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大商人の軌跡  作者: なるみくん
第1章 帝都修行編
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第33話「公爵家からの縁談」

第33話「公爵家からの縁談」


その日、先輩は、帳場に来なかった。


朝いちばんに、入口の木箱の上を確かめる仕草が、今日はなかった。いつもの席には、羽根筆だけが、きれいに揃えて置かれている。


「先輩は、休みですか」


誰にともなく聞くと、ダグが、帳面から顔を上げずに答えた。


「朝、使いの人が来て、あの子に何か渡していった。それで、出ていった」


「……そうですか」


「アッシュ」


ダグが、珍しく、俺の顔を見た。


「何かあっても、慌てるな。分かったな」


「はい」


分かったと答えながら、指先が冷たくなっていくのが分かった。


昼過ぎ、倉庫店の入口の木箱の上に、小さな紙片が置かれているのを、トムが見つけた。


「アッシュさん、これ。先輩の字です」


折り畳まれた紙を開くと、短い文が一行だけ書かれていた。


今夜、橋で待っています。


橋。あの日、先輩に「もう教えることはあまりないね」と言われた、河沿いの小さな橋だ。


その日の午後は、帳簿の数字が、ひとつも頭に入らなかった。


夕方、橋に着くと、先輩はもう来ていた。


欄干に手をついて、暗くなり始めた川面を見つめている。冷たい風が、水の上を渡ってくる。息が、白く揺れた。


「先輩」


声をかけると、先輩は、ゆっくりと振り向いた。


笑おうとしていた。けれど、その唇は、うまく動いていなかった。


「ごめんね。急に呼び出して」


「いえ。何か、あったんですね」


「うん」


先輩は、少しの間、目を閉じた。それから、はっきりした声で言った。


「縁談が、来たの」


言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。


「……縁談」


「公爵家から」


風の音が、遠くなった。


「半月ほど前に、うちの実家に、話が届いたんだって。私の返事が遅れていたのは、そのせい。父も、どうにか断れないか、ずっと探してくれていたの」


「待ってください。先輩には、もう」


「うん。分かってる」


先輩は、俺の言葉を遮らなかった。ただ、静かに、続けた。


「でも、断れないの。相手は、公爵家だから」


俺は、言葉を失った。


公爵家。大商会でさえ逆らえない、この国の頂点に近い家柄。


ベレッソ商会が帝都で大きな商いを続けられるのも、公爵領との取引があるからだ。そのことは、帳簿を読んでいた頃から、知っていた。知っていたのに、それが自分の足元に届く日が来るとは、思っていなかった。


「父はね、三日、眠らなかったの」


先輩の声が、かすかに震えた。


「うちは、恋愛結婚派でしょう。娘が自分で選んだ相手なら、誰でも反対しないって、ずっと言ってくれていたの。私が、アッシュくんのことを手紙に書いた時も、父は、嬉しそうだったって、母が言ってた」


