第28話「人を任せる」
第28話「人を任せる」
春の終わりに、第二倉庫店に新人が入った。
トムという名の、十五になったばかりの少年だった。背は俺より頭ひとつ低く、声は妙に大きい。入口で「よろしくお願いします!」と叫んだせいで、奥の木箱の陰にいたダグが驚いて咳き込んだ。
「うるせえ坊主だな」
「す、すみません!」
「だから声がでけえんだよ」
ダグは文句を言いながらも、口の端が少し緩んでいた。この人は口が悪いだけだ。
会頭は新人の顔を一度見て、それから俺を見た。
「アッシュ。しばらく、お前が見ろ」
「自分が、ですか」
「ほかに誰がいる」
先日も聞いた台詞だった。会頭はそれ以上は何も言わず、帳場へ引っ込んでいく。
隣で、先輩が帳簿に目を落としたまま、肩を小さく震わせていた。
「……笑ってますよね」
「笑ってないよ。ただ、思い出してただけ」
先輩はようやく顔を上げて、柔らかく目を細めた。
「私も、最初の後輩がアッシュくんだったから。同じ顔してたよ、あの時の私」
そう言われると、断る言葉は出てこなかった。
最初の仕事は、荷の仕分けと数え直しにした。
俺が入った頃、先輩が最初に任せてくれたのも、これだった。倉庫に届いた荷を、品目ごとに分けて、数を数え、木札に書いて棚に置く。単純で、間違えやすくて、間違えたら必ず誰かが困る仕事だ。
「麦の袋はこっち、塩はそっち。数は二回数えて、木札に書く。分からなければ聞く。分かったつもりで進めるのが、一番まずい」
「はい!」
「声は、半分でいい」
「は、はい」
トムは真剣な顔で頷いて、荷に向かっていった。
その背中を見ていると、手が勝手に動きそうになった。
数え方が遅い。袋を持ち上げる角度も悪い。木札の字は大きすぎて、棚に収まらない。全部、俺がやったほうが早い。
つい一歩踏み出しかけたところで、後ろから声がした。
「手ぇ出すなよ」
ダグだった。木箱に腰かけて、水筒の水を飲んでいる。
「見てるだけで、手が疼くって顔してるぞ」
「……分かりますか」
「分かるさ。俺も昔、そうだった」
ダグは水筒を置いて、トムのほうを顎でしゃくった。
「任せるってのはな、自分でやるより遅くて、下手で、見てて苦しいことを、我慢するってことだ。それが嫌なら、一生一人でやってろ」
乱暴な言い方だったが、胸に刺さった。
会頭が毛織物の話を断った時、「自分が動かなくても回る形」と言っていた。あの言葉は、遠い話ではなかった。目の前で、俺の手が、その入口に立っている。
俺は踏み出しかけた足を引っ込めて、帳場の机に戻った。
昼になる頃、トムの棚はそれなりの形になっていた。
遅い。だが、止まってはいない。途中、二度ほど「これは、どちらですか」と聞きに来た。聞かれるたびに、俺は答えを言う前に一つだけ返した。
「どっちだと思う?」
「え、えっと……こっち、ですか」
「理由は?」
「木札の印が、こっちの棚と同じだったので」
「正解だ」
トムは、ほっとしたように笑った。たったそれだけで、聞きに来る顔が少しずつ軽くなっていく。
答えを渡さず、考える道筋だけを残す。先輩が、俺にしてくれたことだ。
異変に気づいたのは、夕方だった。
棚の端に並んだ木札を、確認のために一枚ずつ目で追っていた時だ。塩の袋の数が、荷受けの控えと合わない。控えには四十袋。棚の木札には、三十四。
数え間違いか。それとも、どこかで袋が混ざったか。
「トム。塩の袋、数え直してくれるか」
「は、はい! ……あ」
数えた途端、トムの顔から血の気が引いた。
「す、すみません。二回、数えたんですけど。たぶん、麦の棚に六袋、置いちゃってます」
棚を確かめると、その通りだった。塩の袋が六つ、麦の袋の列に紛れていた。麦と塩の袋は見た目がよく似ている。俺だって、慣れるまでは取り違えた。
「ごめんなさい。俺、全部、台無しに」
「してない」
「でも」
「間違いに気づいたのは、誰だ」
「……自分、です。数え直して」
「だったら、仕事は止まってない。今日のうちに分かって、今日のうちに直せる。それは、いい間違いだ」
トムは目を丸くした。俺は塩の袋を一つ持ち上げて、麦の列から引き抜いた。
「全部やり直すと、夜までかかるぞ。二人でやれば半分だ。手伝う」
「い、いいんですか」
「新人の失敗を、新人一人に背負わせる商会はない」
自分で言った後で、少し驚いた。この言葉は、先輩が俺に言った台詞だった。
その夜、倉庫の灯りは、遅くまで消えなかった。
火の気の少ない倉庫では、天井の魔導具の灯りを少し絞って、手元の木札には指先の光を足した。生活魔法の小さな明かりは、細かい字を読むのにちょうどいい。トムは、まだ上手く光を出せなくて、何度も指先を睨んでいた。
「無理に灯さなくていい。光が出たら、それは儲けものだ」
「は、はい」
二人で、袋を一つずつ確かめていく。
作業の途中で、俺は思いついたことを口にした。
「トム。明日から、棚に置く前に一つだけ、やり方を変えよう」
「やり方、ですか」
「荷を置いたら、木札に自分の名前の頭文字を書く。置いた人が分かれば、間違えた時に、誰に聞けばいいかも分かる」
「でも、それだと、俺の間違いがバレバレになりますけど」
「そのとおりだ。バレたほうがいい」
トムは少し黙ってから、首を横に振った。
「いえ。そのほうが、いいです。次は、間違えないようにしますから」
それは、俺が言わせたかった言葉ではなかった。トムが自分で見つけた答えだった。
作業が終わる頃には、夜も更けていた。
帰り支度をしていると、帳場の奥に、まだ明かりがついているのに気づいた。
会頭が、帳簿を閉じるところだった。いつからいたのかは分からない。こちらを見て、短く言った。
「六袋か」
「……見ていたんですか」
「見てはいない。控えを見れば分かる」
会頭は、それ以上は何も言わなかった。叱りも、褒めもしない。ただ、帳簿を抱えて立ち上がり、すれ違いざまに、ほんの少しだけ足を止めた。
「任せた者の失敗は、任せた者の仕事だ。覚えておけ」
そう言って、会頭は暗い通路へ消えた。
俺は、その背中をしばらく見送った。
任せるのは、手を離すことじゃない。失敗する余地を渡して、その後始末まで引き受けることだ。
倉庫の隅で、トムがまだ木札と格闘している。「T」と書いた最初の一枚を、嬉しそうに棚の端に掛けていた。
俺も昔、同じことを、誰かにしてもらったのだと思った。
帰り道、夜風が少し冷たかった。
先に帰ったはずの先輩が、倉庫店の外で待っていた。
「お疲れさま。遅かったね」
「……待っててくれたんですか」
「ダグさんが、アッシュくんが居残りしてるって言うから。どうだった? 最初の後輩は」
俺は少し笑って、答えた。
「手が出そうになるのを、我慢するのが大変でした」
「そうでしょう」
先輩は、満足そうに頷いた。
「私は、アッシュくんの時、毎日我慢してたよ」
「……すみません」
「謝らなくていい。その分、ちゃんと育ったから」
そう言って、先輩は笑った。街灯の下で、その笑顔は、何かを誇るようにも見えた。
並んで歩く夜道の先に、もう春の星が出ていた。




