↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大商人の軌跡  作者: なるみくん
第1章 帝都修行編
34/66

第34話「アニー」

第34話「アニー」


橋の夜から、次の休みの日までの数日を、俺は、いつも通りに過ごした。


荷を数え、控えを読み合わせ、取引先を回った。ダグは何も言わず、いつもより少しだけ多く、俺に雑用を回した。手を動かしていれば、考えなくて済むと分かっていたのだと思う。トムは、事情を知っているのかいないのか、何度か口を開きかけては、「棚、見てきます!」と走っていった。


先輩は、帳場に座っていた。


同じ席で、同じ羽根筆を持ち、同じ手つきで帳簿をめくっている。話しかければ、いつもの声で答えてくれる。「アッシュくん、この数字、合ってる?」という、何でもない声で。


その何でもなさが、いちばん、堪えた。


会頭は、休みの前の晩に、一度だけ俺を呼んだ。


「明日は、どこへ行ってもいい」


それだけ言って、帳簿に目を戻した。理由は、聞かれなかった。


休みの日は、よく晴れていた。


冬の入り口の空は、嘘のように澄んでいる。石段を上る足が、重かった。


城壁沿いの高台に着くと、先輩が、先に来ていた。


欄干に手をついて、帝都の屋根の波を見ている。外套の肩に、朝の光が薄く乗っていた。足元には、小さな旅の鞄がひとつ。


「来てくれたんだね」


「はい」


「ありがとう」


先輩は、振り向いて、微笑んだ。


泣いた跡は、なかった。目元は少し腫れているように見えたが、それは、化粧のせいかもしれなかった。


「この場所、好きなの」


「知っています」


「最初のデートの時、アッシュくんに見せたくて」


先輩は、街を見下ろしたまま、続けた。


「あの日のアッシュくんね、ずっと、屋台の値段ばかり見てたでしょう。私が景色を見てって言っても、『この干し柿は一袋いくらで』って」


「……すみません」


「謝らないで。可笑しくて、嬉しかったの。この人は、本当に、商売が好きなんだなって」


しばらく、二人とも、黙っていた。


風が、石の隙間を鳴らしていく。遠くで、荷車の車輪の音がした。


先に口を開いたのは、俺だった。


「先輩。聞いてほしいことが、あります」


「うん」


「ずっと、隠していたことがあります」


先輩は、何も言わず、俺のほうを向いた。


言うべきではないのかもしれない。今さら話して、何になる。そう思う自分も、確かにいた。


けれど、この人に、嘘をついたまま別れるのは、嫌だった。


「ベレッソ商会に入ると、あの日、言いました」


「……うん」


「その気持ちに、嘘はありません。先輩の隣で働きたかったのも、本当です。でも」


俺は、息を吸った。


「自分の商会を持ちたいという夢を、私は、先輩に、伏せていました」


先輩の瞳が、静かに揺れた。


「冗談めかして、軽く話したことが、ありましたよね。『いつか自分の商会を持つかも』と。あれは、軽い話ではありませんでした。商売が面白いと思った日から、ずっと、胸の奥にあるものです」


「……」


「ベレッソ商会に入れば、その夢に、遠回りにでも届くかもしれない。そう考えていました。でも、それを、先輩に言えなかった。言えば、先輩のご実家を、利用しようとしているように、聞こえてしまうと思って」


