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大商人の軌跡  作者: なるみくん
序章
1/66

第1話「卒業の日」

卒業式は、思っていたよりあっさり終わった。


学院長の長い話を聞き、名前を呼ばれて証書を受け取り、最後に全員で校歌を歌う。それだけだ。三年間通った講堂の天井では、魔道具の白い灯りが、いつもと同じ顔でぼんやり光っていた。


「アッシュ、お前どこ行くんだっけ? 帝都?」

「ああ。商会の見習い」

「うわ、本当に行くのかよ。手紙書けよな!」

「書くって。お前も返事ぐらいよこせよ」


同級生たちに肩を叩かれ、背中を叩かれ、腕を引っ張られ、俺はなんとか輪の外へ抜け出した。中庭では、白い花をつけた並木が風に揺れている。花びらが石畳に落ちて、春の道を作っていた。


俺の足は、自然と裏庭のほうへ向かった。


三年間、何度も通った場所だ。校舎の陰になった古いベンチが、そこにある。


案の定、先客がいた。


「遅い」


ヒルデは膝の上に書類の束を載せたまま、顔も上げずに言った。栗色の髪をきっちり後ろでまとめ、背筋をぴんと伸ばして座っている。卒業式の日でも、この人の姿勢は変わらない。


「まだ何も言ってないだろ」

「顔に書いてあるわ。『みんなに捕まってました』って」


図星だった。俺は苦笑いして、ベンチの端に腰を下ろす。


「それ、何やってんだ? 今日くらい休めよ」

「教官に頼まれたの。卒業生の進路先一覧の、最後の照合」

「頼まれたって、お前もう卒業生だろ」

「頼まれたのよ。私が一番正確だからって」


ヒルデは誇らしさを隠しきれない口調で言って、ペンの先で書類をとんと叩いた。この三年間、算術の試験で俺と一位を競い続けてきた相手だ。正確さで勝てたことは、たぶん一度もない。


紙の端に、彼女の指が止まる。


「アッシュ・帝都、大商会の見習い。私・故郷の商業ギルド」


自分で読み上げて、ヒルデは小さく息をついた。


「本当に、別々なのね」

「今さらだろ。ずっと前から決まってた」

「分かってるわよ」


強めの声だった。それきり、二人とも黙る。


風が吹いて、白い花びらが一枚、書類の上に落ちた。ヒルデはそれを指先でつまんで、しばらく眺めてから、そっと地面に落とした。


十二歳の春、俺たちは同じ教室に座った。


隣の席になったのは、ただの偶然だ。けれど算術の時間に、俺が先に答えを出したとき、ヒルデは露骨に顔をしかめた。次の日には、彼女が先に答えた。その次の日は俺。そんな張り合いが、いつの間にか三年になった。


図書室で同じ本を取り合ったこともある。課題の集計を二人で徹夜で仕上げたこともある。ヒルデが熱を出した日、俺は学院を抜け出して、市場で一番甘い果物を探し回った。あれは、後でこっぴどく怒られた。


好きだとか、付き合おうだとか、そういう言葉は、お互い一度も口にしていない。


言わなくても分かっていた。たぶん、向こうも同じだった。


だからこそ、言えなかったのだ。言ってしまえば、その先の約束が要る。三年後か、五年後か。いつ、どこで会うのか。そんな約束を、守れる自信が、俺にはなかった。


たぶんヒルデにも、なかったのだと思う。


「向こうの朝の鐘で出る乗合馬車、乗り遅れたら次は三日後よ」

「知ってる」

「通行証の写しは持った?」

「持った」

「嘘」


ヒルデは俺の鞄を指さした。


「留め金が半分外れてる。そのままだと、途中で荷物が全部落ちるわ」

「え」


慌てて確認すると、確かに留め金がずれていた。ヒルデは、やれやれと言いたげに眉を上げる。


「三年間、何を見て暮らしてきたのよ」

「お前の隣の席の背中」

「……馬鹿」


ヒルデはそっぽを向いた。耳の先が、少しだけ赤い。


俺は鞄の留め金を直しながら、笑った。笑わないと、何か余計なことを言ってしまいそうだった。


「じゃあ、そろそろ行く」


立ち上がると、ヒルデも書類を抱えて立ち上がった。目線がほぼ同じ高さになる。学院に入った頃は、彼女のほうが頭ひとつ高かったのに、いつの間にか、俺が追い越していた。


「……アッシュ」

「うん」

「じっとして」


ヒルデが一歩近づいた。


何をされるのか分からず固まっていると、彼女の指が、俺の襟元に伸びた。卒業式のために慌てて着たシャツの襟は、片方が中に折れ込んでいたらしい。ヒルデは無言でそれを引き出し、形を整え、指先に小さな生活魔法の光をともして、皺をすっと伸ばした。


近い。石けんの匂いがした。


「だらしないまま行かないで」


ヒルデの視線は、俺の襟元に落ちたままだった。


「恥をかくのは私じゃなくて、あなたよ」


素直じゃない言葉だ。けれど声は、ほんの少しだけ震えていた。


胸の奥で、何かが強く鳴った。


言えたのだと思う。今なら、何か。「待っててくれ」でも、「会いに来る」でも。


でも、口から出たのは、たったの一言だった。


「元気でな」


ヒルデの指が、襟から離れた。


顔を上げた彼女は、いつもの、少し気の強い顔をしていた。プライドの高い、優秀な、俺の一番のライバルの顔だ。


「あなたもね」


それだけ言って、ヒルデは書類を抱え直し、校舎のほうへ歩き出した。一度も振り返らなかった。


背筋の伸びた後ろ姿が、角を曲がって見えなくなる。


しばらく、その場に立っていた。


やがて俺は鞄を肩にかけ、反対側へ歩き出した。


校門を出て、坂道を下る。スイーズの町並みが、春の光の中に広がっていた。市場の屋台には、朝から荷が並び、客と店主の声が飛び交っている。見慣れた景色だ。三年間、毎日見てきた景色だ。


なのに、今日はなぜか、遠く見えた。


ふと、頭の奥に、別の景色が浮かんだ。


高い、高い建物が、空を埋めるように並んでいる。夜なのに、道は昼のように明るい。見たこともない乗り物が、音もなく道を流れていく。人が、数え切れないほど歩いている。


そして、その人波の向こうに、店があった。


棚に、商品が並んでいる。誰かが手に取って、誰かが金を払う。ただそれだけの光景なのに、不思議と目が離せなかった。


遠くの誰かが作ったものが、遠くの誰かの手に届く。


その間に、たくさんの人がいて、商品が繋いでいる。


(……また、これか)


時々、こういうことがある。見たこともないはずの街が、ふっと頭に浮かぶ。理由は分からない。誰にも話したことはない。


ただ、その景色を思い出すたびに、決まって同じ感覚が胸に残る。


――知らない場所には、知らない市場がある。


足が、勝手に速くなっていた。


帝都には、この町の何倍もの市場がある。俺が見たことのない品が、聞いたことのない値で売られているはずだ。


寂しさは、確かにあった。襟元には、まだヒルデの指の温もりが残っている気がした。


けれど、それ以上に、胸が騒いでいた。


俺は振り返らずに、坂を下りきった。


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