第2章 第6話「最初の荷車」
第2章 第6話「最初の荷車」
朝食を済ませると、昨日の紙を鞄へ入れた。
いつもなら冒険者ギルドへ向かう時間だが、三日間の訓練はもう終わった。今日は荷車を見に行く。玄関で靴を履きながら、左手の布が緩んでいないか確かめた。傷はまだ少し痛むが、店を歩いて回る分には困らない。
通りへ出ると、荷を運ぶ馬車が俺の前を横切った。御者台に座る男が手綱を操り、曲がり角でゆっくり速度を落とす。昨日までも見ていたはずの光景なのに、今日は車輪の動きや荷台の高さに目が行った。
もう少ししたら、あそこに俺が座る。
そう思うと、つい足が速くなった。膝に残る痛みで歩調を戻し、それでも、店のある通りへ曲がる頃には口元が緩んでいた。
*
一軒目の店は、通りに面した広い敷地に荷車を並べていた。修理を待つものもあるが、入口近くには新しい車体が置かれている。木肌が明るく、荷台の板もきれいに揃っていた。
俺がその前で足を止めると、奥から出てきた店の男が、
「荷運び用をお探しですか?」
「はい。これから行商を始めるので、一頭で引くものを見たいんです」
「でしたら、こちらを。近場の運搬にも使えますよ」
示されたのは、ちょうど俺が眺めていた一台だった。荷台は広く、縁に付いた金具も頑丈そうに見える。商会で荷を積んだときのことを思い出しながら、箱を並べるところを想像してみた。
あれをここへ、こっちには袋物を。雨よけの布を掛けて縄で留めれば、ずいぶん商人らしい姿になる。
「乗ってみてもいいですか?」
「どうぞ。車輪は留めてありますから」
右手を添えて御者台へ上がると、店先の通りがよく見えた。訓練場の古い荷車より座るところが整っていて、板の角も丸く削ってある。ここで手綱を持って門を出ていく自分を思い浮かべると、なかなか降りる気になれなかった。
店の男は俺の顔を見て、
「気に入りましたか」
「ええ。いいですね、これ」
「初めての一台なら、長く使えるものを選ばれるといいですよ」
それには俺も頷きかけたが、値段を聞いたところで、ようやく鞄の中の紙を思い出した。
買えないことはない。ただ、買ったあとにも金は要る。商品を仕入れ、馬を借り、護衛を雇う。その分まで荷車の姿に重ねてみると、さっきほど簡単には頷けなくなった。
「最初に積む荷は、もうお決まりですか?」
「まだです。まずは近場からと思っていますが、行き先もこれから絞ります」
男は少し考え、並んでいる別の荷車も見せてくれた。そちらは荷台が小さく、値段も下がる。俺は両方の値段と雨よけを付ける場合の費用を聞き、紙へ書き込んだ。
降りるときには足を置く場所も確かめた。腰を下ろした感触がまだ残っていて、店を出てからも、一度振り返ってしまう。
あれで出発できたら、嬉しいだろうな。
けれど、今日はほかの店も見ると決めていた。紙を畳み、次の通りへ向かった。
*
二軒目では、店の前に古い車輪や板が積まれていた。奥から木を削る音がして、職人らしい男が作業台に向かっている。声を掛けると、手前に立っていた男が、中古の荷車を見せてくれた。
「これなら、安く出せるよ。荷台の広さも十分ある」
値段は一軒目より随分低かった。車体には傷があるが、商品を運ぶのに木肌のきれいさは関係ない。これなら仕入れに回せる金を多く残せると、俺は荷台の脇を歩いてみた。
ところが、裏側へ回ると、一枚の板に長い割れ目が見えた。縁を覗き込んでいると、店の男がそばへ来て、
「そこは直せる。交換するかい?」
「その費用は、さっきの値段に入っていますか?」
「いや、別になる」
昨日のヒルデの声を思い出し、俺は車輪の方も指した。
「こっちはどうですか。荷を積んで使う前に、直した方がいいところはありますか?」
男は奥の職人を呼んだ。出てきた職人は、片側の車輪へ手を掛け、少し動かしてから、俺にも分かるように傷んだところを示してくれた。
「これも手を入れた方がいいな。ほかは、下まで見てからだ」
「板と車輪を直すと、どれくらいになります?」
示された費用を紙へ足すと、最初に聞いた値段とは随分違う買い物になった。それでも新品よりは安いが、直している間は使えない。ほかにも修理が必要なら、その費用も増える。
店の男は、俺が紙を見ている間に、
「自分で少し直せるなら、悪くない買い物だよ」
「箱の壊れたところを打ち直したことならありますが、車輪は無理です」
「なら、そこは任せてもらった方がいいな」
