第2章 第3話「生きて戻るために」
第2章 第3話「生きて戻るために」
冒険者ギルドの扉を開けた途端、革と鉄の匂いがした。
朝から人が多い。壁の掲示板を囲んで相談する者もいれば、椅子に座って靴紐を締め直している者もいる。腰に剣を下げた男が俺の前を通り過ぎ、背中の荷物が戸口にぶつかって、隣の女に笑われていた。
商業ギルドとは、随分と雰囲気が違う。
それでも、受付に並んで用件を伝えるところは同じだった。ヒルデにもらった案内を出し、行商を始めるための訓練を受けたいと話すと、職員は裏手の訓練場へ案内してくれた。
踏み固められた地面に、木製の武器が並ぶ棚。奥には古い荷車が一台置かれている。その脇に立つ男が、こちらを見た。
四十代くらいだろうか。太い首と広い肩をしていて、右膝を少し庇うように立っている。
「行商人か」
「これから始めます。アッシュといいます」
「ゴードンだ。剣は使ったことがあるか」
「まともに扱ったことはありません」
「町の外で魔物に襲われたことは」
「ありません。帝都との行き来はしましたが、道中の判断は人に任せていました」
ゴードンさんは俺の靴から肩まで眺め、それから案内の紙を受け取った。
「三日で戦えるようになると思うなよ」
「生きて戻るための訓練だと聞いています」
「なら、話が早い」
紙を職員へ返し、棚から木剣を一本抜く。差し出されたそれを受け取ると、思っていたより重かった。
「両足を揃えるな。片方を少し引け」
言われたとおりに足を動かす。ゴードンさんは俺の手元を見て、指の位置を直した。
「握り潰すつもりで持つな。それじゃ腕が先に疲れる」
「落としそうで」
「落とさない程度に握れ。振る間も、ずっと同じ力で握り続ける必要はない」
ちょうどいい力加減が分からず、握り直すたびに木の柄が掌の中でずれた。商会で箱を持ち上げる仕事はしてきたが、荷物を持つのと剣を持つのでは、どうやら勝手が違うらしい。
ようやく構えが整ったところで、ゴードンさんが自分の木剣を持ち上げた。
「ゆっくり打つ。受けてみろ」
右肩へ向かってくる剣に、俺は慌てて自分の剣を合わせた。
乾いた音がして、腕が押し戻される。刃に見立てた部分が肩へ触れる前に、ゴードンさんは動きを止めた。
「剣だけ見るな」
「……見ないと、受けられない気がします」
「相手の手も、体も動く。剣が来てから考えたんじゃ遅い。もう一度だ」
次は肩の動きを見るつもりだった。
けれど、木剣が上がった途端、結局そちらへ目が吸い寄せられる。受けようとして腕を伸ばしたところで、今度は脇腹の前に剣が止まった。
さっきと同じところへ来ると思い込んでいたのだ。
ゴードンさんは何も言わず、一歩下がった。その顔を見ていると、言い訳をする気にもならなかった。
何度か繰り返すうちに、腕だけで剣を動かしていた俺は、少しずつ足も動かせるようになった。ただし、足が動けば剣が下がり、剣を上げれば今度は足が止まる。
全部を同時にやるのが、これほど難しいとは思わなかった。
*
午前の終わりには、前腕がすっかり重くなっていた。
休憩を告げられ、壁際に座って水を飲む。ゴードンさんは俺の手から木剣を受け取り、地面に置いた。
「力が入りすぎだ」
「抜いているつもりなんですが」
「つもりと、できるのは別だ。疲れたら余計に握り込む。今のうちに覚えろ」
俺は掌を開いたり閉じたりした。普段なら何でもない動きなのに、指の付け根までだるい。
「護衛がいれば、自分が剣を使うのは最後の手段ですよね」
「そうなるように動くんだ」
ゴードンさんは奥の荷車へ顎を向けた。
「護衛が前で戦っているとき、お前はどうする」
「馬と荷を守ります」
「どうやって」
昨日、ヒルデにも似たことを聞かれた。
何をするべきかは、もう知っている。けれど、実際の動きにまで落とし込もうとすると、途端に言葉が続かなくなる。
