第22話「予想外の風」
第22話「予想外の風」
帰り道の途中から、川の音が、やけに大きくなった。
丘を下るにつれて、道の脇を流れる水が、茶色く濁っている。昨夜の雨が、上流の山に、相当降ったらしい。
「増えてますね、水」
「ああ。こりゃあ、少し荒れてるな」
御者が、手綱を握ったまま、顔をしかめた。
橋は、もう、すぐそこのはずだった。この橋を渡れば街道に出て、帝都まで、夕方には着く。予定どおりなら、今夜は荷を倉庫に入れて、明後日の朝、市の日を迎えられる。
道の先に、人だかりが見えた。
荷馬車や、旅の商人たちが、橋の手前で、立ち往生している。
(嫌な予感がする)
馬車を降りて、人垣を抜けた。
橋は、真ん中が、なかった。
石組みの橋脚が、ひとつ、流されている。そこから、橋の板が、途中で折れて、濁流の中に垂れ下がっていた。
「昨夜の増水で、やられたんだとよ」
隣にいた旅の商人が、肩をすくめた。
「直るのは、早くて十日だ。橋守が、代官に知らせに走ったが、どうだか」
十日。
荷馬車を前に、俺は、しばらく、動けなかった。
(どうする)
胸の中で、さっき、教わったばかりの言葉が、蘇る。
――怖くていいの。ただし、止まっては、いけない。
先輩は、今回は、相談に乗らないと言った。会頭も、失敗の理由だけ聞くと言った。
ここで、考えるのは、俺だ。
まず、選べる道を、並べてみる。
橋が直るのを、待つ。これは、論外だ。十日待てば、市の日はとうに過ぎる。
引き返して、村に荷を預け、一人で帝都に戻る。荷は無事だが、市で売る機会を、失う。
そして、もう一つ。
「あの、上流に、別の橋はありますか」
近くにいた橋守の若者に、尋ねた。
「ある。半日ほど遡った、山沿いの古い橋だ。だが、道が悪い。魔物も、出る」
「馬車は、通れますか」
「通れるが、遅い。夜通し走っても、帝都に着くのは、明後日の朝だ」
(明後日の朝)
市の日の、朝。
間に合うか、間に合わないか、ぎりぎりの線だった。
けれど、可能性は、ゼロではない。
損失も、頭の中で、数えてみた。
市の場所代は、すでに前払いしてある。間に合わなければ、これは戻ってこない。干し柿は日持ちするから、荷が傷む心配は、まだない。けれど、冬支度の客が集まる市の日を逃せば、売れる値は、確実に下がる。
(動かなければ、損が確定する。動けば、損を減らせる可能性が残る)
答えは、決まっていた。
(まだ、残ってる)
どんなに追い詰められても、まだ存在する可能性を、探す。それが、俺のやり方だった。
もう一つ、頭をよぎったことがある。
(川船は、使えないのか)
川沿いの道だ。船を雇えば、橋を迂回して、荷を運べるかもしれない。
けれど、すぐに、打ち消した。
増水した今は、川船は、ほとんど出ていない。出ていたとしても、橋の落ちた区間は、急流だ。それに、三十袋程度の荷のために、船を一艘雇うのは、割に合わない。船は、もっと大量の荷を運ぶためのものだ。
(荷馬車で、行くしかない)
腹を決めて、御者のもとへ戻った。
「上流の橋を、回ります」
「本気か?」
御者は、露骨に、眉を寄せた。
「あっちの道は、きついぞ。しかも、魔物が出る。弱いやつだが、夜は、群れてくる」
「分かっています。追加の賃金は、お支払いします」
「いくら出す」
少し考えて、答えた。
「銀二枚を、上乗せします。それと、飼葉と宿代は、こちらで持ちます」
「……分かった。乗ってやる」
御者は、にやりと笑って、手綱を取り直した。
迂回の経費は、帳面に書き込んだ。
御者の上乗せが、銀二枚。飼葉と、道中の食事で、銀一枚。三枚だ。
預かり金のうち、仕入れに使ったのは、四十五枚。残りは、五十五枚。ここから、必要な分だけを引く。
(使い切るつもりはない。余った分は、返す)
それが、預かった者の務めだと、思っていた。
帳面を閉じると、手のひらに、じわりと汗が滲んでいた。
荷馬車は、川に沿って、上流へ向かった。
道は、すぐに、細くなった。
石がごろごろと転がる山道だ。車輪が、何度も、がたんと跳ねる。荷の紐を確かめながら、俺は、荷台の端に、しがみついていた。
「揺れますね」
「我慢しろ。この先は、もっと、ひどい」
御者の言葉どおり、日が傾くころには、道は、ほとんど獣道になっていた。
夕闇が、谷の底から、のぼってくる。
木々の影が、濃くなる。風が、冷たく、頬を切る。
御者が、ふいに、手綱を引いた。
「止まれ。何か、いるぞ」
茂みが、がさりと揺れた。
低い唸り声。
草むらから、灰色の毛をした、犬ほどの獣が、三匹、姿を現した。
目が、赤く光っている。
(魔物)
背筋が、凍りついた。
けれど、御者は、慌てなかった。腰から短剣を抜いて、ゆっくりと、馬車の前に出る。
「坊主は、荷台にいろ。馬を、落ち着かせてくれ」
「はい」
馬が、怯えて、足を鳴らしている。
俺は、手綱を握り、馬の首に手を当てて、小さく声をかけた。
「大丈夫。大丈夫だから」
その間にも、魔物は、じりじりと間合いを詰めてくる。
一匹が、飛びかかった。
御者の短剣が、閃く。
鈍い悲鳴とともに、魔物が、地面に転がった。残りの二匹が、一瞬、ひるむ。
もう一度、短剣が振るわれる。
二匹は、唸りながら、茂みの奥へ、逃げていった。
御者が、短剣を拭いながら、振り返った。
「ほらな。弱いやつだと、言ったろう」
「すごいですね」
「慣れだ。お前さんも、そのうち、できるようになる」
笑いながら、御者は、御者台に戻った。
荷には、傷ひとつ、ついていない。
念のため、荷台に上がって、袋の口を一つずつ確かめた。紐は緩んでいない。三十袋、すべて無事だった。
(守られた)
自分の力ではなかった。けれど、判断したのは、俺だ。この道を選んだのも、御者に頼んだのも。
そう思うと、胸の奥が、少しだけ、熱くなった。
日が、完全に落ちた。
月明かりだけを頼りに、荷馬車は、闇の中を進む。
「今夜は、野営になりますか」
「そうだな。どこか、開けた場所があれば」
そう言いかけた時、谷の向こうに、小さな光が見えた。
ひとつ、ふたつ。
灯りだ。
「村だ」
御者が、呟いた。
「地図には、載ってなかったが。人が、住んでるらしい」
俺は、荷馬車の上で、立ち上がった。
暗闇の中に、ぽつぽつと灯る、小さな明かり。
それは、この迂回が、ただの遠回りで終わらないかもしれないという、かすかな予感だった。




