第34話「アニー」
第34話「アニー」
橋の夜から、次の休みの日までの数日を、俺は、いつも通りに過ごした。
荷を数え、控えを読み合わせ、取引先を回った。ダグは何も言わず、いつもより少しだけ多く、俺に雑用を回した。手を動かしていれば、考えなくて済むと分かっていたのだと思う。トムは、事情を知っているのかいないのか、何度か口を開きかけては、「棚、見てきます!」と走っていった。
先輩は、帳場に座っていた。
同じ席で、同じ羽根筆を持ち、同じ手つきで帳簿をめくっている。話しかければ、いつもの声で答えてくれる。「アッシュくん、この数字、合ってる?」という、何でもない声で。
その何でもなさが、いちばん、堪えた。
会頭は、休みの前の晩に、一度だけ俺を呼んだ。
「明日は、どこへ行ってもいい」
それだけ言って、帳簿に目を戻した。理由は、聞かれなかった。
休みの日は、よく晴れていた。
冬の入り口の空は、嘘のように澄んでいる。石段を上る足が、重かった。
城壁沿いの高台に着くと、先輩が、先に来ていた。
欄干に手をついて、帝都の屋根の波を見ている。外套の肩に、朝の光が薄く乗っていた。足元には、小さな旅の鞄がひとつ。
「来てくれたんだね」
「はい」
「ありがとう」
先輩は、振り向いて、微笑んだ。
泣いた跡は、なかった。目元は少し腫れているように見えたが、それは、化粧のせいかもしれなかった。
「この場所、好きなの」
「知っています」
「最初のデートの時、アッシュくんに見せたくて」
先輩は、街を見下ろしたまま、続けた。
「あの日のアッシュくんね、ずっと、屋台の値段ばかり見てたでしょう。私が景色を見てって言っても、『この干し柿は一袋いくらで』って」
「……すみません」
「謝らないで。可笑しくて、嬉しかったの。この人は、本当に、商売が好きなんだなって」
しばらく、二人とも、黙っていた。
風が、石の隙間を鳴らしていく。遠くで、荷車の車輪の音がした。
先に口を開いたのは、俺だった。
「先輩。聞いてほしいことが、あります」
「うん」
「ずっと、隠していたことがあります」
先輩は、何も言わず、俺のほうを向いた。
言うべきではないのかもしれない。今さら話して、何になる。そう思う自分も、確かにいた。
けれど、この人に、嘘をついたまま別れるのは、嫌だった。
「ベレッソ商会に入ると、あの日、言いました」
「……うん」
「その気持ちに、嘘はありません。先輩の隣で働きたかったのも、本当です。でも」
俺は、息を吸った。
「自分の商会を持ちたいという夢を、私は、先輩に、伏せていました」
先輩の瞳が、静かに揺れた。
「冗談めかして、軽く話したことが、ありましたよね。『いつか自分の商会を持つかも』と。あれは、軽い話ではありませんでした。商売が面白いと思った日から、ずっと、胸の奥にあるものです」
「……」
「ベレッソ商会に入れば、その夢に、遠回りにでも届くかもしれない。そう考えていました。でも、それを、先輩に言えなかった。言えば、先輩のご実家を、利用しようとしているように、聞こえてしまうと思って」
言いながら、声が、掠れていった。
「卑怯、でした。すみません」
長い、沈黙があった。
先輩は、俺を見つめていた。責める目ではなかった。驚いている目でもなかった。
やがて、先輩は、ゆっくりと、息を吐いた。
「そうだったんだね」
その声は、静かだった。
「話してくれて、ありがとう」
「……怒って、いませんか」
「どうして、怒るの?」
先輩は、少しだけ、首を傾げた。
「夢を持っているのは、アッシュくんの、いちばんいいところでしょう。それを、私が、嫌いになるわけがないよ」
胸の奥で、固く結ばれていたものが、ふっと緩んだ。
「アッシュくん」
「はい」
「あなたは、大丈夫」
先輩は、はっきりと言った。
「私が、教えられることは、もう、全部教えた。あの橋で言ったでしょう。もう教えることはあまりないって。あれは、本当のことなの」
「先輩」
「アッシュくんは、大丈夫。もう、十分だよ」
その言葉が、胸に深く沈んでいった。
三年近く、追いかけてきた人の、最後の「承認」だった。
嬉しいのに、そのまま、涙になりそうだった。
先輩は、ふっと視線を落とした。腰の袋の、小さなガラスの鈴を、指先で撫でる。
「もうひとつだけ、お願いがあるの」
「何でしょう」
「相手のことは、知らないでいて」
一瞬、何を言われたのか、分からなかった。
