第1話「担当争奪戦」
第1話「担当争奪戦」
翌日の午後、俺は再び商業ギルドの扉をくぐった。
昨日と同じ青い屋根、同じ板張りの床。天井の魔導具の灯りも、掲示板を埋める相場表も変わっていない。変わったのは、俺の気分くらいだろう。
昨日は行商人の登録に来た。今日は、その登録証を受け取りに来た。
ただ、それだけの用事のはずだった。
窓口には何人かの商人が並んでいた。中央の窓口で帳簿に目を落としていたヒルデが、俺の姿に気づいて顔を上げる。
「いらっしゃいませ。……アッシュさんですね。登録証のお受け取りですか?」
「ああ。昨日、午後に来るように言われたから」
「はい。確認印も済んでいます。少々お待ちください」
きちんと整えられた制服の襟に、受付リーダーの印が光っていた。
昨日、あの手が俺の襟元へ伸びかけたことを思い出す。三年前も、似たようなことがあった。けれど、ヒルデはもう帳簿の向こうの職員で、俺は窓口へ来た商人だ。
昔のことは、昔のこと。
俺はカウンターの前で、差し出される書類を待った。
「こちらが登録証です。氏名と登録番号に間違いがないか、ご確認ください」
渡された札には俺の名前とギルドの印があった。裏返して確かめる。ようやく、自分の商売を始めるための証明が手に入った。
「間違いないよ。ありがとう」
「紛失した場合は、すぐに届け出てください。更新も毎年必要ですので――」
「ええっ、この人が昨日の?」
突然、左隣から明るい声が割り込んだ。
見ると、栗色の髪を一つに結んだ受付嬢が、こちらへ身を乗り出していた。目が合うと、彼女は遠慮のない笑顔を浮かべる。
「ミレイ。お客様の前ですよ」
ヒルデの声が少し低くなった。
「お客様だから話しかけたんじゃない。昨日登録した、帝都帰りの新人さんでしょ?」
「登録者の情報を大声で話さないでください」
「あ、そうだった。ごめんなさい」
謝りながら、まるで悪びれていない。
「私はミレイ。ヒルデとは同期なの。よろしくね、アッシュさん」
「こちらこそ」
頭を下げると、さらにその隣から、小さな声がした。
「わ、私も、よろしくお願いしますぅ」
帳簿を胸に抱えた若い受付嬢だ。柔らかい笑い方をするが、どうも人前では緊張するらしい。
「ノエラまで……」
「だって先輩、これから担当になる方には、挨拶しておいたほうがいいかとぉ」
「まだ担当は決まっていません」
ヒルデがそう言った途端、ミレイの目が輝いた。
「そう! そこよ!」
「……何がですか」
「担当。昨日、受付したのはヒルデだけど、まだ割り当て前でしょ?」
俺は思わず二人を見比べた。
「担当って?」
「ご説明がまだでしたね」
ヒルデは俺に向き直り、カウンターに一枚の案内書を置いた。
「行商人には、商業ギルドの担当職員が付きます。登録の更新、通行許可、場所代、税の確認などの事務手続きに加え、相場や街道の状況、公開可能な依頼情報の案内も行います。商売を続けていくための相談窓口だと思ってください」
「そこまでしてもらえるのか」
「担当する商人の取引が増えれば、ギルドにとっても利益になりますから。もちろん、何を仕入れてどこへ売りに行くか、最後に決めるのはアッシュ自身です」
なるほど。帝都では商会の先輩や倉庫の人たちに頼れたが、これからは自分一人で判断する場面が増える。町の税や市場の日程まで、毎回一から調べていては時間が足りない。
相談できる相手がいるのはありがたい。
「それで、俺の担当は誰になるの?」
「私が――」
「はい、立候補!」
ヒルデの言葉を遮って、ミレイが手を挙げた。
「……ミレイ」
「ちょうど新人の行商人さんを一人見たかったのよ。帝都で三年間も修行してきたなら、話も面白そうだし」
「面白さで担当を決める制度ではありません」
「もちろん仕事はするわよ。相場も依頼も、必要な情報は出せるし」
「今の担当数は?」
「え?」
「今の担当数です」
「……七人」
「私は四人です」
