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大商人の軌跡  作者: なるみくん
第2章「独立」
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第2章 第2話「最初の相談」

第2章 第2話「最初の相談」


 ヒルデが俺の担当に決まると、さっきまで賑やかだった受付の奥も、ようやく普段の仕事に戻り始めた。


 ミレイは通りすがりにヒルデの肩を軽く叩き、何か耳打ちしてから自分の席へ戻っていった。ヒルデは返事をせず、机に置かれた書類の端を揃えている。


「……何か言われた?」


「仕事を増やさないように、と」


「それ、俺に言うことじゃないか?」


「そうね。だから、よろしくお願いします」


 澄ました顔で言われて、俺は思わず笑った。


 こういう返しをするところは変わっていない。学院でも、俺が余計なことを言うと、ヒルデはいつも涼しい顔で言い返してきた。


 ただ、目の前にいるのは、もう制服姿の同級生ではない。


 ヒルデは綴じた書類と白紙を手に取ると、受付脇の相談用の机へ俺を案内した。腰を下ろした途端、向かい側からペンが一本差し出される。


「まず、今の状況を聞かせて。どんな商売を始めたいのか、使えるお金はいくらあるのか。それによって準備の順番が変わるから」


「荷馬車を一台持って、行商をしたい。仕入れたものを自分で運んで、自分で売る。最初から遠くへ行くつもりはないけど、いずれは商売できる範囲を広げたいと思ってる」


「扱う商品は?」


「まだ決めてない。こっちの相場を見てからにするつもりだ。帝都で売れたものを、そのまま持ってくればいいとは思ってないよ」


 ヒルデは頷き、紙の上に短く書き留めた。


「使える資金は、金貨一枚と銀貨七十二枚。全部、俺の金だ」


 口にしてみると、不思議な重さがあった。


 商会では、これより大きな金額を扱ったこともある。帳簿の数字としてなら、驚くような額ではない。


 けれど、これは三年間働いて、俺の手元に残った金だった。使い方を間違えても、商会の誰かが穴を埋めてくれるわけではない。


「家からの援助を見込んでいる?」


「いや。この金で始める」


「住むところは?」


「実家。しばらく世話になるつもりだ」


「それなら、住居を借りる費用は抑えられるわね」


 ヒルデは書き終えると、紙をこちらへ向けた。資金の下に、荷馬車、馬、商品、護衛と、これから必要になるものが並んでいる。


「馬まで買うの?」


「そこは借りようと思ってる。荷馬車は買いたいけど、馬を持つと、商売に出ていない日も世話と餌が必要だろ。まずは貸し馬でやってみたい」


「ええ。その方針で条件を調べましょう。ただ、荷馬車を買って残ったお金を、全部仕入れに回さないでね」


「馬代と護衛代か」


「それもあるし、売れなかったときの分も。帰ってきた荷をすぐ現金に戻せるとは限らないでしょう?」


「……確かに」


 仕入れた商品が売れ残ること自体は、帝都でも何度も見てきた。だからこそ、手元に金を残す意味も分かる。


 それでも自分の荷馬車を思い浮かべると、つい、隙間なく商品を積みたくなってしまう。あれも売れる、これも売れそうだと考えているうちに、財布の方が空になりかねない。


「今、荷台をいっぱいにしたいと思ったでしょう」


「顔に出た?」


「少し」


「商売を始めるんだから、何も積んでないよりは夢があるだろ」


「夢だけ積んでも、馬は歩いてくれないわ」


 俺が吹き出すと、ヒルデも口元を緩めた。それから紙の隅に、予備資金、と書き足す。


 その一言だけで、荷台から何箱か下ろされた気分になった。


「それで、帝都ではどんな仕事をしていたの?」


「検品、荷造り、倉庫の仕事。それから帳簿と売買。仕入れの値段だけじゃなく、どこで誰に売れるかを見ることも教わった」


「品質の違いは見られる?」


「扱ってきたものなら。知らない商品を見ただけで分かる、とは言えないけど」


「買付先と販売先の交渉は?」


「経験はある。ただ、こっちにはまだ取引先がない」


 ヒルデのペンが紙を滑る。できることを聞かれて答えるうちに、少し肩の力が抜けてきた。


 三年間、何もせずに過ごしていたわけではない。教わって、間違えて、叱られて、次は同じ間違いをしないように働いてきた。その経験まで置いてきたつもりはなかった。


 ヒルデも、そこを否定する気はないらしい。


「売買の基本を一から覚える必要はなさそうね。商品の見方も、帳簿も、これから役に立つと思う」


「なら、あとは荷馬車を用意して――」


「馬を驚かせずに、荷車を止められる?」


 俺は途中で口を閉じた。


 ヒルデは責めるような顔をせず、そのまま続ける。


「雨で道が悪くなったとき、進むか戻るか判断できる? 途中で車輪がおかしくなったら、どこを確かめる?」


「……そこは、実際にやったことがない」


「護衛が魔物と戦っている間、あなたはどこにいる?」


 今度は、すぐには答えが出なかった。


 邪魔にならない場所、と言いかけてやめる。その程度の答えしか持っていないのが、自分でも分かった。


 ヒルデは俺の返事を待ってから、ペンを置いた。


「帝都へ行くときも、帰ってくるときも、旅はしたでしょう。でも、自分の馬と荷を預かって道中の判断をするのは、初めてなのよね」


「ああ。そこは違うな」


