第2章 第5話「夕食と三年分の話」
第2章 第5話「夕食と三年分の話」
訓練の三日目は、左手を見せるところから始まった。
昨日巻いてもらった布をほどくと、ゴードンさんは傷を確かめ、指を動かすように言った。曲げ伸ばしはできるが、掌を強く握るとまだ痛む。そう伝えると、今日は剣を振る練習を減らし、荷車の周りでの動き方を確かめることになった。
御者台から降りるときは、足の置き場を見てから動く。前で何か起きても、それだけに気を取られず、横や後ろにも目を配る。昨日までに教わったことを繰り返すうちに、考えてから動ける場面が少しずつ増えてきた。
ただ、荷袋を置いて退く練習では、今日も一度、足を止めてしまった。手が届きそうなところにあると、どうしても拾いたくなる。
ゴードンさんはそれを見逃さず、木剣の先で退く方向を示して、
「拾えるかじゃない。拾っている間、誰が待つかを考えろ」
「……護衛です」
「分かってるなら、次は動け」
やり直しでは、袋の口を見ながらも足を止めなかった。惜しいものは惜しい。それでも戻る方を選ぶというのは、頭で納得するだけでは身につかないらしい。
午後の終わり、最後の確認を済ませると、ゴードンさんは俺から木剣を受け取り、棚へ戻して、
「三日間は、これで終わりだ」
そう言われてから、ようやく肩の力が抜けた。初日にここへ来たときより、できないことを随分たくさん知った気がする。
「町の外で、教わったとおりになるとは限らん。護衛が決まったら、先に話をしておけ。お前の風も、勝手に使うなよ」
「はい。何ができるかも、できないかも伝えます」
ゴードンさんに礼を言い、鞄を肩へ掛けた。昨日より足取りはましだったが、腕の重さは残っている。明日は荷車を見るつもりだ。店先で持ち上げてみろと言われても、今日は無理だなと思いながら、商業ギルドへ向かった。
*
ヒルデはまだ受付にいた。手続きを待つ人が何人かいたので、端の椅子へ座り、鞄からこの二日間の書き込みがある紙を出す。
荷馬車を選ぶときに確かめることと、護衛に伝えること。文字を追っていると、受付を離れたヒルデがこちらへ来た。
「今日は、どうだった?」
「これで三日間、終わり。左手は最初に見てもらったよ」
「ちゃんと言ったのね」
「その返事も覚えてるって言われたからな」
昨日の言葉を返すと、ヒルデは少し笑った。俺も紙を折り、彼女を見上げて、
「今日も、飯を食べながら相談に乗ってくれないか。荷車を見に行く前に、聞いておきたいことがあるんだ。飯くらい奢るよ」
ヒルデの視線が一度、折り畳んだ紙へ落ちた。すぐに返事が来ると思っていたので、その短い間に、俺は付け足した。
「まだ仕事が残ってるなら、待ってるけど」
「……あと少しで終わるわ。待っていて」
「ああ。店は、昨日のところでいいか?」
「ええ。安いし、美味しいでしょう」
「それは、もう知ってる」
ヒルデは口元を緩めてから受付へ戻った。俺は椅子に座り直し、通りを歩く人を眺めて待った。
*
三日続けて同じ店に入ると、入口から見える卓の並びまで覚えていた。煮込みの匂いがして、急に腹が減る。ヒルデの案内で空いている席へ座り、料理を頼んでから、俺は紙を卓へ広げた。
「明日は荷車を見て回ろうと思う。御者台へ座ることと、乗り降りのしやすさは確かめるとして、ほかにも見ておいた方がいいことはあるか?」
「どれくらい積むつもりか、聞かれると思うわ」
「それが、まだ決まってない。行く場所も売るものも、これからだし」
「だったら、最初から大きな荷を運ぶつもりで選ばないことね。大きい荷車は、それだけ馬が引く重さも増えるから」
俺は紙の余白へ書き足した。大きければ後々便利だろうと、少し考えていたところだった。まだ空いている荷台を、いつか売れるはずの商品で埋めるわけにもいかない。
「車輪や軸の状態も見てもらって。直す必要があるなら、いくらかかるかまで聞くのよ。安く買っても、すぐ修理に出すことになったら困るでしょう」
「修理を頼めるところも、確かめておくか」
「ええ。それと、馬は荷車だけを見て借りるものではないからね。道と日数、積む荷も決まってから、貸し馬屋と相談することになるわ」
荷車を買って、馬を借りれば出発できると思っていた。昨日までの訓練で必要な準備が増え、今度はその準備をするにも順番があると分かる。
けれど、面倒になったわけではなかった。候補を並べて、自分の金で一つを選ぶ。それを考えると、疲れた体とは別に、気持ちはもう明日の店先へ向かっていた。
「近くから始めるのがいいと思うんだ。道の様子も、馬の扱いも、まだ慣れてないし。ただ、近ければどこでもいいってわけじゃないよな」
「そうね。何が売れて、どこで売れるかを調べないと。候補の情報は出せるけれど、まずは荷車を見て、費用も整理しましょう」