「ほら、そういうところ! 数字で攻めてくる!」
「数字を扱う仕事ですから」
ヒルデは涼しい顔をしている。
俺が何か言う前に、今度はノエラが遠慮がちに手を挙げた。
「あ、あのぉ。人数だけなら私、三人ですぅ」
「ノエラも?」
「新しい担当の経験も、積んだほうがいいのかなって……」
「真面目な理由ね」
ミレイが感心したように頷いた。
「でも先月、通行許可の日付を間違えかけましたよね」
「提出する前に気づきましたぁ!」
「その点は、ちゃんと直せていました」
「褒めてるんですか、注意してるんですかぁ……」
ノエラが困った顔をすると、ミレイが笑いを堪えきれなくなった。
昨日の窓口では、ヒルデと二人でずいぶん静かな時間を過ごした。今日はその同じ場所が、やけににぎやかだ。
俺は登録証を持ったまま、口を挟む隙を探していた。
「……一応、本人もここにいるんだけど」
「もちろん分かってるわよ」
ミレイが即座に答える。
「じゃあ、どうして俺の前で争ってるんです?」
「そのほうが公平じゃない?」
「なるほど。そういう考え方もあるのか」
「納得しないでください」
ヒルデに叱られた。
そこへ、眼鏡をかけた男性職員が書類を抱えてやって来た。
「担当者の割り当てなら、運用細則第七項に規定があります」
「カイル、今はいいから」
「よくありません。『担当者の割り当ては、登録を受け付けた者を優先する』。原則はこれです」
ヒルデが小さく頷く。
「そのとおりです」
「ただし、優先とは自動的な決定ではありません。職員ごとの担当件数、業務量、対応可能な分野についても確認が必要で――」
「ねえ、カイル」
「何だ?」
「説明、あと何項目ある?」
「関連規定だけなら、六つほど」
「やっぱりいいわ」
「まだ重要なところだぞ」
カイルは不満そうだったが、俺に向き直ると、真面目な顔になった。
「通行許可や相場表で困ったら、担当者を通して私にも確認できます。窓口で分からないことを無理に決める必要はありません」
「ありがとうございます。それは助かります」
「ほら、ちゃんと役に立つでしょう」
そう言ったのはヒルデだった。
彼女が同僚の仕事を頼りにしているのを見て、少し意外に思った。学院にいた頃のヒルデは、何でも自分で片づけようとする印象があったからだ。
三年間で変わったところもあるらしい。
「で、結局誰が担当するんだ?」
俺の質問に、三人の受付嬢が同時に口を開きかけた。
「何の騒ぎだ」
奥の扉から、のんびりした声がした。
姿を見せたのは五十代くらいの男性だった。職員たちが姿勢を正す。
「バルザ課長」
ヒルデが呼ぶと、課長はカウンターのこちら側に立つ俺を見て、登録証を指さした。
「新規の行商人か?」
「はい。アッシュといいます」
「そうか。で、担当の話か」
「公平に決めようとしていたところです」
ミレイが胸を張る。
「なるほど。ずいぶん楽しそうな公平だな」
「課長までそんなことを」
バルザ課長は笑いながら、ヒルデに尋ねた。
「昨日、登録を受け付けたのは?」
「私です」
「担当数は?」
「四人です」
「今の業務で無理はないか?」
「ありません。新規一名なら対応できます」
「本人の経歴は把握しているか?」
「帝都のロンバルド商会で三年間、見習いとして修行しています。雑貨と食品を中心に、荷車での行商を予定しています」
返答が早い。俺が昨日書いた内容を、ほとんどそのまま覚えているらしい。
「ふむ。本人とは知り合いか?」
ヒルデの動きが、ほんの少し止まった。
「……学院の同級生です」
「そうか。なら、その分、話も通じやすいだろう」
バルザ課長はあっさりと頷いた。
「細則にも合う。負担にも余裕がある。ヒルデでいいな」
「課長、早くないですか?」
「ほかに何か業務上の問題があるか?」
「……ありません」
「なら決まりだ」
ミレイは残念そうに肩を落としたが、すぐ俺のほうを向いた。
