第30話「承認」
第30話「承認」
秋の風が、河港のほうから吹いてくるようになった。
宿屋の一件から、一か月が過ぎていた。赤い字で書き足す控えの決まりは、すっかり倉庫店に根づいている。ダグは「面倒くせえ」と言いながら、誰よりも律儀に控えを読み合わせた。トムは、荷を置く前に控えを確かめないと落ち着かないらしい。
悪くない一か月だった。
その日、俺は朝から、古い取引先の布問屋に出向いていた。
月に一度の仕入れ交渉だ。相手の主人は癖のある人で、いつも最初に高い値を出してくる。以前の俺なら、そこで値切りの言葉を探していたと思う。
だが、今日は少し違った。
主人が示した値を聞いて、俺はまず、帳面を開いた。
「ご主人。この反物、先月は一巻、銅九百枚でした。今月は九百五十。上がった理由を、聞かせてもらえますか」
「染め粉が値上がりしてな。それで」
「染め粉は、どこから入ってます?」
「南の……」
主人が答えかけて、ふっと口をつぐんだ。
俺は、笑って続けた。
「値上げの理由を、疑っているわけではありません。ただ、今月の染め粉の相場が、うちの帳簿の別の取引先と合わなかったので。もし本当に上がっているなら、うちも他の染物屋に早めに話を回します。そのほうが、お互いに得ですから」
主人は、しばらく俺の顔を眺めていた。
「……お前さん、いつからそんな嫌な聞き方を覚えた」
「嫌ですか」
「嫌だが、筋は通ってる」
結局、値は据え置きになった。ただし、翌月からは、染め粉の相場が動いた時は、お互いに先に教え合う。そういう約束を、握手の代わりに交わした。
商会に戻る途中、ふと、後ろで足音がした。
振り向くと、通りの角に、先輩が立っていた。
「……いつから、いたんですか」
「布問屋の前から、かな」
先輩は悪戯が見つかった時のような顔で、小さく肩をすくめた。
「会頭に、頼まれたの。今日のアッシュくんの交渉を、少し離れて見ておくようにって」
「会頭に?」
「そう。だから、見ちゃった」
見られていた。そう思うと、急に背中が熱くなった。
「どう、でしたか」
「うん」
先輩は、少し黙ってから、歩き出した。俺も、その隣に並ぶ。
「今日は、少し歩こうか」
倉庫店には戻らず、先輩が足を向けたのは、川沿いの小さな橋だった。
橋の欄干に肘を乗せて、先輩は川面を眺めた。夕方には少し早い、柔らかな光が、水の上で揺れている。
「私ね」
先輩が、静かに口を開いた。
「アッシュくんが入社してきた時、不安だったの。私も、見習いを終えたばかりで、人に教えたことなんて一度もなかったから」
「そんなふうには、見えませんでした」
「見せないようにしてたの。ほら、先輩だから」
先輩は、くすっと笑った。それから、少しだけ声の調子を落とした。
「最初の頃は、全部教えなきゃって思ってた。仕入れの値段も、帳簿の付け方も、交渉の間合いも。でも、いつの間にか、アッシュくんのほうが先に気づくことが、増えていって」
「そんなことは」
「あるよ。今日の染め粉の話、あれは、私が教えたことじゃなかった」
先輩は、川のほうを向いたまま続けた。
「相手の言い分を疑うんじゃなくて、相手が答えやすい形で聞く。あんな聞き方、私は、思いつかなかった」
俺は、何も言えなかった。
川を渡る風が、先輩の髪をそっと揺らす。
先輩が、ゆっくりとこちらを向いた。
「アッシュくん」
「はい」
「もう、教えることはあまりないね」
その一言が、すぐには、胸に届かなかった。
一拍おいて、じんわりと、熱いものが広がっていく。
嬉しい、と思った。商会に入ってから、ずっと追いかけてきた人が、今、俺を認めてくれた。
けれど、嬉しさの隣に、もう一つ別の感情があった。
寂しい、とも思ったのだ。
「……先輩に、そう言われる日が来るとは、思っていませんでした」
「どうして?」
「ずっと、先輩のほうが、先を歩いていたので」
「今も、先を歩いてるつもりだけどな」
先輩は、冗談めかして笑った。それから、その笑みを少しだけ収めた。
「でも、そうだね。教える人と、教わる人。その関係は、もう、おしまいに近いのかもしれない」
欄干の上で、先輩の指が、小さく動いた。
「それが、嫌?」
「……少し」
「そう」
先輩は、それ以上は追及しなかった。ただ、俺の手の甲に、そっと自分の手を重ねた。
温かかった。
「教える人じゃなくなっても、私は、ここにいるよ」
その声は、小さくて、はっきりしていた。
しばらく、二人で、黙って川を眺めていた。
荷を満載した川船が、ゆっくりと下っていく。船尾に座った船頭が、何か歌のようなものを口ずさんでいた。
「そういえば」
先輩が、思い出したように言った。
「うちの実家ね、最近、人を探してるの」
「ベレッソ商会が、ですか」
「うん。商会が大きくなって、人手が足りなくなってきて。父が、よく言うの。『腕のいい若手がいたら、連れてこい』って」
先輩は、何気ない口調だった。冗談めかしているようにも、本気のようにも聞こえた。
「アッシュくんみたいな人が、実家にいてくれたら、きっと、喜ぶだろうなって。ふと、思っただけ」
それだけ言って、先輩は、ぱっと顔を背けた。
耳が、少し赤かった。
俺は、その横顔を見つめたまま、動けなくなった。
実家に入る。ベレッソ商会の人間になる。
その言葉が意味するものを、俺はよく分かっていた。先輩は、そこまで口にしたわけではない。けれど、俺には、その先が見えてしまった。
帰り道、俺は、ずっと考えていた。
自分の商会を持つ。それは、変わらない夢だ。商売が面白いと思った日から、胸の奥で、ずっと火が灯っている。
でも。
先輩と生きていく道があるなら、その夢への道は、一つではないのではないか。
ベレッソ商会に入る。人を知り、組織を知り、大きな商いを、内側から学ぶ。遠回りに見えて、実は、自分の商会を持つための、確かな道になるかもしれない。
何より、先輩の隣にいられる。
「……考えてるね」
先輩が、横から覗き込んできた。
「分かりますか」
「顔に出てる。真面目な顔」
「真面目、です」
「ふふ。知ってる」
倉庫店の前で、先輩は足を止めた。
「じゃあ、また明日」
「はい。また明日」
手を振って、先輩が扉の向こうに消えていく。
俺は、その場に立ったまま、しばらく動けなかった。
胸の中で、一つの決意が、静かに形を取り始めていた。
次の休みの日に、先輩に、ちゃんと話をしよう。
ベレッソ商会に入る。その覚悟を、先輩に、伝えよう。
秋の風が、橋のほうから吹いてきた。冷たいはずなのに、不思議と、少しも寒くなかった。




