第40話「再会」
第40話「再会」
商業ギルドの建物は、三年前と、ほとんど変わっていなかった。
青い屋根。町の中心の広場に面した、石造りの二階建て。扉は両開きで、朝から人の出入りが絶えない。商人、職人、荷を抱えた使いの者。生まれた町から出ない人々の暮らしも、ここを通れば、何かしらの用事で、誰かと繋がっていく。
俺は、扉の前で、一度だけ、深く息を吸った。
懐の内側に、革の帳面がある。その硬さを確かめてから、扉を押した。
中は、広い板張りの部屋だった。
高い天井。壁際の掲示板に、依頼や相場の札がびっしりと貼られている。奥には、長い木のカウンターがあり、窓口が三つ並んでいた。天井の魔導具の灯りが、朝の光と混ざって、柔らかく部屋を照らしている。
右端の窓口だけが、空いていた。
そちらへ歩いていく。窓口の向こうで、女性が一人、帳簿に目を落としていた。
髪を後ろできちんとまとめている。ギルドの制服の襟は、一分の乱れもない。胸元に、小さな名札と、受付リーダーの印が付いていた。
足が、止まりかけた。
見間違えるはずがなかった。
背筋の伸び方。筆を持つ手の置き方。紙をめくる時の、小さな癖。
三年、会っていない。連絡も、一度もなかった。それなのに、体のほうが先に、覚えていた。
「いらっしゃいませ」
女性が、顔を上げた。
視線が、合った。
一拍、あった。
ほんの、わずかな間だった。窓口の向こうの彼女は、瞬きを一つして、それから、何事もなかったように、背筋を伸ばした。
「本日は、どのようなご用件でしょうか」
声は、落ち着いていた。
業務の声だった。三年前より、少しだけ低くなっている。
ヒルデだった。
「行商人の登録を、お願いしたい」
自分の声も、思ったより、平静だった。
「かしこまりました。新規のご登録ですね」
「はい」
「では、こちらの用紙に、必要事項をご記入ください」
ヒルデは、一枚の紙と、羽根筆を、カウンターの上に滑らせた。
その手は、少しも震えていなかった。
用紙を受け取り、窓口の脇の台に向かう。
氏名、出身、取り扱う品目、運搬の手段。項目を一つずつ埋めていく。
氏名、アッシュ。出身、スイーズ。品目は、雑貨と食品を中心に。運搬は、荷車一台。
「前職」の欄で、筆が止まった。
少し考えて、書いた。ロンバルド商会、見習い、三年。
記入を終えて、用紙を窓口に戻した。
ヒルデは、受け取ると、上から順に、目を通していく。
視線が、「前職」の欄で、わずかに止まった。
「……ロンバルド商会に、三年」
「はい」
「帝都の」
「はい。第二倉庫店で、修行をさせてもらいました」
「そうですか」
それだけだった。
淡々とした声のまま、ヒルデは、用紙の端を、指先で整えた。その指が、紙を、少しだけ強く押さえているのに、俺は、気づいてしまった。
指先が、白かった。
気づかない振りをした。
「行商人の登録について、ご説明します」
ヒルデは、書類を引き出しから取り出し、読み上げるように言った。
「登録料は、銀二枚。以降、毎年の更新が必要で、更新料は銀一枚です。更新を怠った場合は、登録が失効します」
「分かりました」
「町の出入りには、門で入市税が。橋や関所では、通行料がかかります。市場で店を出す場合は、市の日に場所代を納めてください。直轄領では税が単純ですが、他領に入ると、領主ごとに税や許可が異なります。入る前に、必ず確認を」
流れるような説明だった。
三年前の、学院の教室を思い出した。あの頃のヒルデは、先生の質問に、いつも一番に手を挙げた。答えが正しくても、少しも得意そうな顔をせず、ただ当然のように、背筋を伸ばして座っていた。
三年経って、彼女は、ギルドの受付リーダーになっていた。
きっと、ここでも、誰より早く、正確に、仕事をしてきたのだろう。
「以上ですが、ご不明な点は」
「ありません」
「では、登録料を」
俺は、財布から、銀貨を二枚、取り出した。
三年間、貯めたものから出す、最初の支出だった。銀貨が、カウンターの上で、小さく鳴った。
ヒルデは、それを数え、小さな箱に収めた。
受領の印を、紙に押す。朱の印影が、じわりと滲んだ。彼女は、指先を軽くかざした。生活魔法の乾燥だ。朱が、すっと乾く。
