第37話「海の話」
第37話「海の話」
目が覚める前、白い帆を何枚も張った大きな船を見ていた。
岸壁に繋がれた船体が、朝の光を受けている。今朝は、帆の一枚一枚の張りまで、どこかはっきりしていた気がした。
けれど、瞼を開けて、屋根裏の梁が目に入った途端に、その景色は薄れた。
俺は、体を起こして、寝床の縁に座った。窓の外は、まだ薄暗い。小さな卓の上には、蜂蜜の壺が、蓋を戻して置いてある。
あの夜から、数日が経っていた。
味は、戻っていた。数字も、頭に入るようになった。空白が埋まったわけではない。ただ、その縁に立って、中を覗き込まなくても、一日を過ごせるようになっていた。
「アッシュ、今日は河港へ行ってこい」
朝の帳場で、会頭が言った。
「荷の受け取りですか」
「それと、川船問屋への届け物だ。昼までに戻れ」
「はい」
会頭は、それ以上は何も言わなかった。けれど、ここ数日、俺に外回りを多く振っているのは、気づいていた。
あの人は、そういうやり方で、人を見ている。
河港は、いつも通りの賑わいだった。
大きな帆柱が並び、水鳥が杭の上で羽を休めている。川の匂い。荷車引きの掛け声。積み下ろしの木箱が、岸壁で次々と運ばれていく。
届け物を済ませ、帰りの荷の手続きを待っていた時、見覚えのある背中が目に入った。
岸壁の端の、綱を結ぶ杭の脇。古びた外套を羽織った老人が、煙管をくわえて、川面を眺めていた。
「あ」
思わず、声が出た。
以前、ここで会った、元船乗りの老人だった。海の船を降りて、今は、川船の水先をしている人だ。
「……おお。倉庫のところの若いのか」
老人は、振り向いて、片目を細めた。
「ご無沙汰しています」
「ずいぶん、顔つきが変わったな。前は、もう少し、のんきな顔をしていた」
「そう、でしょうか」
「ああ。何か、あったか」
老人は、それ以上は聞かなかった。煙管を一息、ふかして、また川を見る。
俺は、少し迷ってから、老人の隣に腰を下ろした。
「海の話を、また聞かせてもらえませんか」
「また、か。若いのは、好きだな」
老人は、くつくつと笑った。
「前に話したのは、嵐の話だったか」
「はい。海は、人を選ばない、と」
「そうだったな」
しばらく、老人は黙っていた。煙管の先から、白い煙が、風に流れていく。
「最近な、妙な話を、仲間から聞いた」
「妙な話、ですか」
「西の海の向こうに、別の大陸があるらしい」
老人は、さらりと言った。
「……別の、大陸」
「ああ。この国の連中は、海に興味がないから、知らんだろうがな。帝国の外、ずっと西のほうの港では、もう何年も前から、大きな外洋船が行き来している。西の海を渡って、向こうの大陸の岸まで。片道、一月ほどだそうだ」
一月。
「往復で、三月かかる。それでも、行く者がいる」
「どうして、そこまで」
「商いになるからだ」
老人は、短く答えた。
「向こうの大陸にも、人が住んでいる。海沿いに町を作ってな。奥は、森が深くて、誰も入ったことがないらしい。船は、小さいのしか持っていない。だから、こっちの大きな船が着けば、珍しがられる」
「何を、売っているんですか」
「向こうの人間が見たことのないものなら、何でもだ。逆に、向こうの品は、こちらでは、珍しがられる」
老人は、煙管の灰を、杭の端に軽く落とした。
「外国の品は、河港にも、ときどき入ってくるだろう。倉庫の隅に、置いてあったりしてな」
思い当たった。
入社して間もない頃、倉庫の隅で見た、見慣れない模様の織物や、異国の香辛料の袋。あれは、そういう道を、通ってきたものだったのか。
「だが、この国の連中は、その品を、買うだけだ」
老人は、続けた。
「自分で船を出して、向こうへ行こうという者は、いない。陸の商いで、十分、食えるからな。国も、海には、目を向けん。偉い人たちは、海を、ただの水溜まりだと思っている」
その声には、わずかな苦さがあった。
「……東の海は」
俺は、ふと、聞いた。
「東? ああ」
老人は、首を横に振った。
「東は、別だ。あっちは、一月どころの話じゃない。何か月かかるか、分からん。出ていった船は、まず、戻らん。誰も、渡れた者はおらんよ」
「そう、ですか」
「そういう海だ。だから、西の話が、商人の間では噂になる」
老人は、煙管をしまい、腰を上げた。
「おしゃべりが、過ぎたな。若いのは、そろそろ荷の手続きだろう」
「はい。ありがとうございます」
「礼は、いらん」
老人は、そう言って、杭の脇から離れた。
「海を見たくなったら、またここへ来い。川の水先ぐらいなら、話してやる」
その背中は、古びた外套の下で、不思議と、真っすぐに見えた。
帰りの荷車に揺られながら、俺は、老人の言葉を、頭の中で何度も繰り返していた。
西の海の向こうに、別の大陸がある。
そこにも、人が住み、町があり、市場があるのだろう。見たことのない品を扱う、見たことのない商人たちが、いるのだろう。
そして、この国の誰も、そこへ行こうとしていない。
胸の奥で、何かが、ことり、と動いた。
前に、同じ感覚に、触れたことがある。
卒業の日。帝都へ向かう道の途中で、不意に浮かんだ、あの言葉。
知らない場所には、知らない市場がある。
遠く離れた場所の人々が、商品を通じて繋がっている。そんな景色を、なぜか、知っているような気がした。いつから持っているのか、自分でも分からない、不思議な感覚。
その感覚が、今、目の前の現実と、はっきり重なった。
荷車が、倉庫街の石畳を、がたがたと進んでいく。
自分の商会を持つ。
その夢は、商売が面白いと思った日から、ずっと、胸の奥にあった。何かを失ったからではない。失ったから、思い出したのでもない。
ただ、空白の縁から顔を上げた時、そこにあったのは、もう一度、歩き出せる場所だった。
先輩が、最後に言ってくれた言葉を、思い出した。
あなたは、大丈夫。
その言葉は、重荷ではなかった。背中に、そっと添えられた手のようだった。
商会に戻ると、夕方の光が、倉庫店の窓に差していた。
ダグが、荷を数えている。トムが、棚の木札を、きちんと並べ直している。
俺は、その光景を、少しの間、眺めていた。
ここで学んだことを、全部、持っていこう。
そう思った時、決意が、一つの形になりかけているのを、はっきりと感じた。