「……はい」


「それが、こんなことに」


先輩は、そこで、言葉を詰まらせた。


怒りが、ようやく、遅れて胸の底から湧いてきた。


だが、その怒りを向ける相手が、どこにもいなかった。先輩の父親は、悪くない。先輩も、悪くない。誰が悪いのかを探しても、答えは、そこになかった。


商会の失敗なら、原因を探して、仕組みを直せる。この前の宿屋の件のように。


けれど、これは、違う。俺が直せるものが、どこにも見当たらない。


それでも、俺は、考えた。


どれほど追い詰められても、まだ、残っている可能性があるはずだ。


「先輩。私が、ご実家に伺います」


「アッシュくん」


「日取りは、もう決まらなくても構いません。今夜でも、明日でも。ご当主様に、直接お会いして」


「だめ」


「聞いてください。断れないと仰いましたが、断る以外の道もあるはずです。たとえば、縁談の時期を延ばしてもらうとか、ベレッソ商会が公爵家に」


「アッシュくん」


先輩が、静かに、俺の名前を呼んだ。


「それは、父が、もう全部、考えたことなの」


その一言で、俺の言葉は、止まった。


「時期の延期も、他の条件の提示も、公爵家と取引のある方々を通した働きかけも。父は、三日三晩、全部、試した。それでも、だめだったの」


「……」


「断れば、ベレッソ商会は、帝都で商いができなくなる。それだけじゃない。商会で働く、何百人の人たちが、仕事を失う。父は、その責任を、背負っているの」


先輩の瞳が、潤んでいた。


「私一人の、結婚の話じゃないの」


俺は、動けなかった。


足の下の石の冷たさが、靴の底を通して、這い上がってくる。


分かっていた。頭では、とうに分かっていた。


先輩が、どんな人で、どんな家の娘で、どれだけ周りの人を大切に思っているのか。そして、先輩が、決して逃げる人ではないことも。


「駆け落ち、という道は」


俺は、最後に、そう口にした。


先輩は、驚いたように目を見開いた。それから、悲しそうに、首を横に振った。


「私が逃げたら、父と母が、全部の責任を負うことになる。……それは、できない。アッシュくんだって、分かっているでしょう」


「……はい」


「それに」


先輩は、少しだけ、笑った。


「アッシュくんは、逃げる人じゃない。商人として、堂々と生きる人。私のために、帝都の商売の道を、全部捨てさせたくない」


「先輩のためなら」


「だめ」


先輩が、今度は、はっきりと言った。


「アッシュくんを、巻き込みたくないの」


その言葉は、静かで、強かった。


「公爵家を敵に回せば、アッシュくんは、この国で、商人として生きていけなくなる。ロンバルド商会も、会頭も、ダグさんも、トムくんも。みんな、巻き込んでしまう」


「私は、構いません」


「私が、構うの」


先輩の頬を、涙が伝った。


「アッシュくんは、これから、もっと大きな商人になる人でしょう。私が、足枷になるわけにはいかないの」


俺は、何も言い返せなかった。


商人は、権力の前では、まだ、あまりにも無力だった。


どれだけ知恵を絞っても、どれだけ誠実に商いを積み重ねても、一つの家の意向で、すべてが覆る。


悔しくて、拳を握りしめた。爪が、掌に食い込んだ。


痛みが、遠かった。


しばらく、二人とも、何も言えなかった。


川の水音だけが、橋の下を流れていく。


先輩が、ふと、腰の袋に手をやった。


ガラスの鈴を、指先で、そっと撫でる。小さな音が、鳴った。


「この鈴、大事にしてたの」


「……はい」


「アッシュくんが、半年、お給金を貯めて買ってくれたでしょう。あの時、本当は、すごく嬉しかった。でも、私が嬉しいって言ったら、アッシュくんが、無理をするんじゃないかなって」


先輩は、鈴を見つめたまま、続けた。


「だから、ちゃんと、言えなかった。ずっと、後悔してたの」


「そんなこと」


「ううん。私ね、アッシュくんに、ちゃんと言えてないことが、いっぱいあるの」


先輩は、顔を上げた。


涙に濡れた瞳が、まっすぐに、俺を見ていた。


「でも、全部言っちゃうと、決心が鈍っちゃうから。だから、今夜は、これだけ」


「……はい」


「実家に、戻ることにした。数日のうちに、商会を去ります」


その宣告は、冷たい夜の空気の中に、静かに、落ちた。


「会頭には、もう、お話ししてあるの。ベレッソ家から、お詫びの手紙も、届くはず」


「そうですか」


声が、思ったより、平静だった。


自分の中の何かが、すでに、受け入れ始めている。それが、ひどく恐ろしかった。


「……最後に、ちゃんと、話をさせてほしいの」


先輩が、言った。


「次の休みの日。ちゃんと、お別れを言わせて。それまでは、いつもの通りに、していてほしい」


「はい」


「お願い」


「……はい」


先輩は、小さく頷いた。


それから、俺の袖を、ほんの少しだけ、つまんだ。


「今夜は、もう、帰るね」


「送ります」


「ううん。一人で、帰りたいの」


先輩は、そう言って、橋を渡っていった。


その背中が、街の灯りの中に、少しずつ、溶けていく。


追いかけたかった。けれど、足が動かなかった。


ガラスの鈴の音が、風に混じって、かすかに聞こえた。


やがて、その音も、聞こえなくなった。


俺は、その場に立ち尽くしたまま、川の暗い流れを、ずっと見ていた。


聞くべきことは、いくらでもあった。縁談の相手は、どんな人なのか。いつ、どこへ行くのか。


けれど、その一つも、口にできなかった。


聞いたところで、俺に、何ができるというのか。


その夜、俺は、はじめて知った。


世界には、商いの力が、まだ届かない場所があることを。


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