言いながら、声が、掠れていった。


「卑怯、でした。すみません」


長い、沈黙があった。


先輩は、俺を見つめていた。責める目ではなかった。驚いている目でもなかった。


やがて、先輩は、ゆっくりと、息を吐いた。


「そうだったんだね」


その声は、静かだった。


「話してくれて、ありがとう」


「……怒って、いませんか」


「どうして、怒るの?」


先輩は、少しだけ、首を傾げた。


「夢を持っているのは、アッシュくんの、いちばんいいところでしょう。それを、私が、嫌いになるわけがないよ」


胸の奥で、固く結ばれていたものが、ふっと緩んだ。


「アッシュくん」


「はい」


「あなたは、大丈夫」


先輩は、はっきりと言った。


「私が、教えられることは、もう、全部教えた。あの橋で言ったでしょう。もう教えることはあまりないって。あれは、本当のことなの」


「先輩」


「アッシュくんは、大丈夫。もう、十分だよ」


その言葉が、胸に深く沈んでいった。


三年近く、追いかけてきた人の、最後の「承認」だった。


嬉しいのに、そのまま、涙になりそうだった。


先輩は、ふっと視線を落とした。腰の袋の、小さなガラスの鈴を、指先で撫でる。


「もうひとつだけ、お願いがあるの」


「何でしょう」


「相手のことは、知らないでいて」


一瞬、何を言われたのか、分からなかった。


「縁談の、相手のこと。名前も、家のことも。調べないで。誰かに聞かないで」


先輩の声は、穏やかだった。それが、かえって、強かった。


「アッシュくんは、きっと、いつか、知ろうと思えば知れる人になる。でも、今は、知らないでいてほしいの」


「……どうして、ですか」


「知ったら、きっと、アッシュくんは、その人のことを、考えてしまうから」


先輩は、微笑んだ。


「考えないでほしいの。私のことも、あの人のことも。アッシュくんの目は、前を向いていてほしい」


俺は、何か言おうとして、言葉が見つからなかった。


知らないでいる。それは、逃げることではない。先輩が、俺に残してくれた、最後の優しさなのだと、分かった。


「……分かりました。調べません」


「うん。約束ね」


「約束、です」


先輩は、満足したように、頷いた。


それから、何かを思い出したように、小さく笑った。


「そういえば、まだ、約束が一つ、残ってたね」


「え」


「『俺』って、また言ってくれるって」


不意に、胸が詰まった。


あの日の、夕暮れの道。いつか、また言います、と答えた。いつか。その「いつか」は、こんなに早く、来てしまったのか。


「先輩」


声が、勝手に、震えた。


「私は」


言いかけて、止まった。


違う。この人の前で、飾った言葉は、もう要らない。


「俺は、先輩を、守りたかった」


吐き出した言葉が、冷たい空気の中に、白く散った。


「幸せにしたかった。ご実家にも、きちんと認めてもらって、堂々と、先輩の隣にいたかった。でも、何も、できなかった。俺は、何も」


「アッシュくん」


「商売では、いくらでも考えられるのに。肝心な時に、何ひとつ、先輩を、守れなかった」


拳が、震えていた。


先輩は、その拳を、そっと両手で包んだ。


温かかった。あの日の橋と、同じ温度だった。


「守ってもらったよ」


先輩は、言った。


「私、アッシュくんといる間、ずっと、守られてた。仕事で失敗して、落ち込んでも、アッシュくんが隣で笑ってくれたから、また頑張れた。三年間、毎日、本当に、幸せだった」


「……」


「それは、嘘じゃない。ちゃんと、私の中に、残ってるから」


先輩の瞳から、一粒、涙が落ちた。


けれど、先輩は、笑っていた。


「ほら、また『俺』って言った」


「……すみません」


「謝らないで。聞けて、よかった。約束、守ってくれたね」


先輩は、涙を拭わないまま、握った手に、きゅっと力をこめた。


「ありがとう、アッシュくん」


石段を下りると、通りの端に、一台の馬車が停まっていた。


質素だが、造りのしっかりした馬車だった。傍らに、ベレッソ家の年配の使用人が、深く頭を下げて待っている。


先輩は、鞄を使用人に預けると、俺のほうを振り返った。


「ここで、いいよ。見送りは」


「はい」


「会頭と、ダグさんと、トムくんに、よろしく伝えてね」


「はい」


「それと」


先輩は、少しだけ、考えるような顔をした。


「ご飯は、ちゃんと食べること。夜更かし、しすぎないこと。帳簿を睨んで、眉間に皺を寄せすぎないこと」


「……そんなに、していますか」


「してる。心配なの」


先輩は、いつもの、少し姉さんぶった顔で、笑った。


その顔を、俺は、目に焼きつけようとした。


先輩が、馬車のほうへ、一歩、踏み出す。


その背中に、俺は、声をかけた。


呼ぶまいと、決めていた。この三年、一度も、口にしなかった名前だった。


「……アニー」


先輩の足が、止まった。


ゆっくりと、振り向く。


その顔に、さっきまでの涙は、もう、なかった。


唇を結び、まっすぐに、俺を見ている。迷いのない、澄んだ表情だった。前を向く人の、顔だった。


「元気で」


俺は、言った。


「どうか、元気で」


「うん」


先輩は、頷いた。


それから、初めて、こう言った。


「アッシュ」


呼び捨てだった。


その響きは、思いのほか、柔らかく、遠かった。


「アッシュも、元気でね」


それが、最後の言葉だった。


先輩は、馬車に乗り込んだ。扉が閉まり、御者の声が上がる。車輪が石畳を踏む音が、少しずつ、遠ざかっていく。


窓の向こうで、先輩が、こちらを見ていたのかどうか。分からなかった。


俺は、馬車が角を曲がって見えなくなるまで、その場に立っていた。


通りの向こうで、物売りの声がしていた。荷車が、ゆっくりと通り過ぎる。何もかもが、いつも通りに動いていた。


どこかで、澄んだ音が、一度だけ、鳴った気がした。


風の音だったのかもしれない。


俺は、空を見上げた。


冬の入り口の空は、残酷なほど、青かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。