第29話「もう一度の失敗」
第29話「もう一度の失敗」
トムが入って、二か月が過ぎた。
仕分けはすっかり板についた。声の大きさは相変わらずだが、数え間違いはあの夜以来一度もない。頭文字を書いた木札の「T」は、棚の端でいつも律儀に並んでいる。
商売のほうも、順調だった。順調すぎて、俺は少し浮かれていたのだと思う。
その日は、月末の定期納品の朝だった。
北門通りの宿屋に、塩二十袋と麦三十袋を届ける。毎月のことで、俺が受け持っている取引だ。荷は前の晩のうちに揃えて、荷車に積んである。あとは、河港帰りの荷車引きに頼んで、宿まで運んでもらうだけだった。
「アッシュ、荷は揃ってるな」
ダグが荷車の縄を締めながら言った。
「はい。控えのとおり、塩二十、麦三十です」
「よし。行ってこい」
宿に着いたのは、まだ朝の仕込みの時間だった。
帳場で待っていた宿の主人は、荷を見るなり、眉をひそめた。
「アッシュさん。麦が、足りないんだが」
「足りない、ですか。三十袋のはずですが」
「いや、四十だ。先週、追加で十袋頼んだだろう。今日の朝飯の仕込みに使う分を、そこに足してくれと」
頭の中が、すっと冷たくなった。
追加。先週。確かに、主人は帳場の前で、そんなことを言っていた。宿に泊まる客が多い時期で、麦が入り用だと。俺は「分かりました」と答えた。
その後、どうしたか。
思い出せなかった。いや、思い出したくなかった。俺は、確かに聞いた。だが、元の注文の木札を、書き換えた記憶がない。
「……申し訳ありません。追加分が、手元に届いていません」
「今から、朝飯の仕込みなんだがな」
主人の声は、怒鳴ってはいなかった。だから余計に、胸に響いた。
「今日の朝飯、麦が足りないと、出せない客が出る。常連のお客さんもいるんだ」
「すぐに、手配します。昼までには必ず」
「昼じゃ遅いんだよ、アッシュさん」
返す言葉がなかった。
俺は荷車引きに頼んで、荷を宿の裏手に降ろしてもらい、走って商会に戻った。
倉庫店では、ダグとトムが顔を見合わせていた。
「麦が十袋、足りなかった」
俺が告げると、トムの顔がさっと白くなった。
「追加の、麦ですか。あの、先週、ダグさんから『宿屋さんが追加を言ってたぞ』って聞いたんです。でも、木札には何も書いてなくて、俺、聞き間違いかなって」
「俺は、お前に伝えたぞ」
ダグが腕を組んだ。
「アッシュから聞いたまま、トムに口で言っただけだ。木札を書き換えるのは、アッシュの仕事だと思ってた」
三人の視線が、ぶつかった。
誰が悪いのかを探す空気が、倉庫の中に重く立ち込めようとしていた。
その時、俺は気づいた。今、ここで誰かを責めれば、そこで話は終わってしまう。だが、誰を責めても、麦は一袋も増えない。
「トム、責めるつもりはない。ダグさんも」
俺は、自分の声が思ったより落ち着いているのに驚いた。
「追加は、自分が受けた。木札を書き換えなかったのも、自分だ。まず、麦を探す。話は、そのあとにしよう」
麦の十袋は、河港の問屋に走って、どうにか手に入れた。
だが、急ぎの買付けで、相場より一袋につき銅十枚ほど高くついた。荷車の追加の手間賃もかかった。差額は、銀一枚と少し。そして何より、宿の朝飯の時間には、間に合わなかった。
宿の主人には、昼過ぎに頭を下げに行った。主人は「次から頼むぞ」とだけ言って、受け取ってくれた。だが、その目には、これまでと違う、わずかな距離があった。
商会に戻った俺は、会頭の前に立った。
「宿屋の納品で、追加分を落としました。自分の判断の甘さです」
会頭は、帳簿から目を上げずに聞いていた。
「原因は」
「追加を口頭で受けて、元の控えを書き換えませんでした。それを、ダグさんとトムに口で回しました」
「なぜ、書き換えなかった」
「……忘れていた、と思います。ですが」
俺は、言葉を探した。
「忘れた自分が悪いのは、そのとおりです。ただ、忘れても荷が間違わない形に、していませんでした」
