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大商人の軌跡  作者: なるみくん
第2章「独立」
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第1話「担当争奪戦」

第1話「担当争奪戦」


 翌日の午後、俺は再び商業ギルドの扉をくぐった。


 昨日と同じ青い屋根、同じ板張りの床。天井の魔導具の灯りも、掲示板を埋める相場表も変わっていない。変わったのは、俺の気分くらいだろう。


 昨日は行商人の登録に来た。今日は、その登録証を受け取りに来た。


 ただ、それだけの用事のはずだった。


 窓口には何人かの商人が並んでいた。中央の窓口で帳簿に目を落としていたヒルデが、俺の姿に気づいて顔を上げる。


「いらっしゃいませ。……アッシュさんですね。登録証のお受け取りですか?」


「ああ。昨日、午後に来るように言われたから」


「はい。確認印も済んでいます。少々お待ちください」


 きちんと整えられた制服の襟に、受付リーダーの印が光っていた。


 昨日、あの手が俺の襟元へ伸びかけたことを思い出す。三年前も、似たようなことがあった。けれど、ヒルデはもう帳簿の向こうの職員で、俺は窓口へ来た商人だ。


 昔のことは、昔のこと。


 俺はカウンターの前で、差し出される書類を待った。


「こちらが登録証です。氏名と登録番号に間違いがないか、ご確認ください」


 渡された札には俺の名前とギルドの印があった。裏返して確かめる。ようやく、自分の商売を始めるための証明が手に入った。


「間違いないよ。ありがとう」


「紛失した場合は、すぐに届け出てください。更新も毎年必要ですので――」


「ええっ、この人が昨日の?」


 突然、左隣から明るい声が割り込んだ。


 見ると、栗色の髪を一つに結んだ受付嬢が、こちらへ身を乗り出していた。目が合うと、彼女は遠慮のない笑顔を浮かべる。


「ミレイ。お客様の前ですよ」


 ヒルデの声が少し低くなった。


「お客様だから話しかけたんじゃない。昨日登録した、帝都帰りの新人さんでしょ?」


「登録者の情報を大声で話さないでください」


「あ、そうだった。ごめんなさい」


 謝りながら、まるで悪びれていない。


「私はミレイ。ヒルデとは同期なの。よろしくね、アッシュさん」


「こちらこそ」


 頭を下げると、さらにその隣から、小さな声がした。


「わ、私も、よろしくお願いしますぅ」


 帳簿を胸に抱えた若い受付嬢だ。柔らかい笑い方をするが、どうも人前では緊張するらしい。


「ノエラまで……」


「だって先輩、これから担当になる方には、挨拶しておいたほうがいいかとぉ」


「まだ担当は決まっていません」


 ヒルデがそう言った途端、ミレイの目が輝いた。


「そう! そこよ!」


「……何がですか」


「担当。昨日、受付したのはヒルデだけど、まだ割り当て前でしょ?」


 俺は思わず二人を見比べた。


「担当って?」


「ご説明がまだでしたね」


 ヒルデは俺に向き直り、カウンターに一枚の案内書を置いた。


「行商人には、商業ギルドの担当職員が付きます。登録の更新、通行許可、場所代、税の確認などの事務手続きに加え、相場や街道の状況、公開可能な依頼情報の案内も行います。商売を続けていくための相談窓口だと思ってください」


