第27話「商会の裏側」
第27話「商会の裏側」
「アッシュ、今日は荷を持たなくていい。私に付いてこい」
朝の第二倉庫店で、会頭にそう言われた。帳簿を開きかけていた手が止まる。ダグが木箱の向こうから、にやにやしてこちらを見ていた。
「自分が、ですか」
「ほかに誰がいる」
会頭はそれだけ言って、さっさと外へ出ていく。多くを語らない人だ。俺は慌てて上着を引っかけ、後を追った。
行き先は河港だった。
荷車に揺られながら、川の匂いを吸い込む。大きな帆柱が何本も並び、水鳥が杭の上で羽を乾かしている。以前、荷を受け取りに来た時と同じ景色なのに、今日は荷車引きの側ではなく、会頭の隣に座っているのが妙な気分だった。
通されたのは、川船問屋の事務所の二階だった。
待っていたのは、問屋の主人と、見慣れない身なりの男。男は北の領から来た商人で、毛織物の大口取引を持ちかけてきたのだという。
「月に銀三百枚分。うちの毛織物を、まとめて帝都で引き取っていただきたい」
三百枚。金貨三枚分だ。見習いの給金なら、何十年分になるだろう。
俺は思わず会頭の横顔を窺った。だが会頭は、表情ひとつ変えずに茶をすすっている。
男は条件を並べた。品質、納期、支払い。聞いている限り、悪い話には思えなかった。毛織物は冬に向けて必ず売れる。値も、帝都の相場より少し安い。
「なるほど。よく分かりました」
会頭は静かに言った。
「この話は、お受けできません」
男の顔が固まった。問屋の主人も、わずかに眉を上げる。
事務所を出て、河港の岸壁を歩きながら、俺はとうとう我慢できずに聞いた。
「あの、どうして断ったんですか。儲かる話だったと思います。自分には、条件も悪くなかったように」
「悪くなかったな。儲かるだろう」
「でしたら」
「あの男の毛織物を、誰が見る」
会頭は歩きながら言った。
「北の領まで、私は行けない。お前でも、ダグでも、今のうちの商会員では行けん。品が落ちても、納期が遅れても、気づくのは荷が着いてからだ。見られない商売は、買った時にもう半分負けている」
俺は黙って聞いた。
「商人は、目の前の取引で勝てばいい。だが商会を預かる者は、取引が百回続く形を作らねばならん。だから儲かる話でも、『やらない』と決めることがある。むしろ、そちらのほうが多い」
やらない、と決める。
俺は、その言葉を頭の中で転がした。
仕入れ交渉も、売り込みも、「どうやって取るか」を考えるのが商売だと思っていた。取らない、という選択を仕事として考えたことはなかった。
昼は、河港の屋台で済ませた。
焼いた魚を挟んだ硬いパンが、銅五枚。会頭はそれを立ったまま、黙々と食べている。大きな商会の主が、荷車引きたちに混じって平然と立っている。
「会頭は、いつもこうなんですか。外で人に会って、話して、決めて」
「大半は、それだけだ」
会頭は指についた粉を払った。
「私が最後に自分で品を売ったのは、もう何年も前だ。今の私の仕事は、誰に何を任せるかを決めること、そして、私が倒れても商会が回るようにしておくことだ」
「倒れても、ですか」
「商人は、自分が動かなければ稼げない。経営者は、自分が動かなくても稼げる形を作る。その代わり、全部の責任は自分が負う」
淡々とした声だった。だが、その言葉の重みは、さっきの断りの場面よりずっと響いた。
午後は、ほかにも二か所回った。
荷車引きの組合に顔を出し、積み荷の遅れについて話を聞く。次に倉庫街の管理人と、来月の保管料の相談をする。会頭が何かを決めるたび、周りの人間が自然と頷き、仕事が動いていく。
何も派手なことは起きない。ただ、それぞれの場所で、会頭は一言か二言しか話さなかった。それなのに、帰る頃には、河港から帝都の倉庫まで、一本の線が通ったように見えた。
帰りの荷車の上で、会頭が不意に言った。
「アッシュ。お前は、どちらになりたい」
「どちら、とは」
「商人のままでいたいか。それとも、人を使う側に回りたいか」
夕日が川面を赤く染めていた。
俺は少し考えた。ごまかすこともできた。まだ見習いです、と笑って答えを濁すこともできた。
だが、今日一日見てきたものを思うと、嘘はつけなかった。
「いつか、自分もやります。自分の商会を持って、人を集めて、取引の形を作る側に」
言ってしまってから、手のひらに汗をかいているのに気づいた。
会頭は、こちらを見なかった。しばらく川を眺めたまま、ようやく一言だけ返した。
「そうか」
それだけだった。反対も、励ましもない。だが、その声は、いつもより少しだけ柔らかかった気がした。
倉庫店に戻ると、もう灯りがともっていた。
帳簿机の前に、先輩が座っている。顔を上げて、俺を見ると、ふっと笑った。
「おかえり。会頭に連れていかれたんでしょう」
「どうして知ってるんですか」
「ダグさんが朝から言いふらしてたから」
あの人は。俺は苦笑して、先輩の隣の椅子に腰を下ろした。
「どうだった?」
「……疲れました。でも、すごいものを見た気がします。商人と経営者って、全然違うんですね」
俺は今日のことを話した。毛織物を断った話。見られない商売は半分負けているという言葉。先輩は、うんうんと相槌を打ちながら、最後まで聞いてくれた。
「私もね、会頭に連れていかれたのは三年目だった」
「そうなんですか」
「アッシュくんは、半年も早いね。期待されてるんだよ」
先輩はそう言って、少しだけ首を傾げた。
「それで、会頭に聞かれたんじゃない? どっちになりたいか、って」
驚いて顔を見ると、先輩は悪戯っぽく目を細めた。
「私も、聞かれたから」
「……先輩は、何て答えたんですか」
「内緒」
はぐらかされた。けれど、先輩の横顔は、何かを思い出すように穏やかだった。
「アッシュくんは、なんて答えたの?」
「……いつか、自分もやる、と」
先輩は、しばらく何も言わなかった。やがて、ゆっくりと頷く。
「そう。いい答えだと思うよ」
その声が、嬉しそうにも、少しだけ遠くを見ているようにも聞こえた。
どうして、そんなふうに聞こえたのか。その時の俺には、まだ分からなかった。




