第2話「帝都への旅」
乗合馬車は、朝の鐘が鳴りきる前に、スイーズの町を出た。
荷台に張られた幌の隙間から、見慣れた城門がゆっくり遠ざかっていく。鞄を膝に抱えて座り直すと、留め金は、ちゃんと最後までかかっていた。
(……昨日、直しといて良かった)
そんなことを思ってから、慌てて頭を振る。感傷は、町の外に置いてきたことにした。
乗客は俺を入れて六人。向かいには、大きな背負い籠を抱えた老婦人と、その隣で居眠りをしている小さな男の子。斜め前には、革の外套を着た、四十過ぎくらいの男が座っていた。日に焼けた顔で、荷物は使い込んだ大きな背負い袋がひとつ。
男は馬車が動き出すと、指先に小さな火をともして、パイプに火を移した。老婦人に「坊やがいるんだよ」と睨まれて、慌てて消している。
「お兄ちゃん、帝都かい?」
老婦人が、俺に話しかけてきた。
「はい。商会の見習いに行きます」
「まあ、立派だねえ。いくつだい?」
「十五です」
「十五で帝都かい。うちの孫なんて、まだ畑の虫を追いかけてるよ」
老婦人は、からからと笑った。男の子が目を覚まし、俺を不思議そうに見上げる。俺は鞄からパンの端を出して、半分に割って渡した。
そんな調子で、馬車は昼までに三つの村を越えた。
街道は、思っていたよりずっと広い。荷車とすれ違うたびに、御者が短く声を掛け合う。道端には、水を汲むための小さな石の枡があり、通りがかった旅人が、生活魔法で水を出して桶を満たしていた。俺の故郷でも見慣れた光景だ。
だが、荷車の数が違った。
スイーズでは、市の日でもなければ、荷車は一日に十台も通らない。ここでは、目の前を三台、四台と続けて通り過ぎていく。積み荷は、麦の袋、木箱、樽、布の束。どれも、町の外へ、町の中へと、絶え間なく流れていた。
(みんな、どこへ運んでるんだろう)
ぼんやり眺めているうちに、日が傾いてきた。
馬車が止まったのは、街道沿いの宿場町だった。
宿の前では、荷を下ろした馬車が並び、旅人が食事の場所を探して行き交っている。俺は宿の主人に部屋を頼み、少しだけ時間があったので、通りを歩いてみることにした。
屋台が、いくつも並んでいた。
焼き串の匂い。香草の匂い。干し魚の匂い。そして、店先の値札。
俺は、無意識のうちに、それを目で追っていた。
麦粉の袋。故郷より、少し安い。
干し果物。ほとんど同じ。
油。ちょっと高い。
そして、塩だ。
店先に置かれた塩の袋に、値札がついていた。故郷の市で買う塩の、倍近い。
「……高いな」
思わず声に出ていた。
「そりゃあ高いさ」
背後から、声が返ってきた。
振り返ると、馬車で一緒だった革外套の男が、串焼きを片手に立っていた。
「あ、さっきの」
「お前さん、馬車で外ばっかり眺めてた坊主だろ。何に気づいたんだ?」
男は、面白がるような目で俺を見ていた。誤魔化しても仕方ないので、正直に答える。
「塩が、故郷の倍近いなって。麦粉は逆に、うちより安いんです」
「ほう」
「同じ道の上なのに、変だと思って。荷車は、ずっと麦を運んでいました。塩を運ぶ荷車は、一台も見ていません」
男は串を噛んだまま、片方の眉を上げた。
「続けな」
俺は、頭の中で今日見たものを並べ直した。
「この辺りは、麦を作る土地なんだと思います。麦が余っているから安い。でも塩は、この辺りでは採れないから、どこかから運んでこなきゃいけない。運ぶのに手間がかかる。だから高い」
「まあ、そんなところだな」
「それと、街道の途中に、通行料を取る橋が二つありました。塩はそこを通るたびに、少しずつ値が乗っていくんじゃないでしょうか」
男の口元が、にやりと持ち上がった。
「橋に気づいたか。大抵の奴は、麦だ塩だと言うだけで、橋までは見ねえ」
嬉しくなって、俺は思いついたことを、そのまま口にした。
