第23話「運の使い方」
第23話「運の使い方」
近づくにつれて、犬の吠える声が、谷に響いた。
灯りの数は、十にも満たない。小さな家が、斜面に身を寄せ合うように建っている。畑の畝が、月明かりの下で、黒々と並んでいた。
村の入り口に立つと、手燭を掲げた男たちが、ぞろぞろと現れた。
鍬や棒を握っている。警戒しているのが、はっきりと分かった。
(無理もないか)
こんな山奥に、荷馬車が夜中に現れたのだ。しかも、見知らぬ人間を乗せて。
「ロンバルド商会の、アッシュと申します」
荷馬車を降りて、深く頭を下げた。
「帝都へ戻る途中、橋が落ちていて、上流の橋へ回る道すがら、この灯りを見つけました。一晩だけ、軒先を貸していただけませんか。宿代は、お支払いします」
男たちが、顔を見合わせた。
「商人、か」
「……珍しいな。商人が、この村に来るなんて」
「橋が落ちたとは、本当か」
そのやり取りを、後ろから、杖をついた老人が、静かに聞いていた。
「通してやれ」
しゃがれた声だった。
「客は、客だ。この夜道で、追い返すわけにはいかん」
村長は、この老人だった。
通された家の囲炉裏端で、温かいスープをもらった。
俺と御者は、並んで、湯気の立つ椀を抱えた。体の芯まで、じんわりと温まる。
「ありがとうございます。助かりました」
「構わん。この辺りは、旅人が通らんからな」
村長は、囲炉裏の火を見つめながら、ぽつりと言った。
「橋が落ちたと聞いたが」
「はい。昨夜の増水で、橋脚が流されたようです。直るのは、十日以上かかると」
「そうか……。去年も、似たようなことがあった」
村長は、深いため息をついた。
「橋が使えないと、麓の町へ出られん。商人も、来なくなる」
俺は、荷馬車から持ってきた、小さな袋を差し出した。
「泊めていただくお礼に。干し柿です。隣村のもので、味は、悪くないと思います」
村長が、袋を受け取った。
その時だった。
家の奥から、幼い子供が二人、そろりと顔を出した。
目が、袋に釘付けになっている。
「ばあちゃん、それ、甘い匂いがする」
「これ、行儀が悪いぞ」
そう言いながらも、村長の表情が、和らいだ。
「一つ、いただいても?」
「どうぞ、みんなで」
子供たちは、干し柿を一つずつもらって、頬を膨らませた。
夢中で噛んでいる顔が、本当に幸せそうだった。
(……そんなに、珍しいのか)
違和感が、胸に引っかかった。
甘いものが、貴重なのだ。この村では。
食事を終えて、厠を借りるついでに、村の中を、少し歩かせてもらった。
月明かりの下、家々の裏手に、大きな納屋が並んでいた。
戸が、少し開いている。
覗き込んで、息を呑んだ。
壺が、積み上がっていた。
大小さまざまな、素焼きの壺。蓋は、蝋で固く封じてある。ざっと数えて、五十はあるだろうか。
壺の一つの縁に、琥珀色のものが、細く垂れて、固まっていた。
(蜂蜜だ)
指先で触れて、舐めてみる。
濃い。花の香りが、鼻に抜けた。市場で買った、どの蜂蜜よりも、風味が深い。
「……見られたか」
背後から、声がした。
振り返ると、村長が、杖をついて立っていた。
「この村の蜂蜜じゃ。山の花から採れる。味は、自慢できる」
「これ、全部ですか」
「去年と、今年の分が、半分ずつ。去年の分は、まだ、売れておらん」
「売れて、いない」
「橋のせいでな。商人が来ん年は、溜まる一方じゃ。持って出るにも、わしらは、麓の町まで行ったことのない者ばかりでな」
村長の声は、疲れていた。
(そうか)
頭の中で、いくつかの事実が、繋がった。
この村は、山奥にあって、人々は、村から出ない。橋が落ちる前から、商人も、ほとんど来なかったのだろう。
売れない蜂蜜が、納屋に溜まっている。
一方、俺の荷馬車には、この村にない、干し柿が積まれている。
甘いものを、喜ぶ子供たち。
(橋が落ちなければ、俺は、ここに来なかった)
偶然だ。運が良かった、と言えば、それまでだ。
けれど、気づかなければ、何も起きない。納屋を覗かなければ。子供たちの顔を見なければ。
(掴めるか、掴めないかだ)
俺は、村長に向き直った。
「村長さん。一つ、提案があります」
「提案、とな」
「干し柿と、蜂蜜を、交換しませんか。お金は、要りません」
老人の目が、わずかに見開かれた。
「交換、か」