会頭の手が、止まった。
「続けろ」
「追加や変更を、口で受けて、口で回す。それで回っていたのは、たまたま、誰も忘れなかったからです。人が増えて、荷が増えて、一人でも抜ければ落ちる形に、いつの間にかなっていました」
しばらく、沈黙があった。
「……損は、銀一枚と少し。それと、宿の信用が、少しだ」
「はい」
「損は、返せる。信用も、時間をかければ戻る。だが、原因を人に求める商人は、同じ穴に二度落ちる」
会頭は、静かに言った。
「任せた者の失敗は、任せた者の仕事だと言ったな」
「はい」
「次は、どうする」
「仕組みを、直します」
会頭は、小さく頷いた。それだけだった。
夜、帳簿机の前で、先輩が筆を止めて、こちらを見た。
「聞いたよ。宿の件」
「……はい」
「落ち込んでる?」
「少し。前にも一度、判断を任されて失敗したことがあったのに」
先輩は、ふっと息を吐いて笑った。
「あの時と、同じ失敗?」
そう聞かれて、俺は考えた。あの時は、自分の読みが外れた。今回は、そうではない。
「……違います。あの時は、判断を間違えました。今回は、判断は合っていたのに、伝わらなかった」
「そう。だったら、まったく別の失敗だね」
先輩は、羽根筆を置いた。
「同じ失敗を二度するのが、本当の『もう一度の失敗』。でも、違う失敗なら、それは、新しいことを学べる失敗だよ」
「……慰めてくれてますか」
「少しね。でも半分は、本当のこと」
先輩は、机の上に白い紙を一枚、すべらせてきた。
「それで? どうやって直すの」
俺は紙に、思いつくままに書き出した。
注文を受けたら、必ず一枚の控えに書く。追加や変更は、その控えに赤い字で書き足す。口で聞いただけの変更は、変更として扱わない。控えには、受けた者の頭文字を書く。
「トムの木札と、同じ考えだね」
「はい。置いた人が分かるように。……今回は、受けた人が分かるように」
「それと」
先輩が、紙の端を指で叩いた。
「出荷の前に、控えと荷を、二人で読み合わせる。一人で見ると、『合ってるはず』って思い込んじゃうから」
「読み合わせ。……はい、入れます」
最後に、一行足した。
注文を受けた者が、控えを書く。荷を揃える者が、控えを読む。控えが、人の間に立つ。
書き上げてみると、それは単純な決まりだった。だが、俺たちは、その単純な決まりが、ないまま回していたのだ。
翌朝、俺は、ダグとトムを呼んだ。
昨夜書いた紙を見せて、決まりを一つずつ説明した。ダグは、腕を組んだまま黙って聞いていたが、最後に鼻を鳴らした。
「……面倒くせえな」
「はい」
「だが、昨日みたいなのは、もうごめんだ」
「はい」
「やるぞ」
ダグが、紙を取って、壁に打ちつけた。トムは、赤い字で「T」と書く練習を、もう始めていた。
その後、俺は宿屋にもう一度足を運んだ。
主人に、新しい控えの決まりを話した。追加や変更は、赤い字で必ず書く。主人にも、その控えを見てもらう。
「ほう」
主人は、控えを手に取って眺めた。
「面倒だが、これなら、言った言わないにならんな」
「はい。それが、狙いです」
主人は、小さく笑った。
「次の月末は、見ているよ」
「ありがとうございます」
距離は、完全には戻らなかった。だが、少しだけ、縮まった気がした。
帰り道、河港のほうから風が吹いてきた。
川の匂いが、少しだけ強くなる。大きな帆柱が夕日を背に黒く並んでいる。
失敗は、悔しい。悔しいが、あの冷たくなった頭の中を、俺は忘れないだろう。
人を、責めない。仕組みを、見る。
それを、会頭は何も言わずに、教えてくれたのだと思った。
商会に戻ると、先輩が窓際で待っていた。
「どうだった?」
「少しだけ、戻りました」
「そう。よかった」
先輩は、満足そうに頷いて、それから、小さく付け足した。
「アッシュくん、もうすぐだね」
「もうすぐ、ですか」
「ううん。なんでもない」
先輩は、はぐらかして笑った。その笑顔が、夕日の中で、少しだけ眩しかった。