俺もそう思った。商品を積んでから車輪に不安を感じるくらいなら、出発前に直しておきたい。
ただ、どこまで直せば安心して使えるのか、自分では見分けられない。修理後の値段をもう少し詳しく出してもらえるか聞き、礼を言って店を出た。
入口に積まれた車輪を横目で見ながら、紙へ「修理にかかる日数」と書き足す。店先で見たときには、そんなことまで考えていなかった。
*
昼食を挟んで三軒目へ着くと、店先では男が荷車の下へ半身を入れていた。
声を掛けると、男は外へ這い出し、膝についた木屑を払って、
「悪いな、聞こえなかった。修理か?」
「購入の相談です。一頭立てで、行商に使えるものを探しています」
「新しいのもあるが、手を入れた中古もある。どの辺りまで使うつもりだ?」
近場から始めたいことと、まだ行き先を決めていないことを話した。男は敷地の奥へ俺を連れていき、壁際に置かれた一台を示した。
荷台の縁には擦れた跡が残り、一部の板だけ色が新しい。最初の店で見た新品ほどきれいではないが、近づいてみると、取り替えた部分は丁寧に合わせてあった。
「前の持ち主が、大きいのに替えたんだ。傷んだ板を換えて、車輪と軸も確かめてある」
「直したところを、見せてもらってもいいですか?」
「ああ。ここだ」
男は隠さず指してくれた。俺は紙を出し、説明を聞きながら書き込む。しばらくして男が左手の布に目を留めたので、一昨日の訓練で転んだと話すと、
「じゃあ、持ち上げてみるのはよしとこう。見たいところは俺が動かす」
「すみません。御者台には座れますか?」
「乗れるよ。そこの足掛けを使ってな」
車輪を留めてもらってから上がると、足を置く場所が分かりやすかった。座って後ろを見る。荷台の広さは、一軒目で最初に見たものより控えめだ。それでも、当面の俺が扱うには十分そうに思えた。
少し身を寄せれば荷台の縁へ手が届く。地面へ降りるときにも、無理に足を伸ばさずに済んだ。
「雨よけの布を付けるなら、どうすればいいですか?」
男に尋ねると、荷台の左右へ布を掛けるための枠を付けられるという。縄を留める場所も見せてもらい、その費用を含めて値段を聞いた。
一軒目の新品より安い。二軒目ほど安くはないが、そこに修理代を足せば差は小さくなる。
「使っていて修理が必要になったら、ここへ持ってきてもいいですか?」
「構わんよ。板も車輪も、珍しい作りじゃない。よその町で困っても、荷車を直す職人なら見られるはずだ」
俺は車輪の脇にしゃがみ、見せてもらった部分をもう一度眺めた。自分で全部確かめられるわけではない。それでも、何を直したのか、これからどう使えるのかを聞けた分、最初より具体的に考えられる。
この荷台に仕入れた品を積む。余った場所には食料や雨具を置いて、縄でまとめる。御者台に座った自分の横を、雇った護衛が歩いている。
さっきまで別々だった準備が、一台の荷車の周りへ集まってくるようだった。
俺が立ち上がると、男は少し笑って、
「顔を見ると、気に入ったみたいだな」
「ええ。自分で使うところが、想像しやすいです」
「なら、どうする?」
買います、と言いかけた。
その一言で自分のものになると思うと、胸の内が浮き立つ。今なら金もある。明日、別の客が来て買ってしまうかもしれない。
だが、昨日の約束も、同じくらいはっきり覚えていた。
「一度、商業ギルドの担当者に相談してきます。買う前に候補を聞かせると約束したので」
「そうか。じゃあ、決まったら来てくれ」
「雨よけを付けた場合の値段も、この金額でいいですね?」
紙を見せて確認すると、男は頷いた。俺は礼を言い、店を出た。通りへ出てから少しだけ足を止めたが、戻って買うとは言わず、商業ギルドの方へ歩き出す。
*
途中で紙を開くと、三軒分の文字が並んでいた。
一軒目の新品は、今でも思い出すと欲しくなる。二軒目の安さにも惹かれた。けれど、今日聞いた話を添えて比べると、三軒目の一台が、今の俺には一番使いやすそうだった。
ヒルデにそう言ったら、何がよかったのか聞かれるだろう。乗り降りのしやすさ、修理された部分、雨よけを付ける費用。紙を眺めながら順番に考え、御者台から見た通りの景色を思い出した。
まだ買っていないのに、あの荷車へ乗って帰りたくなっている。
紙を畳んだところで、商業ギルドの看板が見えた。昨日は訓練の報告に来た扉だが、今日は選んできた一台の話を持っている。
俺は鞄へ紙をしまい、扉に手を掛けた。