その手つきを、俺は、無意識に目で追っていた。
「手続きは、以上です」
ヒルデが、顔を上げた。
「ただ、登録証の発行には、ギルド長の確認印が必要です。本日は、ギルド長が不在でして」
「そうですか」
「ですので、お渡しは、明日以降になります。明日の午後に、もう一度、お越しいただけますか」
「分かりました。明日の午後に、また来ます」
「お願いいたします」
ヒルデは、軽く頭を下げた。
それで、終わりだった。
俺は、礼を言って、窓口に背を向けようとした。
その時、後ろから、声がした。
「アッシュさん」
振り返った。
ヒルデが、窓口の向こうで、立ち上がっていた。
何か、言い忘れたことがあるのだろうか。そう思った矢先に、彼女の右手が、カウンターの上を、すっと、こちらへ伸びた。
手が、俺の胸元へ、向かってくる。
あの日と、同じ動きだった。
学院の、卒業の日。別れ際に。何も言わずに、襟元へ伸びてきた、細い指。
あの指は、無言で襟を整えて、それから、素直でない言葉で、俺を送り出した。
だらしないまま、行かないで。
ヒルデの手が、俺の襟に触れる、ほんの少し手前で、止まった。
空中で、彼女の指が、わずかに、震えた。
それから、ゆっくりと、手を引いた。拳を握りしめて、カウンターの上に、置く。
沈黙が、落ちた。
窓口の向こうと、こちら側。カウンターの幅ほどの距離が、とてつもなく、遠かった。
「……襟が、曲がっています」
ヒルデが、言った。
声は、あくまで、業務の声だった。
「ギルドの窓口にいらっしゃる方は、身だしなみも、信用のうちです。だらしないままでは、行商人として、困りますよ」
あの日の言葉と、よく似ていた。
けれど、それは、事務的な言い回しに、きれいに包み直されていた。
俺は、何も言わなかった。
自分の襟に手をやって、そっと整えた。指先が、少し、震えているのを、悟られないように。
「……ありがとうございます」
「いえ」
ヒルデは、目を、逸らした。
窓口の帳簿に視線を落として、羽根筆を握り直す。頬のあたりが、ほんの少し、赤く見えたのは、きっと、窓から射す朝日のせいだった。
「では、明日の午後に」
「はい。お願いします」
俺は、今度こそ、窓口に背を向けた。
扉に向かって、歩いていく。足音が、板張りの床に、やけに大きく響いた。
背中に、視線を感じた気がした。
けれど、振り返らなかった。
外に出ると、春の光が、まぶしかった。
広場には、露店が出始めている。パンを焼く匂い。子どもの笑い声。鐘楼の鐘が、遠くで一つ、鳴った。
俺は、広場の端の石段に、腰を下ろした。
もう、終わったことだ。
あの卒業の日に別れてから、三年。互いに、何も言わなかった。連絡も、約束も、なかった。それが、あの頃の、俺たちの答えだった。
そう思っていた。
それなのに、襟に触れた指は、しばらく、そこから離れなかった。
自分の胸の中を、ゆっくりと、探ってみる。
アニーとの別れの痛みは、まだ、残っている。それは、確かだ。他の誰かで埋められるものではない。
ヒルデに対して、今、胸にあるものは、それとは、違う。
もっと古くて、静かで、名前のつけられないものだった。
懐から、革の帳面を取り出した。
会頭がくれた、まだ一文字も書かれていない、最初の帳簿。
俺は、羽根筆を、取り出した。
最初のページを、開く。
日付を、書く。その下に、短く、一行。
行商人登録料、銀二枚。
たった、それだけだった。
けれど、それは、俺の商いの、最初の一行だった。
インクが、紙に、ゆっくりと染み込んでいく。
ここから、始まる。
荷車一台の、小さな商いが。いつか、自分の商会を持つという、夢が。三年間の修行で得たものを、全部、持って。
顔を上げると、春の空が、どこまでも青かった。
遠くで、船の鐘の音が、聞こえた気がした。
きっと、川の下流の、スイーネ港の船だろう。
その向こうには、まだ見ぬ海が、広がっている。
知らない場所には、知らない市場がある。
俺は、帳面を閉じ、立ち上がった。
広場を、歩き出す。
その一歩は、少しだけ、軽かった。
(第1章 完)




