第26話「先の話」
第26話「先の話」
「あの、キーリスさん。春の工房の件は、本当にありがとうございました」
先輩が、深々と頭を下げた。
休日の朝、市場の通りの、いつもの露店の前だった。弁当の包みを提げた先輩と並んで、俺も、一緒に頭を下げる。
「おいおい、やめてくれよ。朝から、そんな礼儀正しいのは、慣れてねえんだ」
キーリスは、片肘をついたまま、ぼんやりと手を振った。
「あの鳥、気に入ってもらえたなら、それでいい。爺さんも、喜んでるだろうよ」
「はい。毎日、机の上に飾っています」
「そりゃ、結構」
先輩が、嬉しそうに笑う。
その横顔を、キーリスが、ちらりと見て、俺に、ひょいと目配せをした。
「お似合いだな、お前ら」
「……ありがとうございます」
それだけ言うのが、精一杯だった。
市場の通りを抜けて、坂道を、しばらく上った。
帝都の城内には、住人の憩いの場として整えられた、高台の公園がある。秋の終わりの空は高く、芝は、黄金色に染まっていた。人の姿は、まばらだ。
公園の端の、大きな木の下に、敷布を広げる。
「ここ、いい場所だね」
「はい。風も、気持ちいいですし」
先輩が、弁当の包みを開いた。
焼いた肉を挟んだパン、茹でた卵、干し果物。そして、小さな水筒。
「お茶、淹れようか」
「あ、お湯は、私が」
指先に、小さな火を灯して、水筒の底をあぶる。しばらくして、中から、湯気が立ち上った。
「ありがとう。便利だね」
「このくらいしか、できませんけど」
「十分だよ」
二人で、並んで座った。
高台の下を、川が、きらきらと流れている。遠くには、帝都の城壁と、屋根の波が見える。
「いい天気だね」
「はい」
「こうしてると、何もかも、うまくいきそうな気がする」
先輩が、ぽつりと言った。
俺は、パンをかじりながら、横目で、その顔を見た。
交際を始めて、二年目に入った。
最初の頃は、手を繋ぐだけで、心臓が壊れそうだった。今は、隣にいることが、自然になった。けれど、その自然さが、どれほど大切なものか、最近になって、少し分かってきた気がした。
(この人と、ずっと、一緒にいられたら)
そう思うことが、増えていた。
「ねえ、アッシュくん」
「はい」
「アッシュくんは、将来、どうしたいの?」
不意の質問に、パンを、喉に詰まらせそうになった。
「ど、どうしたんですか、急に」
「ううん。なんとなく、聞いてみたくなって」
先輩は、膝を抱えて、遠くを見つめた。
「アッシュくんは、いつも、目の前の仕事を、一生懸命やってるでしょう。でも、その先に、何を見てるのかなって」
少し、考えた。
先輩に、嘘は、つけない。けれど、大きすぎる夢を、本気で語るのは、まだ、恥ずかしかった。
「そうですね。このまま、商会で、もっと仕事を覚えて」
「うん」
「それで、いつか」
言葉を、探した。
「いつか、自分の商会を持てたら、面白いかもしれないな、って。軽く、思ったりはします」
「自分の、商会」
「はい。まだ、全然、先の話ですけど」
先輩は、しばらく、黙っていた。
それから、ふっと、微笑んだ。
「いいと思う。アッシュくんなら、できるよ」
「本当ですか」
「うん。そう思う」
あまりに、あっさりと言われて、拍子抜けした。
「笑わないんですか」
「どうして? 笑うことなんて、ないでしょう」
先輩は、俺の方を向いた。
「商人を目指す人は、みんな、一度は、そう思うものだよ。でも、本気でやり抜ける人は、少ない。アッシュくんは、その少ない方だと思う」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
(この人は、いつも、俺を、信じてくれる)
「先輩は」
俺は、思い切って、聞いてみた。
「先輩は、どうなんですか。将来のこと」
「私?」
先輩は、少し、驚いた顔をした。
「私は、そうだな」
視線が、再び、遠くへ向く。
「私ね、三人きょうだいの末っ子なの」
「末っ子、ですか」
「うん。上に、兄が二人いてね。女の子は、私だけ。上の兄が、いずれ、商会を継ぐことになってる。次の兄は、そのお手伝い」
先輩は、膝の上で、指を絡めた。
「だから、私は、家を継がなくていいの。小さい頃から、好きなことをしなさいって、言われて育ったの」
「それで、商売の勉強に」
「うん。自分の目で、世の中の商いを、見てみたかったから」
そうか。だから、先輩は、いつも、自由に見えたのか。
「うちの両親はね、恋愛結婚なの」
「そうなんですか」
「うん。お母さんが、商会の下働きだった頃に、お父さんと、恋に落ちたんだって」
先輩は、少し、照れたように笑った。
「だから、うちは、そういう家風なの。娘が、自分で選んだ人なら、反対しない。家柄とか、財産とか、そういうことは、二の次でいいって」
「いい、ご両親ですね」
「うん。自慢の両親」
先輩は、そう言って、ふっと、俺の手に、自分の手を重ねた。
「だからね、アッシュくん」
「はい」
「私、結婚するなら、自分で選んだ人がいいなって、ずっと、思ってたの」
心臓が、大きく、跳ねた。
先輩は、顔を、少しだけ赤くして、続けた。
「アッシュくんは、どう思う?」
「……え」
「結婚の、こと」
沈黙が、落ちた。
風が、草を揺らす音だけが、聞こえた。
何か、言わなければ。けれど、頭が、真っ白だった。
(落ち着け。落ち着け、俺)
必死で、言葉を、探した。
「その。……私も、同じです。いつか、結婚するなら、自分が好きになった人が、いいです」
「うん」
「その人と、一緒に、商売をしたり、小さな家を持ったり、そういうのが、いいなって」
声が、少し、裏返った。
けれど、先輩は、笑わなかった。
じっと、俺の目を見て、静かに、頷いた。
「そっか。じゃあ、いつか、そうなれるといいね」
「……はい」
それが、どういう意味なのか。先輩の「そうなれる」の相手が、誰なのか。
聞く勇気は、まだ、なかった。
けれど、重ねられた手の温かさが、答えのように思えた。
(いつか、この人の隣に、胸を張って立てる男になりたい)
その思いは、胸の奥で、静かに、形を取り始めていた。
夕方になって、公園を後にした。
坂を下りるうちに、街の灯りが、ぽつぽつと灯り始めていた。
先輩が、ふいに、足を止めた。
「どうしたんですか」
「ううん。ちょっとだけ、思ったの」
先輩は、高台の方を振り返って、小さく息を吐いた。
「いつまでも、こうしていられたら、いいなって」
「いられますよ」
「そうだね」
先輩は、笑った。
けれど、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ、寂しそうな影が、差した気がした。
俺は、気のせいだと思った。
先輩の手を、もう一度、強く握った。
先輩も、同じ強さで、握り返してくれた。




