ入ると、受付の前にはまだ人が並んでいた。
受付にいたヒルデと目が合うと、俺は鞄から紙を出して見せた。彼女は今の手続きが済むまで待つようにと、相談机の方へ目を向ける。そちらへ座って紙を広げると、三軒分の書き込みが、折り目を挟んで並んだ。
ほどなく来たヒルデは、向かいの椅子を引いて、
「いいものは見つかった?」
「ああ。三軒目の中古が、いちばんよさそうだった」
まず一軒目から順に話した。新しい荷車はきれいで、御者台に座ったときの気分もよかった。二軒目は安かったが、直すところが残っていた。三軒目は傷んだ部分の修理が済んでいて、乗り降りもしやすかった。
ヒルデは紙を自分の方へ寄せ、俺が書いた費用を見比べて、
「雨よけを付ける分は、ここまでに入っているのね?」
「三軒目は、そう。店を出る前にも確かめた」
「二軒目は、まだ修理が増えるかもしれない?」
「下まで見てからだと言われた。今書いてあるのは、板と車輪を直す分だけだよ」
彼女は頷き、三軒目の欄へ指を置いた。
「これを買ったあと、仕入れに回すお金は残せそう?」
「残せる。ただ、全部を商品にするつもりはない。馬も護衛も必要だし、出発してから使う分もあるから」
「ええ。まだ決まっていない費用があることは、覚えておいてね」
俺は紙へ目を落とした。新品を選べば、それだけ手元の金が減る。二軒目で修理を頼んでも、最後の支払いがいくらになるか、今は分からない。その点でも、三軒目の条件は考えやすかった。
「それに、座ってみて、あれがいちばん動きやすかったんだ。足を置くところも使いやすくて、荷台も見やすい。荷物を積んだら、また違うだろうけど」
「昨日話したことを、確かめてきたのね」
「危うく、最初の店で買いそうになったけどな」
正直に言うと、ヒルデは顔を上げた。
「新品が欲しかった?」
「欲しかった。あれに乗ったら、立派な商人に見えそうでさ」
「荷車だけ立派でも、商売はできないわよ」
「だから、降りてきたんだよ」
ヒルデが笑い、俺もつられて笑った。昨日、勝手に買ってから何とかしてくれとは言わないと約束しておいて、本当にそうなるところだった。
彼女はもう一度紙を眺め、俺へ返して、
「今聞いた条件なら、三軒目を選ぶ理由は分かるわ。あとは、代金を払う前に、含まれるものと受け取る日を確かめて」
「分かった。あれにする」
声に出すと、胸の内で揺れていたものが収まった。紙を折って鞄へ入れ、椅子から立ち上がる。
「ありがとう。決めてくるよ」
「ええ。買ったら、使う前に手入れの仕方も聞いておくのよ」
入口へ向かいながら、俺は一度だけ振り返った。ヒルデはまだ相談机のそばにいて、目が合うと、小さく頷いてくれた。
*
三軒目へ戻ると、店の男は工具を片づけていた。俺に気づいて手を止め、
「相談は済んだか?」
「はい。さっきの一台を買いたいです。雨よけも、話したとおりにお願いします」
「分かった。こっちへ来てくれ」
もう一度荷車の前へ行き、取り替えた板と車輪を見せてもらった。雨よけを付ける枠と布についても確認してから、受け取れる日を尋ねる。
「明日の夕方には渡せるよ。置くところはあるか?」
「実家の庭に。荷物を置く納屋も借りるつもりです。ただ、まだ馬がなくて」
「町の中なら届けられる。場所はどの辺りだ?」
通りの名と家の位置を伝え、配達の費用も聞いた。それを含めて支払う額を確かめると、男は店の帳面を開いた。
俺は財布を出し、硬貨を卓へ並べる。商会で預かった金を払ったことは何度もあるが、今日は、自分で貯めた金だった。数え終えると、もう一度確認してから差し出した。
男が代金を受け取り、控えを書いて渡してくれる。紙には俺の名前と、荷車、雨よけ、配達についての記載があった。
「明日の夕方だ。家にいてくれよ」
「はい。待っています」
店を出る前に、荷台の縁へ右手を置いた。傷の残る板も、色の違う新しい板も、さっき見たときと変わらない。なのに、自分のものになったと思うと、もう一度御者台へ上がりたくなった。
それは明日まで待つことにして、手を離した。
帰り道では、鞄に入れた控えが気になった。途中で一度取り出して読み、しまってからも、その場所へ手が行く。
庭へ入ってくる姿を想像すると、歩きながら笑ってしまいそうだった。
*
夕食のあと、父に荷馬車を買ったことを話した。
どんなものを選んだのか聞かれ、三軒を回ったことと、修理の済んだ中古に決めたことを説明する。父は最後まで聞いてから、
