第31話「プロポーズ」
第31話「プロポーズ」
休みの朝、俺は上着の皺を伸ばすのに、十分もかけていた。
生活魔法の皺伸ばしは、掌をかざして軽く魔力を流せば済む。普段なら数秒で終わる。それなのに、気づけば何度も同じ袖を撫でていた。
「何してんだ、お前」
階下の台所で、ダグが呆れた顔をしていた。休みの日でも、この人は朝から倉庫店に顔を出す。
「いえ、少し」
「少し、じゃねえだろ。やけに髪まで整えやがって」
「そう見えますか」
「見える。今日、あれか。先輩と出かけるんだろ」
否定しようとして、できなかった。ダグは、にやりと笑った。
「まあ、いい。ひとつだけ言っとく」
「何でしょう」
「肩の力を抜け。顔が強張ってるぞ」
それだけ言って、ダグは湯を沸かしに戻った。
肩の力を抜けと言われても、無理な話だった。
今日、俺は、先輩に伝えるつもりだったのだ。
待ち合わせは、昼過ぎ、倉庫街の外れの小さな広場だった。
先輩は、淡い色の外套を着て、先に来ていた。
「早いですね」
「アッシュくんこそ。ちょっと、早すぎない?」
先輩は、俺の顔を見て、くすっと笑った。
「どうしたの。昨日から、少し変だったでしょう」
「変、ですか」
「うん。話しかけたら、返事が一拍遅れるの。何か、言いたいことがあるのかなって」
見抜かれている。商売の駆け引きなら、相手の目を読むのは得意なのに、この人の前では、いつも顔に出てしまう。
「……少し、歩きませんか。話したいことがあります」
「うん。いいよ」
先輩は、それ以上は何も聞かなかった。ただ、俺の歩く速さに、自然と足を合わせてくれた。
向かったのは、帝都の城壁沿いの高台だった。
石段を上った先に、小さな見晴らし台がある。昼間は人も少なく、帝都の屋根の波と、遠くを流れる大河が見渡せる。
最初のデートの時、先輩に連れてきてもらった場所だった。
「ここ、覚えてる?」
「はい。先輩が、教えてくれた場所です」
「あの時は、アッシュくんが、屋台の値段ばっかり気にしてたよね」
「……すみません」
「謝らなくていいの。可笑しかったから」
先輩は、欄干に手をついて、街を見下ろした。
その腰の袋に、小さなガラスの鈴が下がっているのに、俺は気づいた。半年かけて貯めた給金で買った、あの鈴だった。
まだ、持っていてくれたのか。
胸の奥が、きゅっと締まった。
夕方が近づいてくる。
日が傾き、帝都の屋根が、少しずつ赤く染まっていく。通りのあちこちで、魔導具の灯りが、ぽつり、ぽつりと点き始めた。
「きれいだね」
「はい」
「それで? 話したいことって」
先輩が、振り向いた。
俺は、口を開いた。
何度も練習してきた言葉が、喉の奥で固まっていた。
「あの。先輩」
「うん」
「私は」
声が、掠れた。咳払いをして、もう一度。
「私は、商会に入って、先輩に会えて、本当によかったと思っています」
「……うん」
「仕入れも、帳簿も、交渉も、全部、先輩に教わりました。でも、それだけじゃなくて」
言葉が、うまく繋がらない。商談なら、順序立てて話せるのに、この場では、頭の中が真っ白になる。
先輩は、急かさなかった。ただ、静かに、待っていてくれた。
その沈黙が、背中を押してくれた。
俺は、一度、息を吸った。
「先輩のご実家の、ベレッソ商会に、入れてもらえないでしょうか」
先輩の目が、わずかに見開かれた。
「……え」
「下働きからで構いません。末席で、構いません。ご実家の方々に認めてもらえるまで、何年でも、働きます」
「ちょっと、待って。アッシュくん」
「待ちません」
自分でも驚くほど、強い声が出た。
「先輩の実家に、入りたいんです。商会の人間として、先輩の隣で、働きたい」
そして、その先を口にしようとした時、喉が震えた。
「それで、いつか、きちんと、認めてもらって。そのうえで」
言葉が、ひとつ、途切れた。
「結婚して、ください」
風が、通り抜けた。
先輩は、動かなかった。
手が、欄干を掴んだまま、白くなっている。その唇が、何かを言いかけて、閉じた。
長い、長い沈黙だった。
「……アッシュくん」
先輩が、ようやく声を出した。その声は、震えていた。
