↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大商人の軌跡  作者: なるみくん
第1章 帝都修行編
26/67

第26話「先の話」

第26話「先の話」


「あの、キーリスさん。春の工房の件は、本当にありがとうございました」


先輩が、深々と頭を下げた。


休日の朝、市場の通りの、いつもの露店の前だった。弁当の包みを提げた先輩と並んで、俺も、一緒に頭を下げる。


「おいおい、やめてくれよ。朝から、そんな礼儀正しいのは、慣れてねえんだ」


キーリスは、片肘をついたまま、ぼんやりと手を振った。


「あの鳥、気に入ってもらえたなら、それでいい。爺さんも、喜んでるだろうよ」

「はい。毎日、机の上に飾っています」

「そりゃ、結構」


先輩が、嬉しそうに笑う。


その横顔を、キーリスが、ちらりと見て、俺に、ひょいと目配せをした。


「お似合いだな、お前ら」

「……ありがとうございます」


それだけ言うのが、精一杯だった。


市場の通りを抜けて、坂道を、しばらく上った。


帝都の城内には、住人の憩いの場として整えられた、高台の公園がある。秋の終わりの空は高く、芝は、黄金色に染まっていた。人の姿は、まばらだ。


公園の端の、大きな木の下に、敷布を広げる。


「ここ、いい場所だね」

「はい。風も、気持ちいいですし」


先輩が、弁当の包みを開いた。


焼いた肉を挟んだパン、茹でた卵、干し果物。そして、小さな水筒。


「お茶、淹れようか」

「あ、お湯は、私が」


指先に、小さな火を灯して、水筒の底をあぶる。しばらくして、中から、湯気が立ち上った。


「ありがとう。便利だね」

「このくらいしか、できませんけど」

「十分だよ」


二人で、並んで座った。


高台の下を、川が、きらきらと流れている。遠くには、帝都の城壁と、屋根の波が見える。


「いい天気だね」

「はい」

「こうしてると、何もかも、うまくいきそうな気がする」


先輩が、ぽつりと言った。


俺は、パンをかじりながら、横目で、その顔を見た。


交際を始めて、二年目に入った。


最初の頃は、手を繋ぐだけで、心臓が壊れそうだった。今は、隣にいることが、自然になった。けれど、その自然さが、どれほど大切なものか、最近になって、少し分かってきた気がした。


(この人と、ずっと、一緒にいられたら)


そう思うことが、増えていた。


「ねえ、アッシュくん」

「はい」

「アッシュくんは、将来、どうしたいの?」


不意の質問に、パンを、喉に詰まらせそうになった。


「ど、どうしたんですか、急に」

「ううん。なんとなく、聞いてみたくなって」


先輩は、膝を抱えて、遠くを見つめた。


「アッシュくんは、いつも、目の前の仕事を、一生懸命やってるでしょう。でも、その先に、何を見てるのかなって」


少し、考えた。


先輩に、嘘は、つけない。けれど、大きすぎる夢を、本気で語るのは、まだ、恥ずかしかった。


「そうですね。このまま、商会で、もっと仕事を覚えて」

「うん」

「それで、いつか」


言葉を、探した。


「いつか、自分の商会を持てたら、面白いかもしれないな、って。軽く、思ったりはします」

「自分の、商会」

「はい。まだ、全然、先の話ですけど」


先輩は、しばらく、黙っていた。


それから、ふっと、微笑んだ。


「いいと思う。アッシュくんなら、できるよ」

「本当ですか」

「うん。そう思う」


あまりに、あっさりと言われて、拍子抜けした。


「笑わないんですか」

「どうして? 笑うことなんて、ないでしょう」


先輩は、俺の方を向いた。


「商人を目指す人は、みんな、一度は、そう思うものだよ。でも、本気でやり抜ける人は、少ない。アッシュくんは、その少ない方だと思う」


胸の奥が、じんわりと熱くなった。


(この人は、いつも、俺を、信じてくれる)


「先輩は」


俺は、思い切って、聞いてみた。


「先輩は、どうなんですか。将来のこと」

「私?」


先輩は、少し、驚いた顔をした。


「私は、そうだな」


視線が、再び、遠くへ向く。


「私ね、三人きょうだいの末っ子なの」

「末っ子、ですか」

「うん。上に、兄が二人いてね。女の子は、私だけ。上の兄が、いずれ、商会を継ぐことになってる。次の兄は、そのお手伝い」


先輩は、膝の上で、指を絡めた。


「だから、私は、家を継がなくていいの。小さい頃から、好きなことをしなさいって、言われて育ったの」

「それで、商売の勉強に」

「うん。自分の目で、世の中の商いを、見てみたかったから」


そうか。だから、先輩は、いつも、自由に見えたのか。


「うちの両親はね、恋愛結婚なの」

「そうなんですか」

「うん。お母さんが、商会の下働きだった頃に、お父さんと、恋に落ちたんだって」


先輩は、少し、照れたように笑った。


「だから、うちは、そういう家風なの。娘が、自分で選んだ人なら、反対しない。家柄とか、財産とか、そういうことは、二の次でいいって」

「いい、ご両親ですね」

「うん。自慢の両親」


先輩は、そう言って、ふっと、俺の手に、自分の手を重ねた。


「だからね、アッシュくん」

「はい」

「私、結婚するなら、自分で選んだ人がいいなって、ずっと、思ってたの」


心臓が、大きく、跳ねた。


先輩は、顔を、少しだけ赤くして、続けた。


「アッシュくんは、どう思う?」

「……え」

「結婚の、こと」


沈黙が、落ちた。


風が、草を揺らす音だけが、聞こえた。


何か、言わなければ。けれど、頭が、真っ白だった。


(落ち着け。落ち着け、俺)


必死で、言葉を、探した。


「その。……私も、同じです。いつか、結婚するなら、自分が好きになった人が、いいです」

「うん」

「その人と、一緒に、商売をしたり、小さな家を持ったり、そういうのが、いいなって」


声が、少し、裏返った。


けれど、先輩は、笑わなかった。


じっと、俺の目を見て、静かに、頷いた。


「そっか。じゃあ、いつか、そうなれるといいね」

「……はい」


それが、どういう意味なのか。先輩の「そうなれる」の相手が、誰なのか。


聞く勇気は、まだ、なかった。


けれど、重ねられた手の温かさが、答えのように思えた。


(いつか、この人の隣に、胸を張って立てる男になりたい)


その思いは、胸の奥で、静かに、形を取り始めていた。


夕方になって、公園を後にした。


坂を下りるうちに、街の灯りが、ぽつぽつと灯り始めていた。


先輩が、ふいに、足を止めた。


「どうしたんですか」

「ううん。ちょっとだけ、思ったの」


先輩は、高台の方を振り返って、小さく息を吐いた。


「いつまでも、こうしていられたら、いいなって」

「いられますよ」

「そうだね」


先輩は、笑った。


けれど、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ、寂しそうな影が、差した気がした。


俺は、気のせいだと思った。


先輩の手を、もう一度、強く握った。


先輩も、同じ強さで、握り返してくれた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。