「……馬が逃げないように、手綱を持つ?」
「馬の前に魔物がいるのに、頭のところまで出ていくのか」
そう言われて荷車を見ると、御者台から馬の頭までの距離が、急に長く感じられた。
ゴードンさんは立ち上がり、俺を荷車の脇へ連れていった。馬はついていないが、向きと位置を確かめるには十分だった。
「いつでも同じ場所にいればいいわけじゃない。敵がどこにいるか、道がどこへ続いているか、護衛が何をしようとしているか。それで変わる」
俺は御者台へ上がった。前に馬がいるつもりで座り、ゴードンさんの指す位置を見る。
「正面に一匹。護衛が前へ出た。そこで、右の草むらが動いた」
つい、右へ身を乗り出した。
「今、何をしようとした」
「何がいるのか、確かめようと」
「確かめるために近づくな。まず知らせろ。前の護衛は、そっちを見ていないかもしれん」
俺は姿勢を戻し、右を指した。
「右の草むらに、何かいます」
「それでいい。見えたものを言え。数も種類も分からんのに、勝手に決めるな」
次は後ろで物音がしたという想定だった。振り返るときに手綱まで引くつもりの動きをしてしまい、また止められる。
昼を挟んでも、派手な訓練は何もなかった。
荷車から降りる。周囲を見る。護衛に知らせる。邪魔にならない位置へ動く。退く方向を確かめる。
その繰り返しだったが、何も考えずに正しく動けるものは、一つもなかった。
*
午後、訓練場の端に荷袋が置かれた。
中身は詰め物だという。それでも、口を縛った袋が地面に転がっていると、落とした商品にしか見えない。
「お前の荷だ。拾って荷車へ戻せ」
俺は袋へ向かい、持ち上げようと腰を落とした。
その瞬間、背後で木が地面を叩いた。
驚いて振り返ると、ゴードンさんが木剣の先をこちらへ向けていた。
「今ので襲われた」
「拾えと言ったじゃないですか」
「周りに何もいないとは言ってない」
俺は袋を抱えたまま、返す言葉を失った。
「荷を見たら、荷だけ見ていた。落ちた場所へ走る前に、何を確かめる」
周り。護衛の位置。拾いに出られる状況なのか。
答えは分かるのに、言われる前には一つもやらなかった。
ゴードンさんは袋を地面へ戻させ、もう一度、荷車の脇へ俺を立たせた。
「次は俺が退けと言う。荷はここに置いていけ」
今度こそ、すぐに動くつもりだった。
だが、退けと声が飛んだとき、俺の目は袋へ向いた。一歩なら届く。腕を伸ばして掴めば、そのまま持って逃げられるのではないか。
考えた間に、ゴードンさんの木剣が袋の上へ下りた。
「遅い」
俺は唇を引き結んだ。
詰め物の袋でこれなら、本当に自分の金で買った商品だったら、どうなるだろう。出発前に何度も数え、売り先まで考えた荷を、簡単に置いていける気がしなかった。
「惜しいか」
「……はい」
「惜しくていい。だが、それでも動け」
ゴードンさんは木剣を引き、荷車の後ろを指した。
「護衛が退けと言ったら、お前が残るせいで、そいつも退けなくなる。袋を拾う間、誰が守る」
俺は空の荷車を見た。
まだ護衛も雇っていない。顔も知らない相手だ。それでも、自分が荷にしがみついたせいで誰かが戻ってくるところを想像すると、腹の奥が重くなった。
「もう一度、お願いします」
ゴードンさんは頷き、袋を少し離れた場所へ蹴って寄せた。
次の声では、袋へ目を向けたまま足を動かした。惜しい気持ちは消えなかったが、今度は立ち止まらずに荷車の後ろまで退けた。
その後も何度か位置を変えて繰り返し、ようやくその日の訓練が終わった。
木剣を棚へ戻そうとすると、腕が持ち上がらない。両手で置いた俺を見て、ゴードンさんが鼻を鳴らした。
「明日、もっと重く感じるぞ」
「明日には慣れる、とは言ってくれないんですね」
「慣れる前に筋肉が痛む」
嬉しくない予告だった。
俺が手を揉んでいると、ゴードンさんは思い出したように尋ねた。
「魔法は」