「アッシュさん、困ったら私の窓口にも来ていいからね」
「ありがとうございます」
「担当を横取りしないでください」
「してないわよ。助け合いでしょ?」
「それなら構いません」
「……本当に構わないの?」
「仕事の話なら」
最後の一言だけ、妙にはっきりしていた。
隣でノエラが、くすっと笑う。ヒルデは気づかなかったふりをしている。
バルザ課長が改めて俺へ向き直った。
「アッシュ君、担当はヒルデでいいか? 君の意向も聞いておこう」
俺はヒルデを見た。
学院時代のことが、頭をよぎらなかったわけではない。三年間、連絡も取らなかった相手だ。昨日は、昔のことを思い出して少し落ち着かなかった。
けれど、今日見たヒルデは、もう学院の教室にいた少女ではなかった。
必要な説明をし、数字を確かめ、同僚の得意な仕事も使いながら、職員たちをまとめている。仕事を任せる相手として考えれば、これほど心強いことはない。
「お願いします。ヒルデが担当なら、安心できる」
彼女が、一瞬だけ俺を見た。
「……承りました」
すぐに背筋を伸ばして、丁寧に頭を下げる。
「担当者として、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
「はいはい、決定!」
ミレイがぱん、と一度手を打った。
「では私は仕事に戻りまーす。ヒルデ、顔が怖いわよ」
「怖くありません」
「そう? じゃあ嬉しい?」
「ミレイ」
「戻ります!」
どうやら、今日のところはヒルデの勝ちらしい。
もっとも、俺は何を争っていたのか、まだ半分くらいしか分かっていない。
ヒルデが案内書を一枚、こちらへ差し出した。
「それでは、次にお越しになる時から、商売の計画を具体的に確認していきましょう。資金、取り扱う商品、運搬手段、行商する範囲。それから、町の外を一人の商人として動くために、足りない準備がないかも整理します」
「結構あるな」
「ありますよ。帝都の商会で三年間修行したとしても、自分で行商を始めるのは初めてでしょう?」
「そうだね」
「必要な相場表や街道情報、公開されている依頼は、計画に合わせてこちらから案内します。でも、私が全部決めてしまうわけにはいきません」
「分かってる。自分の商売だからな」
そう答えると、ヒルデはわずかに表情を和らげた。
「……はい。そういうことです」
「頼りにしてるよ、担当さん」
「仕事ですから」
間髪入れずに返ってきた。
その言葉の響きが、少し懐かしかった。
昔からヒルデは、何かをしてくれた時ほど、それを特別なことだと認めたがらなかった。今も同じなのかもしれない。
俺は登録証を懐へしまった。そこには、昨日最初の一行を書いた革の帳面もある。
行商人登録料、銀二枚。
まだ商売で稼いだ金は一枚もない。荷車も買っていない。どこに何を売りに行くかも決まっていない。
それでも、昨日より一つ先へ進んだ。
「じゃあ、また来るよ」
「お待ちしています。アッシュ」
呼び捨てだった。
俺が顔を上げると、ヒルデ自身も少し驚いたように見えた。それでも言い直さず、手元の書類を整える。
「……次は、時間に余裕を持って来てくださいね。確認することが多いので」
「分かった。ちゃんと空けておく」
「お願いします」
扉へ向かう途中、背後でミレイの声がした。
「ねえ、ヒルデ。最後だけ急に昔に戻ってなかった?」
「仕事をしてください」
「してるってば!」
思わず笑ってしまった。
三年ぶりの故郷で、思っていたよりにぎやかな担当者決めになった。
けれど、悪くない。
商売を決めるのは俺だ。失敗した時の責任も俺が取る。だからこそ、必要な情報を持つ人がいてくれるのはありがたい。
青い屋根のギルドを出ると、午後の広場には露店の声が響いていた。
登録証を受け取っただけのつもりが、これから一緒に仕事をする相手まで決まった。
俺は懐の帳面を軽く叩いて、歩き出した。
次は、自分の商売を、ちゃんと形にしよう。