「そこまでしてもらえるのか」


「担当する商人の取引が増えれば、ギルドにとっても利益になりますから。もちろん、何を仕入れてどこへ売りに行くか、最後に決めるのはアッシュ自身です」


 なるほど。帝都では商会の先輩や倉庫の人たちに頼れたが、これからは自分一人で判断する場面が増える。町の税や市場の日程まで、毎回一から調べていては時間が足りない。


 相談できる相手がいるのはありがたい。


「それで、俺の担当は誰になるの?」


「私が――」


「はい、立候補!」


 ヒルデの言葉を遮って、ミレイが手を挙げた。


「……ミレイ」


「ちょうど新人の行商人さんを一人見たかったのよ。帝都で三年間も修行してきたなら、話も面白そうだし」


「面白さで担当を決める制度ではありません」


「もちろん仕事はするわよ。相場も依頼も、必要な情報は出せるし」


「今の担当数は?」


「え?」


「今の担当数です」


「……七人」


「私は四人です」


「ほら、そういうところ! 数字で攻めてくる!」


「数字を扱う仕事ですから」


 ヒルデは涼しい顔をしている。


 俺が何か言う前に、今度はノエラが遠慮がちに手を挙げた。


「あ、あのぉ。人数だけなら私、三人ですぅ」


「ノエラも?」


「新しい担当の経験も、積んだほうがいいのかなって……」


「真面目な理由ね」


 ミレイが感心したように頷いた。


「でも先月、通行許可の日付を間違えかけましたよね」


「提出する前に気づきましたぁ!」


「その点は、ちゃんと直せていました」


「褒めてるんですか、注意してるんですかぁ……」


 ノエラが困った顔をすると、ミレイが笑いを堪えきれなくなった。


 昨日の窓口では、ヒルデと二人でずいぶん静かな時間を過ごした。今日はその同じ場所が、やけににぎやかだ。


 俺は登録証を持ったまま、口を挟む隙を探していた。


「……一応、本人もここにいるんだけど」


「もちろん分かってるわよ」


 ミレイが即座に答える。


「じゃあ、どうして俺の前で争ってるんです?」


「そのほうが公平じゃない?」


「なるほど。そういう考え方もあるのか」


「納得しないでください」


 ヒルデに叱られた。


 そこへ、眼鏡をかけた男性職員が書類を抱えてやって来た。


「担当者の割り当てなら、運用細則第七項に規定があります」


「カイル、今はいいから」


「よくありません。『担当者の割り当ては、登録を受け付けた者を優先する』。原則はこれです」


 ヒルデが小さく頷く。


「そのとおりです」


「ただし、優先とは自動的な決定ではありません。職員ごとの担当件数、業務量、対応可能な分野についても確認が必要で――」


「ねえ、カイル」


「何だ?」


「説明、あと何項目ある?」


「関連規定だけなら、六つほど」


「やっぱりいいわ」


「まだ重要なところだぞ」


 カイルは不満そうだったが、俺に向き直ると、真面目な顔になった。


「通行許可や相場表で困ったら、担当者を通して私にも確認できます。窓口で分からないことを無理に決める必要はありません」


「ありがとうございます。それは助かります」


「ほら、ちゃんと役に立つでしょう」


 そう言ったのはヒルデだった。


 彼女が同僚の仕事を頼りにしているのを見て、少し意外に思った。学院にいた頃のヒルデは、何でも自分で片づけようとする印象があったからだ。


 三年間で変わったところもあるらしい。


「で、結局誰が担当するんだ?」


 俺の質問に、三人の受付嬢が同時に口を開きかけた。


「何の騒ぎだ」


 奥の扉から、のんびりした声がした。


 姿を見せたのは五十代くらいの男性だった。職員たちが姿勢を正す。


「バルザ課長」


 ヒルデが呼ぶと、課長はカウンターのこちら側に立つ俺を見て、登録証を指さした。


「新規の行商人か?」


「はい。アッシュといいます」


「そうか。で、担当の話か」


「公平に決めようとしていたところです」


 ミレイが胸を張る。


「なるほど。ずいぶん楽しそうな公平だな」


「課長までそんなことを」


 バルザ課長は笑いながら、ヒルデに尋ねた。


「昨日、登録を受け付けたのは?」


「私です」


「担当数は?」


「四人です」


「今の業務で無理はないか?」


「ありません。新規一名なら対応できます」


「本人の経歴は把握しているか?」


「帝都のロンバルド商会で三年間、見習いとして修行しています。雑貨と食品を中心に、荷車での行商を予定しています」


 返答が早い。俺が昨日書いた内容を、ほとんどそのまま覚えているらしい。


「ふむ。本人とは知り合いか?」