「生活魔法は使えます。風の適性もありますが、ごく僅かです」
「明日、見せろ。何に使えるかは、見てからだ」
俺は頷いた。自分からは役に立たないと言いかけたが、その判断まで今ここでする必要はないと、昨日ヒルデに言われたばかりだった。
*
商業ギルドへ着く頃には、腕だけでなく脚まで重くなっていた。
受付の仕事が一段落したヒルデは、俺を見るなり手元の書類を置いた。
「訓練、決まった?」
「決まって、そのまま一日やってきた」
「……随分、疲れた顔をしてる」
「顔だけならよかったんだけどな」
相談用の机へ座ろうとして、膝が思ったほど曲がらなかった。椅子へゆっくり腰を下ろす俺を、ヒルデが黙って見ている。
「何を教わったの?」
「剣の持ち方と、動き方。それから、荷物を捨てる練習」
ヒルデは少し眉を上げたが、荷袋を拾おうとして止められた話をすると、真面目な顔で頷いた。
「あなた、拾いに行きそうだものね」
「自分でも、今日そう思った」
話すうちに腹が鳴り、俺は途中で口を閉じた。ヒルデの視線が、一度だけ俺の腹へ下がる。
「昼食は食べたの?」
「食べたよ。ちゃんと」
「じゃあ、それだけ動いたのね」
「帰る前に何か食べるつもりなんだ。仕事が終わったら、少し話せるか? 飯を食べながらでいいから」
ヒルデは壁の時計を見てから、書類へ視線を戻した。
「少し待っていて。これを片づけたら終わるから」
案内されたのは、ギルドからほど近い食堂だった。
煮込みの匂いが漂う店内で、俺たちは壁際の小さな卓へ座った。皿が来ると、俺はさっそく匙を取ろうとして、指にうまく力が入らず持ち直した。
ヒルデは何か言いかけて、俺の手を見た。
「明日もあるんでしょう。今日は早く寝た方がいいわ」
「ゴードンさんにも、明日はもっと痛むって言われた」
「そういうことは、素直に聞いておきなさい」
煮込みを口へ運ぶと、温かさが空いた腹へ染みていく。しばらくは食べることに専念して、それから訓練の話を続けた。
荷車の上で周囲を見るだけでも、手や足が余計に動いてしまうこと。護衛に知らせるには、自分が何を見たのか、短く伝える必要があること。
ヒルデは時々質問を挟みながら聞いていた。
「荷馬車を選ぶとき、御者台へ座ってみたいな。今日乗っただけでも、地面に立っているときとは見え方が違った」
「ええ。乗り降りのしやすさも、自分で確かめるといいと思う」
「店の人に聞くことが増えた」
「覚えているうちに、書いておく?」
俺が頷くと、ヒルデは俺の鞄へ目を向けた。昨日の紙を出し、余白に書き足そうとして、ペンを握る手が止まる。
「……明日、読めればいいか」
「私が書くわ」
差し出された手にペンを渡すと、ヒルデは紙を自分の方へ寄せた。
言ったことが、見慣れた整った文字になっていく。
「ほかには?」
「今日は、それくらいかな」
ヒルデは書き終えてから、少し間を置いた。
「三日で、全部できるようにしようとしなくていいからね」
「ゴードンさんにも言われたよ」
「だったら、二人分聞いておいて」
俺が笑うと、ヒルデも口元を緩めた。
食事を終えて店を出る頃には、空にまだ薄く明るさが残っていた。別れ際、ヒルデに明日の訓練時間を聞かれ、朝からだと答える。
「遅れないようにね」
「そこまで信用ないか?」
「今日の歩き方を見ていると、心配になるの」
返す言葉を探している間に、ヒルデは小さく笑って歩き出した。
俺も家へ向かう。朝には気にも留めなかった石畳の段差が、帰り道ではやけに足に響いた。
部屋へ戻って鞄を下ろすと、ヒルデが書いてくれた紙を机に置いた。荷馬車を買う前に確かめたいことが、昨日より増えている。
その脇に、明日持っていくものを揃えた。
まだ一日だ。剣の持ち方も、退き方も、少し気を抜けば元に戻ってしまう。
寝台へ座り、靴を脱ごうと屈んだところで、脚の重さに思わず息が漏れた。
明日の朝は、少し早めに家を出よう。