 道を通ったことがあるのと、道の上で仕事ができるのは別だった。


 商会でも荷を運ぶ仕事はあった。だが、その荷をどこへ、いつ、誰の護衛で運ぶかまで、俺一人で決めていたわけではない。


 売買なら考えられる。それで出発の準備もできるつもりになっていたが、机の上には、俺が答えられないことがまだ残っていた。


「護衛を雇っても、俺が何も知らなければ困るか」


「ええ。護衛には戦ってもらうけれど、馬や荷をどうするかまで、いつも任せきりにはできないわ。あなたが動いたせいで、護衛が守りに戻らなければならなくなることもある」


「それは、嫌だな」


「だから、商品を決める前に受けてほしい訓練があるの」


 ヒルデは持ってきた綴りを開き、一枚の案内を抜き出した。


 冒険者ギルドで行っている、町の外へ出る人間のための訓練だった。武器の基本的な扱いだけでなく、危険に遭ったときの動き方も教えるらしい。


「担当はゴードンさん。元冒険者で、今は訓練を受け持っている人よ。三日間、まずは行商に必要な基本を教わってほしい」


「三日で魔物を倒せるようになる?」


「倒しに行くための訓練じゃありません」


「だよな」


 案内に目を落とす。逃げる判断、護衛との連携。売上にも仕入れにも関係のない言葉ばかりなのに、これからの俺には、どれも必要だった。


「街道なら、そこまで危なくないと思ってたんだけど」


「森の奥よりは安全よ。でも、弱いと呼ばれる魔物でも、訓練した大人が一対一でようやく倒せる程度の力はある。弱いという言葉だけで判断しないで」


 ヒルデの声は落ち着いていたが、そこだけは少しはっきりしていた。


 俺は案内から顔を上げた。


「分かった。受けるよ」


 ヒルデは小さく息を吐き、紙を俺の側へ寄せた。


「明日の朝、冒険者ギルドで相談して。行商を始めるための訓練を受けたい、と伝えればいいわ」


「剣なんて、まともに振ったことがないんだけど」


「それも最初に伝えてね。できるふりをすると、教える人が困るから」


「風の適性はあるけど、そっちも頼りになるほどじゃない」


「それも含めて相談しましょう。使えるかどうかを、今ここで決める必要はないわ」


 できないことを並べるのは、あまり気分のいいものではない。


 それでも、ヒルデと話していると、不思議と気が重くならなかった。足りないものを一つずつ確かめて、どう埋めるかを考えている。三年間で覚えたことも、これから覚えることも、同じ紙の上に置かれていた。


「なあ。最初の商売は、どんなところがいいと思う?」


「まずは近いところ。道の状況が分かっていて、日程に無理のない範囲がいいわ。商品の相場と合わせて、こちらからも候補を出します」


 ヒルデは別の資料を開き、道の状況や通行に必要な費用を示してくれた。荷馬車や貸し馬を調べるときに、確かめるべき条件も書き添えていく。


「これ、持って帰っていいのか?」


「そのために用意したものよ。準備が進めば、必要な情報も変わるから、そのときにまた渡します」


「助かる。俺一人なら、荷馬車を先に買ってたかもしれない」


「見に行くのはいいと思うわ。自分で比べることも大事だし。ただ、決める前に、商売に使うお金がどれくらい残るかを一緒に確認しましょう」


 買うな、と止めるのではない。買ったあとに何ができるかまで見ようという話だった。


 俺は紙を手元に寄せ、空いているところへ、調べたいことを書き足した。


 荷馬車の状態。修理。貸し馬の条件。仕入れ先と販売先。


 書き始めると、次々に出てくる。自分で選べるのは楽しい。けれど、全部を今日決めなくてもいいと思えるだけで、随分と目の前が広くなった。


「ヒルデ、ちゃんと担当者なんだな」


 何気なく言うと、向かいのペンが止まった。


「……どういう意味?」


「いや、頼りになるってこと。学院の頃も、分からないところを聞くと、こんな感じで教えてくれたなと思って」


「昔の勉強と、一緒にしないでください」


「褒めたつもりなんだけど」


 ヒルデは一度俺を見てから、綴りへ目を戻した。


「仕事ですから」


 言葉ほど素っ気なくは聞こえなかった。俺は笑って、書き終えた紙を畳む。


 三年間会わなかった相手と、こうして話せるとは思っていなかった。昨日、受付で顔を見たときには驚いたが、今は、その向かいの椅子が案外しっくりきている。


「じゃあ、明日は冒険者ギルドだな」


「ええ。訓練の話が決まったら、教えて」


「分かった。相談に乗ってくれてありがとう」


 席を立ちかけた俺に、ヒルデが案内の紙を差し出した。話を聞くことに気を取られて、机の上に残していたらしい。


「肝心なものを忘れてる」


「……最初からこれか」


「先が思いやられるわね」


 そう言いながら、ヒルデは少し笑った。


 ギルドを出ると、通りには傾き始めた日が差していた。荷を積んだ馬車が石畳を進み、その脇を、帳面を抱えた男が足早に通り過ぎていく。


 来たときには、荷台に積まれた商品ばかり見ていた。


 今は、車輪の動きや、御者が手綱を扱う指にも目が向く。あれを自分でやるには、まだ覚えることがある。


 俺は手の中の案内をもう一度開き、冒険者ギルドの場所を確かめた。


 明日は、物を売る相手ではなく、生きて戻る方法を教えてくれる相手に会いに行く。


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