「はい。こちらは、干し柿を十袋、お出しします。そのかわり、蜂蜜を、いただきたい」
荷台から、干し柿の袋を、一つ降ろして見せた。
「十袋で、小さな壺を、二十個。いかがでしょう」
「……損か得か、わしには、分からんな」
村長は、正直に言った。
「蜂蜜が、帝都で、どれほどの値になるのか、知らん。だから、公平かどうかも、分からん」
そこが、一番の問題だった。
俺は、少しだけ、迷った。
ここで、適当に言いくるめることも、できる。相場を知らない相手だ。もっと安く、もっと多く、持っていくことも、可能だろう。
(でも)
ダグの言葉と、先輩の言葉が、並んで頭に浮かんだ。
――信用できる人から聞いた話なら、動ける。
この村と、また付き合う機会が、あるかもしれない。
「正直に、お話しします。帝都の市場では、この大きさの蜂蜜の壺が、銀二枚ほどで売られています。干し柿は、一袋が銀一枚と半分。十袋で、銀十五枚。蜂蜜二十壺は、銀四十枚ほどになります」
「……ほう」
「つまり、こちらは、交換のあとで、売って、利益が出ます」
「それを、わざわざ話すのか」
「はい。知らないまま、損をしたと、後から思われたくないので」
村長は、じっと、俺の目を見ていた。
囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜた。
「面白い若者じゃな」
老人は、ゆっくりと、笑った。
「だが、分かった。十袋で、二十壺。もう、五壺、足そう。正直者への、礼じゃ」
「いいんですか」
「構わん。去年の分は、どうせ、腐らせるところじゃった」
握手を、交わした。
荒れた、硬い手だった。
翌朝、まだ空が暗いうちに、荷馬車に、壺を積み込んだ。
二十五個の壺と、残りの二十袋の干し柿。荷は、かなり重くなった。
「出発は、夜明け前か。急ぐな」
御者が、あくびをしながら言った。
「はい。市の日の朝に、間に合わせたいので」
「間に合わせるって、あの道を戻るんだろう? 下りは、上りより、きついぞ」
「それなんですが」
俺は、昨夜から、聞きたかったことを、尋ねるために、村長の傍らの若者に声をかけた。
村の猟師だという、筋肉質の青年だった。
「この村から、帝都の街道へ出る、近道はありませんか」
「近道?」
「昨日の道は、上流の橋を回るために、遠回りになっています。もし、別の道があれば」
猟師は、腕を組んで、しばらく考え込んだ。
「……ある。昔、炭焼きが使っていた道だ。谷を一つ抜けて、街道に出る」
「荷馬車は、通れますか」
「荷車なら、通れる。ただし、狭い。通れる者は、村の者しか、知らん」
(情報だ)
昨日、露天商と交わした、小さな情報交換を、思い出した。
「ありがとうございます。それなら、こちらからも、お伝えしたいことがあります」
「ん?」
「昨日の橋は、代官に、すでに知らせが行っているはずです。直り次第、商人も、また来るでしょう。それと、帝都では、蜂蜜の需要が、冬を前に、高まっています。来年は、売れるはずです」
猟師の顔が、変わった。
「……本当か」
「はい。商人が来たら、この壺の値段は、今日、私が言った相場を、基準にしてください」
猟師は、しばらく黙っていたが、やがて、深く頷いた。
「分かった。道を、案内する」
猟師が、荷馬車の先を歩いて、谷へ入っていった。
炭焼き道は、本当に、狭かった。
荷馬車の車輪が、岩肌をこすりそうになる。何度か、荷を降ろして、車体を持ち上げた。
けれど、道は、確かに、街道へ向かっていた。
陽が昇る頃、猟師が、足を止めた。
「ここまでだ。あとは、まっすぐ下れば、街道に出る」
「ありがとうございました」
「次は、橋が直ったら、商人として来てくれ。村長が、待ってる」
俺は、頷いて、猟師に、干し柿を、一袋手渡した。
猟師が、少し照れくさそうに受け取った。
荷馬車が、峠を越えた。
遠くに、帝都の城壁が、朝日に照らされて、白く光っていた。
「間に合うな」
御者が、呟いた。
「ああ。市の朝には、ぎりぎりだが」
背中で、蜂蜜の壺が、かたかたと、小さく鳴っていた。
(運が、良かった)
けれど、それは、ただ待っていたから、来たわけではない。
橋が落ちた時、立ち止まらなかった。
納屋を、覗いた。
そして、気づいたことを、掴んだ。
俺は、その音を聞きながら、手綱を握る御者の背中を、見つめていた。