 ヒルデの動きが、ほんの少し止まった。


「……学院の同級生です」


「そうか。なら、その分、話も通じやすいだろう」


 バルザ課長はあっさりと頷いた。


「細則にも合う。負担にも余裕がある。ヒルデでいいな」


「課長、早くないですか?」


「ほかに何か業務上の問題があるか?」


「……ありません」


「なら決まりだ」


 ミレイは残念そうに肩を落としたが、すぐ俺のほうを向いた。


「アッシュさん、困ったら私の窓口にも来ていいからね」


「ありがとうございます」


「担当を横取りしないでください」


「してないわよ。助け合いでしょ?」


「それなら構いません」


「……本当に構わないの?」


「仕事の話なら」


 最後の一言だけ、妙にはっきりしていた。


 隣でノエラが、くすっと笑う。ヒルデは気づかなかったふりをしている。


 バルザ課長が改めて俺へ向き直った。


「アッシュ君、担当はヒルデでいいか? 君の意向も聞いておこう」


 俺はヒルデを見た。


 学院時代のことが、頭をよぎらなかったわけではない。三年間、連絡も取らなかった相手だ。昨日は、昔のことを思い出して少し落ち着かなかった。


 けれど、今日見たヒルデは、もう学院の教室にいた少女ではなかった。


 必要な説明をし、数字を確かめ、同僚の得意な仕事も使いながら、職員たちをまとめている。仕事を任せる相手として考えれば、これほど心強いことはない。


「お願いします。ヒルデが担当なら、安心できる」


 彼女が、一瞬だけ俺を見た。


「……承りました」


 すぐに背筋を伸ばして、丁寧に頭を下げる。


「担当者として、よろしくお願いいたします」


「こちらこそ」


「はいはい、決定!」


 ミレイがぱん、と一度手を打った。


「では私は仕事に戻りまーす。ヒルデ、顔が怖いわよ」


「怖くありません」


「そう? じゃあ嬉しい?」


「ミレイ」


「戻ります!」


 どうやら、今日のところはヒルデの勝ちらしい。


 もっとも、俺は何を争っていたのか、まだ半分くらいしか分かっていない。


 ヒルデが案内書を一枚、こちらへ差し出した。


「それでは、次にお越しになる時から、商売の計画を具体的に確認していきましょう。資金、取り扱う商品、運搬手段、行商する範囲。それから、町の外を一人の商人として動くために、足りない準備がないかも整理します」


「結構あるな」


「ありますよ。帝都の商会で三年間修行したとしても、自分で行商を始めるのは初めてでしょう?」


「そうだね」


「必要な相場表や街道情報、公開されている依頼は、計画に合わせてこちらから案内します。でも、私が全部決めてしまうわけにはいきません」


「分かってる。自分の商売だからな」


 そう答えると、ヒルデはわずかに表情を和らげた。


「……はい。そういうことです」


「頼りにしてるよ、担当さん」


「仕事ですから」


 間髪入れずに返ってきた。


 その言葉の響きが、少し懐かしかった。


 昔からヒルデは、何かをしてくれた時ほど、それを特別なことだと認めたがらなかった。今も同じなのかもしれない。


 俺は登録証を懐へしまった。そこには、昨日最初の一行を書いた革の帳面もある。


 行商人登録料、銀二枚。


 まだ商売で稼いだ金は一枚もない。荷車も買っていない。どこに何を売りに行くかも決まっていない。


 それでも、昨日より一つ先へ進んだ。


「じゃあ、また来るよ」


「お待ちしています。アッシュ」


 呼び捨てだった。


 俺が顔を上げると、ヒルデ自身も少し驚いたように見えた。それでも言い直さず、手元の書類を整える。


「……次は、時間に余裕を持って来てくださいね。確認することが多いので」


「分かった。ちゃんと空けておく」


「お願いします」


 扉へ向かう途中、背後でミレイの声がした。


「ねえ、ヒルデ。最後だけ急に昔に戻ってなかった?」


「仕事をしてください」


「してるってば!」


 思わず笑ってしまった。


 三年ぶりの故郷で、思っていたよりにぎやかな担当者決めになった。


 けれど、悪くない。


 商売を決めるのは俺だ。失敗した時の責任も俺が取る。だからこそ、必要な情報を持つ人がいてくれるのはありがたい。


 青い屋根のギルドを出ると、午後の広場には露店の声が響いていた。


 登録証を受け取っただけのつもりが、これから一緒に仕事をする相手まで決まった。


 俺は懐の帳面を軽く叩いて、歩き出した。


 次は、自分の商売を、ちゃんと形にしよう。


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