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大商人の軌跡  作者: なるみくん
第1章 帝都修行編
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第39話「帰郷」

第39話「帰郷」


春の初めの朝、俺は、帝都を発った。


三年前は、乗合馬車の硬い座席に揺られて来た道だ。今度は、少し違う道を選んだ。帝都から荷馬車で河港へ出て、そこから、川船で下る。


三年間、毎日のように荷を迎えていた河港から、客として船に乗る。それも、悪くないと思った。


行きは、三日がかりの馬車だった。帰りは、少しだけ贅沢をしてみた。見習いを終えた、自分への、ささやかな礼のつもりだった。


「故郷までなら、下りで、一日半ってとこだ」


船着き場で、船頭が言った。日に焼けた腕に、太い縄を巻きつけている。


「夜は、途中の町で岸に着ける。明日の昼過ぎには、スイーズの船着き場だ」


「お願いします」


運賃は、銅五十枚。乗合馬車より、ずっと安かった。ただし、荷を積む場所は限られるので、俺の荷は、背負える分だけに絞った。


荷といっても、着替えと、帳面と、いくつかの小物だ。会頭のくれた革の帳面は、懐の内側に、大事にしまってある。


川船は、ゆっくりと、岸壁を離れた。


大きな帆が、風を受けて、ふくらむ。船体が、わずかに傾いた。それから、滑るように、流れに乗った。


帝都の城壁が、少しずつ、後ろへ遠ざかっていく。


乗客は、俺を入れて、七人ほどだった。


荷を抱えた商人らしい男が二人。役所の外套を着た、官吏らしい中年の男。護衛の剣を腰に提げた、冒険者らしい若者が一人。それから、小さな包みを膝に抱えた、年配の女性。


町から出ない世界でも、動く人は、確かにいる。そして、そうでない人が乗っている時には、たいてい、理由がある。


「嫁いだ娘が、子を産むんでね」


隣に座った老女が、聞いてもいないのに、そう教えてくれた。


「初めての孫だ。この年になって、船に乗るとは思わなかったよ」


「それは、おめでとうございます」


「ありがとうね。あんたは、帰るのかい」


「はい。故郷に、帰るところです」


「そうかい。いい季節だよ」


老女は、嬉しそうに笑って、包みをぽんぽんと撫でた。


川は、広く、穏やかだった。


三年前、乗合馬車の窓から見た景色とは、まるで違って見える。あの時は、街道沿いの宿場を、一つずつ通り過ぎた。宿場ごとの、麦の値の違いに驚いた。


今は、川の上から、畑や森や村を眺めている。


岸辺では、子どもたちが、手を振っていた。水鳥が、船の舳先を横切っていく。春の光が、川面で、細かく砕けている。


潮の匂いはしない。川の、湿った土と水草の匂いだ。


同じ道を、逆の向きに行くのに、見える景色は、こんなにも違う。


「若いの、いい顔をしてるな」


船尾から、船頭が、声をかけてきた。


「そうでしょうか」


「商人の顔だ。何か、始めるんだろう」


「はい。小さな商いを、始めます」


「そうかい。じゃあ、この川を、また使うことがあるかもしれんな」


船頭は、そう言って、舵を握り直した。


その言葉が、不思議と、胸に残った。


夕方、船は、途中の町の船着き場に、錨を下ろした。


川沿いの小さな町だった。船宿に泊まり、素朴な夕飯をとる。川魚の焼いたものと、麦の粥。銅三十枚。


夜、宿の窓から、川を眺めた。


灯りが、水面に細長く揺れている。人の暮らしの灯りだ。三年前、この町を、通り過ぎただろうか。覚えていなかった。


前に通った時の俺は、何を考えていたのだろう。


初めての旅。初めての商会。何もかもが、新しくて、怖くて、胸が高鳴っていた。


あの頃の俺に、今の俺は、どう見えるのだろうか。


失ったものも、確かにある。けれど、それ以上に、手の中に残ったものがある。


懐の帳面に、そっと触れた。


まだ、何も書いていない。


けれど、もうすぐ、最初の一文字を書く。


二日目の昼過ぎ、船の舳先の向こうに、見慣れた景色が、現れた。


大河の流れが、大きく曲がる場所。その先に、白い壁と赤い屋根が、連なっている。


スイーズだった。


胸が、どくん、と鳴った。


三年。


その間、一度も、帰らなかった。帰る理由がなかったわけではない。ただ、この世界では、町を出た者が、わざわざ戻らないのが、普通だった。連絡もしなかった。向こうからも、来なかった。それが、当たり前だった。


