第2章 第4話「戻ったら報告に」
第2章 第4話「戻ったら報告に」
ゴードンさんの予告は、よく当たった。
朝、寝台から起き上がろうとしただけで、腕と肩が揃って抗議してきた。脚も重い。昨日より少し早く家を出たのは正解だったが、その分だけ早く着けたわけではなかった。
訓練場で待っていたゴードンさんは、俺が歩いてくるところを見て、棚から木剣を取った。
「動けるか」
「動けます。ゆっくりなら」
「最初はゆっくりでいい。昨日の構えをしてみろ」
受け取った木剣を握り、片足を引く。昨日、何度も直された形を思い出しながら剣を上げると、肩に鈍い痛みが走った。
顔に出たらしい。ゴードンさんは俺の肘へ手を添え、少し下げた。
「無理に上げるな。痛みを庇って変な構えになるなら、そこも直す」
最初にやったのは、昨日と同じ足運びだった。
昨日できたことなら、少しは楽になると思っていた。ところが、体が痛むと足の出し方まで変わる。踏み込んだつもりが半歩足りず、戻ろうとすると今度は大きく退きすぎる。
「いつも元気な朝に襲われるとは限らんからな」
そう言われれば、そのとおりだった。行商に出れば、何日か続けて移動することもある。疲れているから今日は襲わないでくれと頼んでも、魔物が聞いてくれるはずはない。
俺は構え直し、今度は足元を確かめながら動いた。
*
ひと休みしたあと、ゴードンさんは木剣を荷車に立てかけ、
「風を見せろ」
昨日、話しておいた魔法のことだ。
「どこへ出せばいいですか」
「あの布へ。まず、できる範囲でやれ」
訓練場の杭に、細い布が結ばれていた。俺は少し離れたところへ立ち、そちらへ手を向ける。
布を動かすつもりで風を起こす。垂れていた端がふわりと浮き、すぐに元へ戻った。
それだけだった。
ゴードンさんは布を見てから、俺の方へ向き直り、
「もう一度。同じ場所へ」
今度は、布の横を風が抜けていった。端がわずかに揺れたが、さっきのようには浮かばない。
俺は手を下ろした。
「……狙ったところへ出すのも、まだ安定しません」
「なら、そこからだ」
ゴードンさんは杭のそばへ歩いていき、布の結び目を指した。
「ここを動かそうとするな。まず、この辺りへ出せるようにしろ。狙いを細かくするのは、そのあとだ」
言われた場所を何度か試す。
風そのものは起こせても、同じ向き、同じ位置へ出すのが難しい。少し強くしようとすると広がり、狭くしようとすると布に届かなくなる。
ようやく続けて二度、布の端を持ち上げられたところで、ゴードンさんが止め、
「疲れてきたか」
「少し、頭が重いです」
「休め。使い切るまでやるな」
俺は荷車の縁へ腰を下ろした。剣の訓練とは違う疲れ方で、額の辺りがぼんやりする。
「これで、何ができるんでしょう」
布を揺らしたところで、魔物を追い払えるとは思えない。
ゴードンさんはすぐには答えず、俺が少し休んでから、木剣を取り直して、
「立て。剣を持って、俺を見ろ」
言われたとおりに構える。ゴードンさんも、俺の正面で木剣を上げた。
そのまま待っていると、彼は木剣の先で、自分の右脇にある地面を指し、
「あそこへ風を出せ。落ちている葉を動かしてみろ」
俺から見れば左側、ゴードンさんから二歩ほど離れた場所だった。乾いた葉が、何枚か地面に落ちている。
「自分は、このまま向いていればいいですか」
「ああ。俺を見たまま、そっちへ出してみろ」
俺はゴードンさんと向かい合ったまま、指示された場所へ風を起こした。
枯れ葉がかさりと音を立てて舞う。ゴードンさんはその音に反応するように、右へ顔を向けた。
「今、何が変わった」
「こちらから目を離しました」
「そうだ。倒せなくても、気を引けることはある」
なるほどと思って、俺はもう一度やろうとした。だが、ゴードンさんは木剣の先を上げて止める。
「必ず見るわけじゃない。見ても、動きを止めるとは限らん。効いたと思い込んで近づくなよ」
「護衛が戦っているときにも、使えますか」
「相談してからだ。味方の目の前へ急に風を出して、誰が驚くか考えろ」
魔物の気を引くつもりで、護衛の邪魔をしてしまうかもしれない。
俺は杭の布を見た。少し動かせるだけでも嬉しかったのに、使うとなれば、狙う場所とタイミングまで考えなければならなかった。
「明日も、これを練習しますか」
「やる。剣を持っていても出せるか、周りを見ながら使えるか。今日は、まず場所を覚えろ」
俺は頷き、手を向け直した。
*
午後は荷車の周りで動く練習だった。
ゴードンさんの指示を聞いて、周囲を確かめ、御者台から降りる。退く方向が塞がれたという想定になれば、別の方へ回る。
昨日ほど荷袋に目を奪われなくなった代わりに、今日は足がついてこなかった。
何度目かの練習で、御者台から急いで降りようとした。片足を地面へ下ろしたつもりが、靴先が縁に引っかかる。
あ、と思う間に体が傾いた。
咄嗟についた左手へ、硬い地面の感触が走る。膝もついたが、そちらより掌が熱かった。
「動くな。どこを打った」
ゴードンさんがすぐに来た。
俺は体を起こし、左手を開いた。掌の下の方が擦れて、土が付いている。
「手です。あとは、膝を少し」
立てるか、足は動くかを確かめられ、それから訓練場の端へ連れていかれた。傷を洗ってもらうと、さっきまでより沁みた。
「足が上がってなかった。疲れたら、急ぐ前に動けるか確かめろ」
「はい」
「これで剣を振ると握り方が崩れる。今日は、残りを確認にする」