「縁談の、相手のこと。名前も、家のことも。調べないで。誰かに聞かないで」
先輩の声は、穏やかだった。それが、かえって、強かった。
「アッシュくんは、きっと、いつか、知ろうと思えば知れる人になる。でも、今は、知らないでいてほしいの」
「……どうして、ですか」
「知ったら、きっと、アッシュくんは、その人のことを、考えてしまうから」
先輩は、微笑んだ。
「考えないでほしいの。私のことも、あの人のことも。アッシュくんの目は、前を向いていてほしい」
俺は、何か言おうとして、言葉が見つからなかった。
知らないでいる。それは、逃げることではない。先輩が、俺に残してくれた、最後の優しさなのだと、分かった。
「……分かりました。調べません」
「うん。約束ね」
「約束、です」
先輩は、満足したように、頷いた。
それから、何かを思い出したように、小さく笑った。
「そういえば、まだ、約束が一つ、残ってたね」
「え」
「『俺』って、また言ってくれるって」
不意に、胸が詰まった。
あの日の、夕暮れの道。いつか、また言います、と答えた。いつか。その「いつか」は、こんなに早く、来てしまったのか。
「先輩」
声が、勝手に、震えた。
「私は」
言いかけて、止まった。
違う。この人の前で、飾った言葉は、もう要らない。
「俺は、先輩を、守りたかった」
吐き出した言葉が、冷たい空気の中に、白く散った。
「幸せにしたかった。ご実家にも、きちんと認めてもらって、堂々と、先輩の隣にいたかった。でも、何も、できなかった。俺は、何も」
「アッシュくん」
「商売では、いくらでも考えられるのに。肝心な時に、何ひとつ、先輩を、守れなかった」
拳が、震えていた。
先輩は、その拳を、そっと両手で包んだ。
温かかった。あの日の橋と、同じ温度だった。
「守ってもらったよ」
先輩は、言った。
「私、アッシュくんといる間、ずっと、守られてた。仕事で失敗して、落ち込んでも、アッシュくんが隣で笑ってくれたから、また頑張れた。三年間、毎日、本当に、幸せだった」
「……」
「それは、嘘じゃない。ちゃんと、私の中に、残ってるから」
先輩の瞳から、一粒、涙が落ちた。
けれど、先輩は、笑っていた。
「ほら、また『俺』って言った」
「……すみません」
「謝らないで。聞けて、よかった。約束、守ってくれたね」
先輩は、涙を拭わないまま、握った手に、きゅっと力をこめた。
「ありがとう、アッシュくん」
石段を下りると、通りの端に、一台の馬車が停まっていた。
質素だが、造りのしっかりした馬車だった。傍らに、ベレッソ家の年配の使用人が、深く頭を下げて待っている。
先輩は、鞄を使用人に預けると、俺のほうを振り返った。
「ここで、いいよ。見送りは」
「はい」
「会頭と、ダグさんと、トムくんに、よろしく伝えてね」
「はい」
「それと」
先輩は、少しだけ、考えるような顔をした。
「ご飯は、ちゃんと食べること。夜更かし、しすぎないこと。帳簿を睨んで、眉間に皺を寄せすぎないこと」
「……そんなに、していますか」
「してる。心配なの」
先輩は、いつもの、少し姉さんぶった顔で、笑った。
その顔を、俺は、目に焼きつけようとした。
先輩が、馬車のほうへ、一歩、踏み出す。
その背中に、俺は、声をかけた。
呼ぶまいと、決めていた。この三年、一度も、口にしなかった名前だった。
「……アニー」
先輩の足が、止まった。
ゆっくりと、振り向く。
その顔に、さっきまでの涙は、もう、なかった。
唇を結び、まっすぐに、俺を見ている。迷いのない、澄んだ表情だった。前を向く人の、顔だった。
「元気で」
俺は、言った。
「どうか、元気で」
「うん」
先輩は、頷いた。
それから、初めて、こう言った。
「アッシュ」
呼び捨てだった。
その響きは、思いのほか、柔らかく、遠かった。
「アッシュも、元気でね」
それが、最後の言葉だった。
先輩は、馬車に乗り込んだ。扉が閉まり、御者の声が上がる。車輪が石畳を踏む音が、少しずつ、遠ざかっていく。
窓の向こうで、先輩が、こちらを見ていたのかどうか。分からなかった。
俺は、馬車が角を曲がって見えなくなるまで、その場に立っていた。
通りの向こうで、物売りの声がしていた。荷車が、ゆっくりと通り過ぎる。何もかもが、いつも通りに動いていた。
どこかで、澄んだ音が、一度だけ、鳴った気がした。
風の音だったのかもしれない。
俺は、空を見上げた。
冬の入り口の空は、残酷なほど、青かった。