それなのに、目の前の町は、少しも変わっていなかった。


石の船着き場。商業ギルドの、青い屋根。丘の上の、学院の鐘楼。


その鐘楼から、鐘の音が、ゆっくりと、流れてきた。


学院の、昼の鐘だ。


十二歳から三年間、毎日のように聞いていた音だった。


不意に、思い出した。


あの鐘の下で、同じクラスの誰かと、並んで歩いた日々のことを。


ヒルデは、今も、商業ギルドにいるのだろうか。


そんなことを、ふと思った。それだけだった。


もう、終わったことだ。そう思う自分が、確かにいた。


船が、船着き場に、静かに横づけされる。


船頭が、縄を投げた。縄は、岸の杭に、きれいに巻きついた。


「着いたぞ、若いの」


「ありがとうございました」


「いい商いをな」


船頭は、軽く手を挙げた。


俺は、荷を背負って、桟橋に、足を下ろした。


三年ぶりの、故郷の地面だった。


実家は、町の東側の、静かな通りにある。


石造りの、二階建て。門の脇の植え込みも、玄関の古い扉も、記憶の中の姿と、ほとんど変わらなかった。


扉の前で、少しだけ、立ち止まった。


何と言えばいいのか、分からなかった。ただいま、というのも、何だか違う気がした。


迷っていると、扉が、先に開いた。


「……あら」


母だった。


エプロンのまま、籠を抱えている。買い物から帰ってきたところなのか、これから出かけるところなのか。俺の顔を見て、動きを止めた。


「母さん」


「アッシュ」


母は、籠を持ったまま、まじまじと俺を見た。


頭の先から、足の先まで、ゆっくりと。


「……背が、伸びたかい」


「少しは」


「痩せたね。ちゃんと食べてるの」


「食べてるよ」


「どうだかね」


母は、鼻を鳴らした。それから、ふっと、肩の力を抜いた。


「おかえり」


それだけだった。


泣いても、抱きついてもこなかった。ただ、少しだけ目が赤かった気がしたが、それは、気のせいだったのかもしれない。


「入りなさい。荷物は、そこに置いて」


「うん」


「兄さんは、まだ役所。お義姉さんは、奥にいる。父さんも、夕方には帰るから」


母は、そう言いながら、台所へ向かった。慣れた手つきで、かまどに、指先の火を灯す。


小さな火が、ぽっと点いた。


その光景を見ていると、三年という時間が、すっと縮まった気がした。


夕方、父と祖父母に挨拶をした。


役所から帰ってきた父は、外套を脱ぎながら、俺を見て、一言だけ言った。


「帰ったか」


「うん。帰った」


「そうか」


それだけだった。祖父母も、奥の間から、顔を出して、「おお」と頷いた。兄夫婦は、少し照れたように笑って、挨拶をしてくれた。


誰も、大げさなことは言わなかった。


「決めたなら、頑張れ」


父が、箸を取りながら、ぼそりと言った。


「うん」


「それだけだ」


夕食の席は、いつも通り、静かだった。


母は、ほとんど、何も聞かなかった。町を離れたことを、あれだけ反対した人が、今は、黙って、俺の皿に、煮物を足してくれた。


食べ終わると、俺は、二階の自分の部屋に上がった。


三年前と、同じ部屋だった。


寝床も、机も、本棚も。埃は、きれいに拭かれていた。窓を開けると、春の夜風が、すっと入ってきた。


遠くで、夜警の鐘が、一つ、鳴った。


明日、商業ギルドへ行く。


行商人の登録をするために。


懐の帳面を、机の上に置いた。革の表紙が、灯りの下で、鈍く光っていた。


明日から、本当の意味で、俺の商いが始まる。


そう思いながら、俺は、静かに、灯りを消した。


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