第36話「傷物の一言」
第36話「傷物の一言」
キーリスの露台は、市の通りの奥、井戸のそばにある。
古びた布の上に、品が雑然と並んでいる。縁の欠けた皿。角の凹んだ銅の鍋。背に擦れ傷のある革の鞄。どれも、外装のどこかに疵がある。それなのに、通りがかりの客は、足を止める。
値札の数字が、不思議と安いのだ。
露台の奥の小さな腰掛けに、キーリスが座っていた。
いつも通り、ぼんやりしている。目は半分閉じていて、欠伸を噛み殺しているのかと思うと、客が品に手を伸ばした途端、ちらりと視線だけが動く。この人は、そういう人だった。
「……よう」
俺に気づいて、キーリスは短く言った。
「こんばんは」
「ああ」
それきり、会話は途切れた。
俺は、露台の前に立って、並んだ品を眺めた。
買いに来たわけではなかった。ただ、足が向いただけだ。それなのに、立ち止まれば、癖で、目が勝手に品を見始める。
端に置かれた、蓋にひびの入った小さな壺。手のひらに乗るほどの大きさで、釉薬が一部剥げている。値札は、銅八十枚。
同じ大きさの壺なら、市の相場は銅百二十枚前後のはずだ。蓋の割れで、三割ほど落としているのだろう。
気づけば、そんなことを考えていた。
いつぶりだろう。数字が、頭に入ってきたのは。
キーリスは、何も言わなかった。
以前は、先輩と二人で、毎回のように、この露台に寄った。先輩が品を手に取って、「これ、可愛い」と笑い、俺が値札を見て、原価を考え込んで、また笑われる。
今日は、隣に、誰もいない。
キーリスの視線が、一度だけ、俺の左側をかすめた。それから、すっと、空の井戸端へ逸れた。
聞かれるだろうか、と思った。
聞かれたら、どう答えればいいのか、分からなかった。
けれど、キーリスは、何も聞かなかった。
どれくらい、そうして立っていたのか。通りの灯りが、一つ増え、二つ増えた。客が来て、品を眺め、値を聞いて、去っていく。キーリスは、そのたびに、短い言葉で応じる。
客足が途切れた時、キーリスが、おもむろに腰を上げた。
「おい」
「はい」
キーリスは、俺が見ていた壺を、片手でひょいと取り上げた。
「これ、持ってけ」
「え」
「売り物にならん。蓋が割れてる」
「でも、値札が」
「売れ残りだ」
「それなら、代金は払います。銅八十枚で」
「いらん」
「そういうわけには。商売の礼儀として」
「いらんと言ってる」
キーリスは、面倒くさそうに言った。それから、壺を、俺の手に押しつけた。
陶器の冷たさと、思いのほかずしりとした重みが、掌に伝わった。
「何が入ってるんですか」
「開ければ分かる」
「……自分は、まだ、これを受け取る理由が」
「理由なんぞ、要らん」
キーリスは、腰掛けにどさりと座り直した。そして、あらぬ方向を見ながら、ぼそりと言った。
「中身は、悪くないぞ」
それだけだった。
励ます言葉でも、慰める言葉でもなかった。何があったのかを聞く言葉でもなかった。品の話だった。ただ、壺の中身が、悪くないと言っただけの。
「……ありがとうございます」
「礼もいらん」
キーリスは、また目を半分閉じた。もう、こちらを見ていない。
俺は、壺を両手で持ったまま、深く頭を下げた。
何も、言えなかった。何を言えば、いいのか分からなかった。
通りを歩きながら、俺は、壺の重みを、ずっと感じていた。
この人は、仕入れ先を、決して明かさない。商人同士の、礼儀のようなものだ。そして、俺の事情も、決して聞かない。それも、きっと、同じ礼儀なのだろう。
詮索しない。けれど、見ている。
そういう距離が、今の俺には、ありがたかった。
屋根裏に戻ったのは、夜も遅くなってからだった。
小さな卓の上に、壺を置いた。
灯りを、指先で、ぽっと灯す。蓋の割れ目に、橙色の光が差した。
そっと、蓋を持ち上げた。
割れた蓋は、思ったよりも軽く、すっと外れた。
甘い香りが、立ちのぼった。
中には、蜂蜜に漬けた木の実が、ぎっしりと詰まっていた。艶やかな琥珀色。粒は大きく、揃っていて、傷んだ様子は、どこにもなかった。
匙で一粒すくい、口に運んだ。
甘みが、舌の上で、ゆっくりと広がった。木の実の香ばしさが、後から追いかけてくる。
美味かった。
そう思った瞬間、自分が、ここ数日、何を食べても味を感じていなかったことに、気づいた。
味が、分かる。
たったそれだけのことが、胸に、静かに、こたえた。
俺は、匙を持ったまま、しばらく、動けなかった。
灯りの下で、蜂蜜が、とろりと光っていた。
外から、遠く、夜警の鐘の音が聞こえた。
その音を聞きながら、もう一粒、口に運んだ。
甘かった。
ただ、それだけを、感じていた。