まだできると言いかけて、やめた。
手を握るだけで掌が痛む。できるふりをしても、教える方が困るだけだろう。
布を巻いてもらった左手を見ながら、俺は荷車へ戻った。今度は足を置く場所を確かめてから、御者台へ上がる。
地面までの高さは変わらないのに、さっきよりずっと注意して降りることになった。
*
商業ギルドでは、ヒルデが相談机に資料を広げていた。
俺に気づくと、椅子を示してくれる。その向かいへ座ろうとして鞄を下ろしたとき、彼女の視線が左手で止まった。
「その手、どうしたの?」
「荷車から降りる練習で、転んだ。擦り傷だよ」
ヒルデは紙を置き、こちらへ手を伸ばしかけた。そのまま一度止めてから、巻かれた布を見た。
「手当ては?」
「してもらった。ゴードンさんにも見てもらってる」
「ほかには?」
「膝を少し打ったけど、普通に歩ける。最後は無理しないで、動き方の確認だけにした」
そこまで話すと、ヒルデはようやく背もたれへ少し体を戻した。
「……そう」
机に置かれた紙の端へ、彼女の指が触れる。揃える必要もなさそうなのに、一度撫でてから手を離した。
「まだ町の中で、教える人もいたのよね」
「ああ」
「それでも、怪我はするのね」
俺は左手へ目を落とした。
たいした傷ではない。それは確かだったが、昨日まで何ともなかった手に布が巻かれているのも、確かなことだった。
「自分で思ってたより、足が動かなかったんだ。明日は、そこも気をつける」
「ええ。そうして」
ヒルデは頷いたものの、すぐには仕事の話へ戻らなかった。
いつもなら、俺が何をしたのか聞いて、次に確かめることを整理してくれる。今日もそのつもりで来たのだが、彼女は少し考えてから、俺の顔を見て、
「アッシュ。行商から戻ったら、報告に来てくれる?」
「ここへ?」
「ええ」
「帳簿を見てもらうつもりだったし、来るよ」
「帳簿ができてからじゃなくて、戻ったら」
言い直されて、俺は口を閉じた。
ヒルデの目は、机の資料ではなく、俺へ向いていた。
「帰ったことを、先に知らせてほしいの。商売の話は、そのあとでいいから」
「それも、担当者の仕事?」
聞くと、ヒルデは首を横に振った。
「ギルドの決まりではないわ」
少しだけ間が空いた。
「友達として、心配だから」
思っていたよりまっすぐな言葉だった。
俺は三年間、帝都で働いてきた。大変なこともあったが、毎朝行く場所があり、周りには仕事を教えてくれる人がいた。
これからは、自分で町を出る。どこを通って何日で戻るのかも、俺が決める。
ヒルデは、そういう仕事をする商人を、ここで見てきたのだろう。
「分かった。帰ったら、顔を出す」
「本当に?」
「ああ。帳簿ができてなくても、とりあえず帰ったって言いに来る。それならできるよ」
ヒルデは俺を見たまま、ゆっくり頷いて、
「それでいいわ」
「商売の方は、あとで怒られるかもしれないけどな」
「怒るために待っているわけじゃありません」
少し強く返されて、俺は笑った。
ヒルデも、そこでようやく表情を緩めた。
*
その日の夕食も、昨日と同じ食堂で取った。
ヒルデの仕事が終わるまで待ち、二人で通りを歩く。俺の左手を見た彼女が、鞄を持とうかと言ってくれたが、右手は使えるからと断った。
席に着くと、今日はさっそく食事を頼んだ。昨日より腹が減っていた。
「風の練習もしたんだ」
料理を待つ間に話すと、ヒルデは顔を上げた。
「何に使えそう?」
「まだ、狙ったところへ出す練習からだけど、相手の気を引くのには使えるかもしれないって。ただ、護衛に相談せずに使うなとも言われた」
「護衛が知らなければ、あなたが何をしようとしているのか分からないものね」
「そっちにも、話しておくことが増えたな」
俺は鞄から昨日の紙を出した。
ヒルデが書いてくれた文字の下へ、護衛に伝えることを書き足す。右手でペンを握り、左手は紙を押さえようとして、途中で浮かせた。
ヒルデが黙って紙の端を押さえてくれる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
書き終えた頃、皿が運ばれてきた。紙を片づけ、湯気の立つ料理へ匙を入れる。
しばらく食べてから、俺は顔を上げた。
「報告って、遅い時間に帰ったときは、翌日でもいいか?」
「もちろん。閉まっているギルドへ来ても、私はいないわ」
「門の前で待ってたら、別の心配をされるな」
「そうね。帰ってきたのに家へ帰らない理由を、聞くことになると思う」
真面目な顔で言われ、俺は思わず笑った。
それから、翌日が訓練の最終日だという話をした。まだ荷馬車も商品も用意していないが、訓練で確かめたことを思い出しながら選ぶなら、最初の相談に来た日とは少し違う選び方ができそうだった。
ヒルデは食事を終えると、俺の手元へちらりと目を向けて、
「明日、傷が痛むなら、最初に言ってね」
「分かってる。できるふりはしないよ」
「その返事も、覚えておきます」
店を出る頃には、通りの灯りがともっていた。
別れる前、俺は右手を軽く上げて、
「じゃあ、また明日」
「ええ。また明日」
歩き出してから、商業ギルドのある方へ一度目を向けた。
行商から帰った日も、あの扉を開ければいい。立派な帳簿ができていなくても、儲け話を持っていなくても、まず帰ったと言いに行く。
帰宅してからやることが、一つ決まった。
俺は鞄を持ち直し、家へ続く通りを歩いた。