「それは、本当に、いいの?」
「はい」
「実家に入るってことは、アッシュくんが、これまで見ていた景色を、変えるってことだよ。もっと、広い世界が、あるかもしれないのに」
その言葉に、胸が痛んだ。
自分の商会を持つ。その夢は、消えたわけではない。ただ、先輩に伝えるには、まだ早い気がした。今、その話をすれば、先輩は、きっと、自分の実家のことで、俺の夢を遮ってしまったと思うだろう。
だから、俺は、それを、胸の奥にそっとしまった。
嘘は、つかない。けれど、すべてを、語るわけでもない。
実家に入るのは、遠回りに見える。でも、それは、決して、夢を捨てることではない。愛する人の家に認められるための、現実的な手段だった。そう、信じていた。
「広い世界は、あとからでも、見に行けます」
俺は、言った。
「でも、先輩の隣にいられる時間は、今しかない」
「……」
「私は」
そこで、言葉が詰まった。
「私は、先輩が」
違う。それじゃ、足りない。
飾った言葉も、整えた敬語も、全部、喉の奥で崩れていく。
「俺は、先輩が、好きなんだ」
自分の口から、そんな言葉が飛び出していた。
「ずっと、先輩に追いつきたくて、ずっと、先輩の隣に立ちたくて。商売も、帳簿も、全部。……俺は、先輩と、一緒に生きていきたい」
一息に言ってしまってから、顔が熱くなった。
敬語が外れていた。「俺」と言ってしまった。先輩の前では、ずっと「私」で通してきたのに。
先輩は、目を丸くして、俺を見つめていた。
次の瞬間。
先輩の瞳から、ぽろり、と涙がこぼれた。
「……せ、先輩」
「ごめん。ちょっと、待って」
先輩は、慌てて袖で目元を拭った。それでも、涙は、あとから、あとから落ちてくる。
「違うの。嫌なんじゃなくて。むしろ」
笑っているのか、泣いているのか、分からない顔だった。
「やっと、言ってくれた」
「……え」
「ずっと、待ってたんだよ。私から言うわけにはいかないし、アッシュくんは、全然、気づいてくれないし」
先輩は、鼻をすすりながら、頬を膨らませた。
「商売では、あんなに目ざといのに」
「す、すみません」
「いいの。ちゃんと、言ってくれたから」
先輩は、涙を拭いて、まっすぐに、俺を見た。
その瞳に、夕日が映っている。
「アッシュくん」
「はい」
「はい。お受けします」
その言葉が、静かに、胸の奥まで届いた。
「私も、あなたと、生きていきたい」
足の力が、抜けそうになった。
先輩が、そっと手を伸ばしてきた。俺の手を、両手で包み込む。温かくて、少し、震えていた。
「じゃあ、まず、うちの両親に会わないとね」
「……はい」
「父は、ちょっと、頑固だけど。母は、すぐに、アッシュくんのこと気に入ると思う」
「緊張します」
「私もだよ。だって、娘が自分で選んだ人を連れていくんだから」
先輩は、いたずらっぽく笑って、それから、少しだけ声を落とした。
「うちはね、恋愛結婚派なの。前にも話したでしょう。だから、きっと、大丈夫」
「はい」
「大丈夫」
先輩は、自分に言い聞かせるように、もう一度、繰り返した。
握った手に、ほんの少しだけ、力がこもった。
日が暮れていく。
帝都の屋根の上に、星が出始めた。街の灯りが、河の流れに沿って、ゆっくりと連なっていく。
俺は、先輩の手を握ったまま、その光を見ていた。
怖いものは、何もないと思った。
商会に入って、三年近く。いろんな失敗をして、いろんなことを学んだ。その全部が、今日のこの日に、繋がっていた気がした。
先輩が、ぽつりと言った。
「ねえ、アッシュくん」
「はい」
「さっき、『俺』って言ったね」
「……聞こえてましたか」
「うん。ばっちり」
先輩は、嬉しそうに笑った。
「そっちのほうが、アッシュくんらしいよ」
「……恥ずかしいので、忘れてください」
「やだ。忘れない」
先輩は、握った手を、ぎゅっと握り返した。
橙色の光が、すっかり藍色に変わっていく。
「行こうか。そろそろ、冷えるから」
「はい」
二人並んで、石段を下りる。
腰の袋で、ガラスの鈴が、小さく、澄んだ音を鳴らした。
その音を、俺は、きっと、一生忘れないだろうと思った。