「帰りに買えるものも、考えたい。往復分の馬代を払って、片道しか荷を積まないのは惜しいし」
「持ち帰ったものを誰に売るかも、一緒に考えておいてね」
俺が頷いたところで、料理が運ばれてきた。ヒルデも紙へ目を向け、
「買う前に、一度候補を聞かせて。今日話したことが全部揃っていなくても、比べれば分かることがあるから」
「分かった。勝手に買ってから、何とかしてくれとは言わないよ」
「言いそうな顔をしているわ」
「そんな顔してたか?」
「明日が楽しみ、という顔なら」
そこは否定できず、笑って紙を片づけた。湯気の立つ皿へ匙を入れると、ヒルデも自分の料理に手を伸ばした。
*
「ヒルデは、最初から今みたいに仕事ができたのか?」
少し腹が落ち着いたところで尋ねると、彼女は匙を止めた。
「できるわけがないでしょう。入ったばかりの頃は、書類を一つ受け取るにも確認していたわ」
「学院にいた頃から、こういうのは得意だったからさ」
「試験と仕事は違うもの。聞かれたことを調べて答えられても、相手が次に何をするつもりなのかまでは、なかなか分からなかった」
今のヒルデは、俺が荷車を買うと言えば、その先の馬や道のことまで話してくれる。その順番を覚えるまでにも、俺の知らない時間があったのだ。
「じゃあ、最初の一年は大変だったんだな」
「ええ。帰ってから、今日聞いたことを思い返していたわ。明日同じことを聞かれても答えられるように」
「俺もやった。教わったことを帰ってから書いておくんだけど、肝心なところで手が止まるんだよ。聞いてるときには分かったつもりだったのに」
「それで、次の日にもう一度聞いたの?」
「ああ。聞かずに間違える方が困るって言われてたからな」
ヒルデは、分かるというように頷いた。離れた場所で違う仕事をしていても、似たようなところでつまずいていたらしい。
「帝都は、どんな町だった?」
「人が多かったよ。最初は道を覚えるだけで大変でさ。買い物に出ても、帰る方角を先に確かめてた」
「あなたが?」
「俺を何だと思ってるんだ。知らない町なら迷うこともあるよ」
「学院では、先に歩いていく方だったでしょう」
言われて思い出す。次の授業へ向かうときも、用事があって外へ出るときも、俺はだいたい、行けば分かるだろうという調子だった。
「あの頃は、知ってる道だったからな」
「それでも、人の話を最後まで聞いてから歩き出す方ではなかったわ」
「そこまで覚えてるのか」
ヒルデは水の杯へ手を伸ばし、ひと口飲んでから、
「三年間、一緒にいたんだから」
そう言って皿へ目を戻した。俺にとっても、学院の三年間は長かった。帝都で過ごした三年間も同じ長さのはずなのに、振り返ると、ずっと多くのことが詰まっている。
「でも、仕事は楽しかったよ。覚えることが増えると、見えるものも増えるんだ。店に並んでる品を見ても、どこから来たのか、どうやってここまで運んだのかって、前より気になるようになった」
「だから、行商を選んだの?」
「それもある。今度は自分で行って、選んで、運んでみたいんだ」
ヒルデはしばらく俺の顔を見ていたが、やがて小さく笑って、
「その話をするときは、昔と同じ顔になるのね」
「変わってないか」
「変わったところもあるわ。今日だって、仕事が終わるまでちゃんと待っていたし」
「学院の頃でも、そのくらい待っただろ」
「待ちながら、あとどれくらいって聞いていたでしょう」
そこまで言われると、覚えがある。俺が笑うと、ヒルデもつられて笑った。受付では聞かなかった声で、懐かしくなる。
食べ終わっても少し話し、気づけば隣の卓の客が入れ替わっていた。昨日までは訓練の話をして、食べて帰るだけだったのに、今日は皿が空いてからの方が長かった。
*
勘定を済ませて店を出ると、通りには灯りがともっていた。ヒルデは俺の隣を歩きながら、
「ごちそうさま。今日は、随分話したわね」
「三年分には、まだ足りないけどな」
彼女の歩調が少し緩んだので、俺も足を合わせた。横を向くと、ヒルデは何か言いかけてから、口元を緩めて、
「そうね。まだ、足りないわね」
「また聞かせてくれよ。ギルドの仕事の話も」
「ええ。あなたの話も、また聞かせて」
別れ際、明日は荷車を見てからギルドへ寄ると伝えた。ヒルデは頷き、俺の左手を一度見て、無理に重いものを持たないようにと言った。
帰り道、鞄の中の紙を思い出した。明日確かめることは増えたが、聞きに行くのが楽しみだった。御者台へ座り、荷台を見て、店の人の話を聞く。自分で使うところを想像しながら、一台ずつ比べてみよう。
それに、選んできた話を聞いてくれる相手がいる。昔と同じように笑って話せたことを思い返しながら、俺は家へ続く通りを歩いた。




