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大商人の軌跡  作者: なるみくん
第1章 帝都修行編
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第32話「いつ挨拶に行こうか」

第32話「いつ挨拶に行こうか」


翌朝、俺は会頭の前に立っていた。


「報告があります」


「何だ」


「自分は、先輩と、結婚の約束をしました。ベレッソ家に挨拶に伺うつもりです」


会頭は、帳簿から顔を上げた。しばらく、俺の顔を眺めている。


「……そうか」


またその一言か、と思った。けれど、声の底に、いつもより少しだけ温度があった。


「あの娘さんは、ベレッソ商会から預かっている。粗末に扱うな」


「はい」


「それと」


会頭は、帳簿に目を戻した。


「しっかり、やれ」


それだけだった。俺は深く頭を下げて、部屋を出た。


扉を閉めた途端、廊下で待ち構えていたダグに、肩を叩かれた。


「やっとか」


「……聞いていたんですか」


「聞いてねえよ。顔に書いてあるんだ。昨日から、お前の顔、締まりがなさすぎる」


「そんなにひどいですか」


「ああ。ひどい」


ダグは、声を出して笑った。その後ろから、トムが、勢いよく飛び出してきた。


「アッシュさん! おめでとうございます!」


「声が、大きい」


「す、すみません! でも、本当に、おめでとうございます!」


結局、その日のうちに、第二倉庫店の全員が知ることになった。


挨拶には、できるだけ早く行きたかった。


先輩は、その晩のうちに、実家へ手紙を書いたという。娘が結婚したい人を連れていく。その日取りを決めたい、と。


「返事は、すぐ来るよ。うちは、そういう家だから」


先輩は、明るく言った。


だが、返事は、すぐには来なかった。


三日経ち、五日経った。


先輩は、毎朝、倉庫店に来るたびに、入口の木箱の上を、ちらりと確かめる。手紙が来ていないか。その仕草に、気づかない振りをするのが、俺の仕事になっていた。


七日目の昼、ようやく、使いの者が来た。


ベレッソ家の、年配の使用人だった。先輩に、手紙を一通、手渡すと、丁寧に一礼して帰っていった。


先輩は、その場で封を切って、目を通した。


「どうでしたか」


「うん」


先輩は、手紙を畳んで、笑った。


「父が、今、商談で忙しいみたい。少し待ってほしいって」


「そうですか」


「ごめんね。せっかく、アッシュくんが、やる気になってくれてるのに」


「いえ。急ぐ話ではありません」


そう答えながら、胸の隅に、小さな引っかかりが生まれた。


大商会の主が忙しいのは、おかしなことではない。だが、娘が結婚したい人を連れていくというのに、返事が日取りではなく、「待ってほしい」だった。


分析的に考えれば、そこに何か事情があるのかもしれない。


けれど、俺は、その考えを、すぐに頭の隅へ押しやった。


先輩が、笑っていたからだ。


次の休みの日、俺たちは、帝都の市へ出かけた。


ご実家に持っていく手土産を、選ぶためだ。


「何がいいと思う?」


「高価なものほど、いいというわけでもないと思います」


「ふふ。商人の目だね」


先輩は、露店の並ぶ通りを、楽しそうに歩いていく。


「でもね、うちの母は、甘いものが好きなの。特に、干した果物」


「干し柿、でしょうか」


「うん。でも、お金をかけすぎないでね。アッシュくん、まだ、見習いなんだから」


「見習いの財布でも、ちゃんと選べます」


「ほんと?」


先輩は、いたずらっぽく覗き込んできた。


結局、俺は、小ぶりの干し柿の袋を、一つ選んだ。店の主人に、少しだけ品質のいいものを分けてもらった。値段は、銀一枚と少し。見習いの給金からは、決して安い買い物ではない。


「重いね」


「はい。ご実家の皆さんに、食べていただきたくて」


先輩は、その袋を見つめて、小さく笑った。


「きっと、喜ぶよ」


その横顔が、本当に嬉しそうで、俺は、それ以上、何も言えなかった。


帰り道、二人で並んで歩きながら、先輩が、将来の話を始めた。


「結婚したらね、アッシュくん」


「はい」


「ベレッソ商会の、同じ帳場で働けるかな」


「許されるなら、先輩の机の隣に、置いてもらいたいです」


「ええ? それは、ちょっと、困るなあ」


「困りますか」


「だって、アッシュくんが隣にいたら、仕事にならないもの」


先輩は、顔を赤くして、そっぽを向いた。


「……ずるい」


「何がですか」


「そういうことを、さらっと言うところ」


「事実を、言っただけです」


「だから、ずるいの」


先輩は、拗ねたふりをして、歩く速さを上げた。


俺は、笑いをこらえながら、その後を追った。


「ねえ、アッシュくん」


少し歩いたところで、先輩が、足を止めた。


「あの日、『俺』って言ったでしょう」


「……その話は、もう、忘れてください」


「やだ。ねえ、もう一回言って」


「無理です」


「どうして」


「恥ずかしいからです」


「恥ずかしいけど、聞きたいの」


先輩は、夕暮れの光の中で、まっすぐに俺を見ていた。


「私の前では、ずっと、『私』で通してきたでしょう。でもね、本当は、『俺』のアッシュくんも、見たいの」


その言葉に、胸が、温かくなった。


「……いつか、また、言います」


「いつか?」


「はい。いつか」


「約束ね」


「約束、です」


先輩は、満足そうに頷いた。


二人の影が、石畳の上で、長く重なっていた。


それから、さらに十日が過ぎた。


日取りは、決まらなかった。


二度目の使いが来た。同じ年配の使用人だった。手紙の内容は、もう少し待ってほしい、というものだった。


先輩は、手紙を読んで、一瞬だけ、動かなくなった。


ほんの一瞬だった。


だが、その時、先輩の顔から、すっと表情が抜け落ちるのを、俺は見てしまった。


「……先輩」


「ううん、大丈夫」


先輩は、すぐに笑顔を作った。いつもの、穏やかな笑顔だった。


「父の都合が、まだ合わないみたい。もう少し、待ってほしいって」


「何か、あったのですか」


「ないよ。ただ、忙しいだけ」


その声は、平静だった。平静すぎるほどに。


俺は、言いかけた言葉を、飲み込んだ。


聞けば、先輩は、きっと、答えてくれるだろう。けれど、答えさせてしまえば、先輩は、一人で何かを抱え込んでしまう気がした。


「分かりました。待ちます」


「うん。ありがとう」


先輩は、そう言って、俺の手を握った。


その手が、少しだけ冷たかった。


「大丈夫」


先輩は、もう一度、自分に言い聞かせるように、繰り返した。


「大丈夫だから」


その夜、倉庫店の屋根の上に、星が出ていた。


窓の外を見ながら、俺は、先輩のその言葉を、反芻していた。


大丈夫。


先輩がそう言うなら、信じよう。


俺は、そう決めて、灯りを消した。


その決断が、ただの先送りだったと知るのは、少し先のことだった。


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