「明日来るのか」
「夕方に届けてもらう。庭へ置いてもいいだろ?」
「出入りの邪魔にならない場所ならな。納屋も使うつもりだったな」
「ああ。商品を置けるようにしておきたい」
父は納屋を借りるなら少額の使用料を払うようにと言った。家のものだから、ただで使わせてもらえるかもしれないとは思っていたが、代わりに商品を管理してくれるわけではないし、場所が要るのは俺の商売の都合だった。
「分かった。そこも、出ていく金に入れておく」
「家の帳面にも分けて書いておく。使う場所は、明日片づけておきなさい。重い棚は、私が帰ってから一緒に動かそう」
母は食器を片づけながら話を聞いていたが、俺が頷くと、
「荷馬車が来たら、すぐ出かけるの?」
「まだだよ。馬も借りてないし、商品も護衛もこれからだから」
「そう。それなら、慌てずに準備しなさいね」
その声に、家を出る日のことまで考えかけたが、今はまだ、庭に馬もいない。俺は明日やることを確かめ、部屋へ戻って支払いの控えを机に置いた。
買ったばかりなのに、もう店で見た御者台へ座りたくなっていた。
*
翌日は、朝から納屋を片づけた。
扉を開けると、古い籠や使っていない板が置かれ、棚の上にも家の道具が並んでいた。ひとまず軽いものを右手で運び、持ち主に確かめる必要があるものは一か所へ寄せる。商品を置く場所を空けたつもりでも、扉からそこまでの通り道が狭い。
箱を持って入る自分を想像し、置いたばかりの籠を別の方へ移した。
午後には床を掃き、使う場所をだいたい決めた。壁際は少し湿った匂いがする。荷をじかに床へ置くのは避けた方がよさそうだが、そのために使えそうな棚は、俺一人で動かすには大きかった。
父が帰宅すると、上着を脱いで納屋へ来てくれた。俺の空けた場所を眺め、それから棚の前へ立って、
「左手は、まだ痛むのか」
「力を入れると少し。軽いものは運べたよ」
「では、持ち上げるのはこちらでやる。お前は、動かした先で引っかからないか見てくれ」
父が棚を少しずつ動かし、俺は足元の板や籠をどけた。向きを変えて壁から離すと、空いた場所が思っていたより広くなる。棚へどんな商品を置くか、頭の中で並べてみたが、まだ仕入れるものは決まっていなかった。
「まず何を積むんだ?」
「それも、これから調べる。近場で売れるものからと思ってる」
「なら、まだ空けておけばいい。品が決まってから置き方を考えなさい」
俺は頷き、棚に残った埃を拭いた。
そうしていると、表から馬の足音が聞こえた。門へ出ると、店の男が一頭の馬を引き、昨日の荷車を連れてきていた。
荷台には雨よけの枠が付き、布が掛けられている。店の壁際にあったときより、少し背が高く見えた。
庭への道を空けると、男は馬を導いて荷車を入れた。車輪が土を踏み、家の脇で止まる。その光景を見ているだけで、昨日払った金が、ようやく目の前の一台になった気がした。
父と一緒に置く場所を伝え、馬を外してもらった。車輪を留め、雨よけの掛け方と外し方を教わる。男は最後に、手入れのときに確かめる場所を示して、
「気になる音がしたり、動きが変わったりしたら、無理に使わず持ってきてくれ」
「分かりました。ありがとうございます」
店でもらった控えと照らし合わせ、男を見送った。馬の足音が遠ざかっても、俺はすぐには家へ戻らなかった。
*
庭に荷馬車がある。
いつも見ていた家の脇へ、自分の選んだ一台が収まっていた。右手を添えて御者台へ上がり、座ってみる。見えるのは門と庭だけだが、店で試したときより長く、そこにいたくなった。
父が納屋の扉を閉め、こちらを見上げて、
「馬がいなくても、乗るんだな」
「せっかく来たんだから、少しくらい」
「落ち着いたら、家へ入りなさい。母さんが待っている」
そう言って先に戻った父を見送り、俺はもう一度荷台を振り返った。空っぽのそこに、明日すぐ商品が載るわけではない。馬を借りる条件も、護衛の頼み方も、まだ確かめることが残っている。
それでも、荷台の縁へ触れると、これから運ぶ品のことを考えたくなった。最初に何を積むのか。どこへ行って、誰に売るのか。考えているうちに、家の中から俺を呼ぶ声がした。
俺は右手を軽く上げて返事をし、足の置き場を確かめながら御者台から降りた。
戸口へ向かう途中、ついもう一度振り返る。夕方の庭に、自分の荷馬車がちゃんと置かれていた。