「それなら、逆もあるはずです。故郷では、塩が安くて麦粉が高い。ここでは、塩が高くて麦が安い。だったら、塩をここまで運んで、麦粉を故郷まで持って帰れば」
「行きも帰りも、儲かる」
男が、俺の言葉を引き取った。
「――ってことに、気づいたわけだ。十五で」
「あ、いえ。誰でも考えることだと思いますけど」
「誰でも考えるが、誰もやらねえのさ。面倒だからな」
男は串の残りを飲み込むと、背負い袋を軽く叩いてみせた。
「俺は、それを二十年やってる」
「行商、なんですか」
「そういうこった。塩を積んでは麦を運び、布を積んでは油を運び。街道の値段は、全部頭に入ってる」
男は、宿場町の通りを見回した。
「いいか、坊主。商売ってのはな、突き詰めりゃ『運ぶだけで、値が変わる』ってことよ。同じ塩が、あっちでは銅貨一枚、こっちでは二枚になる。品物は何も変わっちゃいねえ。変わるのは、場所だけだ」
その言葉が、頭の奥にすとんと落ちてきた。
運ぶだけで、値が変わる。
(場所が変わると、値段が変わる……)
昨日、ふと浮かんだ景色を思い出した。遠くの誰かが作ったものが、遠くの誰かの手に届く。その間に、いくつもの手がある。
ここにも、同じ光景があった。
「あの、ひとつ聞いてもいいですか」
「おう」
「行商って、儲かりますか」
「儲かる時もあれば、橋が落ちて丸損する時もある」
男は笑って、串の棒を道端の屑籠に放った。
「だが、面白いぞ。知らねえ土地に行って、知らねえ品を見て、知らねえ値段を知る。そういう商売だ」
胸の奥が、どくんと鳴った。
知らない土地。知らない品。知らない値段。
それは、俺が学院の授業で、何度も本の中で読んできた言葉だった。けれど、こうして本物の商人の口から聞くと、まるで違って聞こえた。
「帝都の大商会に入るんだろ。あそこは、こういう街道の値段を全部束ねて動かしてる連中の巣だ。せいぜい、しっかり見てこい」
「はい」
「おっと、そろそろ飯の時間だ。じゃあな、坊主」
男は手をひらひらと振って、宿のほうへ歩いていった。名前は、結局聞きそびれた。
その夜は、宿の硬い寝台で、なかなか眠れなかった。
天井の隅では、魔道具の小さな灯りが、ゆっくり瞬いている。
俺は、鞄から手帳を取り出して、今日見た値段を、思い出せる限り書き留めた。塩、麦粉、油、干し果物。宿場町での値段と、故郷での値段。橋の数。荷車の向き。
書いているうちに、瞼が重くなった。
翌日も、その翌日も、馬車は街道を進んだ。
畑の間を抜け、川を渡り、峠を越えた。景色は少しずつ変わり、荷車の数はどんどん増えていく。三つ目の宿場町では、見たことのない形の壺が、屋台の隅で売られていた。
すれ違う荷車の積み荷も、同じ塩、同じ麦なのに、値札の数字が、町ごとに違った。
(こんなに違うんだ)
俺は、馬車の窓から身を乗り出して、道の先を見つめ続けた。
三日目の昼。
丘を越えたところで、馬車が速度を落とした。同乗の客たちが、次々に窓のほうへ身を寄せる。
「見えたよ、お兄ちゃん」
老婦人が、指をさした。
丘の向こう、緩やかな平原の果てに、白い線が見えた。
線は、遠すぎて、最初は雲か何かのように思えた。けれど、馬車が進むにつれて、それは少しずつ形を持ち始めた。
高い。長い。
石を積み上げた、巨大な壁だった。空の端から端まで、視界を塞ぐように続いている。その向こうに、ぽつりぽつりと、塔の先が覗いていた。
サンマルク帝国の帝都。
俺は、思わず息を止めていた。
あの壁の向こうに、故郷の何倍もの市場がある。俺が見たことのない品が、聞いたことのない値で売られている。
手帳を握る手に、力が入った。
「……行くぞ」
誰にも聞こえない声で、俺は呟いた。
馬車は、城壁に向かって、まっすぐに進んでいった。




