第35話「空白」
第35話「空白」
先輩のいない帳場は、思っていたより、広かった。
窓際の席には、誰も座らない。羽根筆は、いつの間にか片付けられていた。会頭が指示したのか、ダグが気を利かせたのか。どちらなのか、聞いていない。
仕事は、いつも通りに回った。
荷が着き、数え、控えに書き、読み合わせる。取引先を回り、値を聞き、頭を下げる。体は、勝手に動いた。
ただ、数字が、頭に入ってこなかった。
一度、帳簿の同じ行を、三回読み直した。三回目で、自分が何を見ているのか分からなくなって、手を止めた。羽根筆の先から、インクが一滴、紙に落ちた。
小さな染みが、じわりと広がっていく。
それを、ただ眺めていた。
不思議なことに、大きな失敗は、一つもなかった。
荷は間違えなかったし、控えも抜けなかった。宿屋への納品も、いつも通りに届いた。俺がぼんやりしていても、仕組みが、勝手に仕事を前へ進めてくれた。
あの失敗のあとに作った、赤い字の控えと、読み合わせの決まり。
あれを作ったのは、先輩と一緒だった。
そう気づいた時、喉の奥が、ぎゅっと詰まった。
「アッシュさん」
トムが、恐る恐る、声をかけてきた。
「あの、元気、出してください。俺、何もできませんけど、荷はちゃんと数えますから」
「……ありがとう。大丈夫だ」
「でも」
「トム」
横から、ダグの低い声が飛んだ。
「向こうの棚、見てこい」
「は、はい」
トムが走っていく。ダグは、俺のほうを見なかった。ただ、木箱に腰を下ろして、水筒の水を飲んでいる。
しばらくして、ぽつりと言った。
「食ったか」
「え」
「飯だ。朝から、何か食ったか」
答えられなかった。
「食え。腹が減ってると、人間、ろくなこと考えねえ」
それだけ言って、ダグは立ち上がった。
ご飯は、ちゃんと食べること。
別れ際に、先輩が言った言葉を思い出した。
その日の昼、俺は、河港の屋台で、焼いた魚を挟んだパンを買った。銅五枚。立ったまま、噛んだ。味は、よく分からなかった。それでも、全部、食べた。
夜は、眠れなかった。
屋根裏の寝床で、天井の梁を、ただ見ていた。生活魔法の小さな灯りを、指先で灯しては、消した。何度も、何度も。
あの人の声が、まだ耳に残っている。
アッシュくん、この数字、合ってる?
もう、誰も、そう呼ばない。
悔しいのか、悲しいのか、寂しいのか。どれも違う気がした。ただ、胸の真ん中に、ぽっかりと穴が空いている。そこを、風が通り抜けていく。
商売が面白いと思った日から、毎日が、満ちていた。
その満ちていたものが、一つ、抜け落ちただけだった。それなのに、世界の形が、ずいぶん変わってしまったように思えた。
それから、数日が過ぎた。
何も変わらないまま、日が暮れて、また朝が来た。
ある夕方、仕事を終えた俺は、倉庫店を出て、帰路についた。
足が、いつもと違う道へ向いていた。
気づいた時には、市の通りの入口に、立っていた。
屋台の灯りが、ぽつり、ぽつりと点き始めている。香ばしい匂いと、客を呼ぶ声。人々のざわめき。
その通りの奥に、見慣れた露台が、見えた。
少し、迷った。
それから、俺は、ゆっくりと、そちらへ歩き出した。




