第38話「独立の決意」
第38話「独立の決意」
冬の終わりの朝、俺は、会頭の部屋の前に立っていた。
扉を叩く前に、一度だけ、息を整える。手のひらが、少し湿っていた。あの河港の帰り道で、「いつか自分もやります」と口にした時と、同じ感覚だった。
けれど、今日は、「いつか」ではない。
「入れ」
中から、いつもの声がした。
会頭は、机に帳簿を広げていた。顔を上げずに、「何だ」と言う。
「お話があります」
「聞こう」
「独立させてください」
筆の音が、止まった。
会頭は、ゆっくりと顔を上げた。年輪の刻まれた目が、まっすぐに、俺を見ている。驚いた様子は、なかった。
「そうか」
「はい」
「座れ」
俺は、会頭の向かいの椅子に、腰を下ろした。
「理由を聞こう」
「自分の商会を、持ちたいからです」
会頭は、何も言わなかった。続けろ、という沈黙だった。
「三年間、ここで学ばせていただきました。仕入れ、売り、帳簿、人を任せること。会頭に連れていっていただいた日から、商人と経営者の違いも、少しだけ見えました」
「少しだけ、か」
「はい。少しだけです。全部は、見えていません。けれど、これ以上、ここにいて見えるものより、自分でやって、初めて見えるものが、多い気がします」
言葉を選びながら、続けた。
「故郷のスイーズで、行商から始めるつもりです。一人で、荷車一台から」
「資金は」
「三年間の給金と、ささやかな蓄えがあります。足りない分は、少しずつ、増やします」
会頭は、小さく頷いた。
それから、一呼吸、置いて、言った。
「娘さんのことが、理由か」
不意の一言だった。
先輩のことを、会頭が、自分から口にしたのは、初めてだった。
「……きっかけの一つであることは、否定しません」
俺は、正直に答えた。
「それがなければ、決意の時期は、もう少し遅れていたかもしれません。けれど、理由では、ありません。夢は、ずっと前から、ありました。商売が面白いと思った日から」
「ふむ」
「あの河港で、自分は、『いつか』と言いました。その『いつか』が、今になった。それだけです」
会頭は、しばらく、俺の顔を見ていた。
そして、ふっと、口元を緩めた。
「待っていた」
「え」
「あの日、河港の帰りに、お前が言っただろう。いつか自分もやる、と」
会頭は、机の上の帳簿を、ゆっくりと閉じた。
「商人は、口では何とでも言える。その言葉が、本物かどうか。私は、お前が一人前になるまで、見ていた」
「……」
「三年だ。もう、十分だろう」
胸の奥が、熱くなった。
会頭は、立ち上がって、窓のほうへ歩いていった。外では、荷車が、倉庫の前に着いたところだった。
「いつ、発つ」
「春の初め、入社から満三年のところで、と考えています」
「ふむ。それまでに、やることは」
「宿屋と布問屋の取引を、ダグさんとトムに引き継ぎます。控えの決まりは、そのまま残して」
「よし」
会頭は、窓の外を見たまま言った。
「アッシュ」
「はい」
「商売を始めてから、必ず、迷う時が来る。儲かる話に、目がくらむ時もある」
「はい」
「その時に思い出せ。『やらない』と決められる商人であれ、と。信用だけは、金で売り買いするな」
あの河港の昼の言葉が、鮮明に蘇った。
「……はい。肝に銘じます」
「それと」
会頭は、机の引き出しを開け、何かを取り出した。
革の表紙の、小さな帳面だった。まだ、一文字も書かれていない。
「持っていけ」
「これは」
「最初の帳簿だ。商売を始めたら、一番に、これに書け」
差し出された帳面を、俺は、両手で受け取った。
革の表紙は、少し硬くて、手によく馴染んだ。
「ありがとうございます」
「礼は、いらん」
会頭は、ようやく、こちらを向いた。
その表情は、いつもと変わらず、多くを語らなかった。けれど、その目の奥には、確かに、温かいものがあった。
「困ったら、来い。独立した者の面倒を見るのも、うちの仕事のうちだ」
「はい」
それが、会頭の、送り出しの言葉だった。
その日の昼、倉庫店の全員に、話をした。
ダグは、木箱に腰かけたまま、腕を組んで聞いていた。そして、一言。
「ようやくか」
「……ようやく、ですか」
「お前、前から顔に出てたんだよ。ここに収まる器じゃねえってな」
「そんなことは」
「あるさ。まあ、いい」
ダグは、鼻を鳴らして、立ち上がった。
「控えの読み合わせは、向こうでも、やれよ」
「はい」
「面倒くせえが、あれは、いい決まりだ」
それだけ言って、ダグは、荷の整理に戻っていった。背中が、少しだけ、小さく見えた。
トムは、目を真っ赤にしていた。
「アッシュさん、俺、手紙、書きます」
「ああ」
「返事、ください」
「分かった」
「声、小さくします」
「……それは、いい」
トムは、泣き笑いの顔で、何度も頷いた。
夕方、俺は、市の通りの奥へ、足を運んだ。
井戸のそばの露台に、キーリスが、いつも通り、腰掛けていた。
「よう」
「こんにちは」
俺は、手に持っていた小さな壺を、露台の端に置いた。
洗って、乾かした、空の壺だった。蓋は、割れたままだ。
「返しに来ました」
「……いらんと言ったろう」
「中身は、いただきました。ごちそうさまでした」
キーリスは、壺を見て、それから俺の顔を見た。
「何だ。今日は、改まった顔だな」
「独立します。春に、故郷へ戻って」
キーリスは、すぐには何も言わなかった。
眠たげな目が、いつの間にか、少しだけ開いていた。
「そうか」
ぽつりと言った。
「やるのか」
「はい」
「ふん」
キーリスは、壺を手に取って、蓋の割れ目を指でなぞった。
「寄る時は、顔を出せ」
「え」
「帝都に来る時だ。行商で、通るだろう」
「……はい。必ず」
「力になる程度のことは、してやる」
ぶっきらぼうな言い方だった。けれど、それは、とても、キーリスらしい言葉だった。
「ありがとうございます」
「礼は、いらん」
キーリスは、そう言って、いつものように、目を半分閉じた。
「元気でやれ」
「はい」
それで、十分だった。
商会へ戻る道すがら、夕日が、帝都の屋根を、橙色に染めていた。
三年間、歩き続けた、道だった。
石畳の凹みも、角の屋台の匂いも、通りの喧騒も。全部が、すっかり、体に染みついている。
懐には、会頭がくれた、革の帳面が、収まっていた。
まだ、何も書かれていない帳面。
そこに、最初の一文字を書く日が、もう、すぐそこまで来ていた。




