第1話「卒業の日」
卒業式は、思っていたよりあっさり終わった。
学院長の長い話を聞き、名前を呼ばれて証書を受け取り、最後に全員で校歌を歌う。それだけだ。三年間通った講堂の天井では、魔道具の白い灯りが、いつもと同じ顔でぼんやり光っていた。
「アッシュ、お前どこ行くんだっけ? 帝都?」
「ああ。商会の見習い」
「うわ、本当に行くのかよ。手紙書けよな!」
「書くって。お前も返事ぐらいよこせよ」
同級生たちに肩を叩かれ、背中を叩かれ、腕を引っ張られ、俺はなんとか輪の外へ抜け出した。中庭では、白い花をつけた並木が風に揺れている。花びらが石畳に落ちて、春の道を作っていた。
俺の足は、自然と裏庭のほうへ向かった。
三年間、何度も通った場所だ。校舎の陰になった古いベンチが、そこにある。
案の定、先客がいた。
「遅い」
ヒルデは膝の上に書類の束を載せたまま、顔も上げずに言った。栗色の髪をきっちり後ろでまとめ、背筋をぴんと伸ばして座っている。卒業式の日でも、この人の姿勢は変わらない。
「まだ何も言ってないだろ」
「顔に書いてあるわ。『みんなに捕まってました』って」
図星だった。俺は苦笑いして、ベンチの端に腰を下ろす。
「それ、何やってんだ? 今日くらい休めよ」
「教官に頼まれたの。卒業生の進路先一覧の、最後の照合」
「頼まれたって、お前もう卒業生だろ」
「頼まれたのよ。私が一番正確だからって」
ヒルデは誇らしさを隠しきれない口調で言って、ペンの先で書類をとんと叩いた。この三年間、算術の試験で俺と一位を競い続けてきた相手だ。正確さで勝てたことは、たぶん一度もない。
紙の端に、彼女の指が止まる。
「アッシュ・帝都、大商会の見習い。私・故郷の商業ギルド」
自分で読み上げて、ヒルデは小さく息をついた。
「本当に、別々なのね」
「今さらだろ。ずっと前から決まってた」
「分かってるわよ」
強めの声だった。それきり、二人とも黙る。
風が吹いて、白い花びらが一枚、書類の上に落ちた。ヒルデはそれを指先でつまんで、しばらく眺めてから、そっと地面に落とした。
十二歳の春、俺たちは同じ教室に座った。
隣の席になったのは、ただの偶然だ。けれど算術の時間に、俺が先に答えを出したとき、ヒルデは露骨に顔をしかめた。次の日には、彼女が先に答えた。その次の日は俺。そんな張り合いが、いつの間にか三年になった。
図書室で同じ本を取り合ったこともある。課題の集計を二人で徹夜で仕上げたこともある。ヒルデが熱を出した日、俺は学院を抜け出して、市場で一番甘い果物を探し回った。あれは、後でこっぴどく怒られた。
好きだとか、付き合おうだとか、そういう言葉は、お互い一度も口にしていない。
言わなくても分かっていた。たぶん、向こうも同じだった。
だからこそ、言えなかったのだ。言ってしまえば、その先の約束が要る。三年後か、五年後か。いつ、どこで会うのか。そんな約束を、守れる自信が、俺にはなかった。
たぶんヒルデにも、なかったのだと思う。
「向こうの朝の鐘で出る乗合馬車、乗り遅れたら次は三日後よ」
「知ってる」
「通行証の写しは持った?」
「持った」
「嘘」
ヒルデは俺の鞄を指さした。
「留め金が半分外れてる。そのままだと、途中で荷物が全部落ちるわ」
「え」
慌てて確認すると、確かに留め金がずれていた。ヒルデは、やれやれと言いたげに眉を上げる。
「三年間、何を見て暮らしてきたのよ」
「お前の隣の席の背中」
「……馬鹿」
ヒルデはそっぽを向いた。耳の先が、少しだけ赤い。
俺は鞄の留め金を直しながら、笑った。笑わないと、何か余計なことを言ってしまいそうだった。
「じゃあ、そろそろ行く」
立ち上がると、ヒルデも書類を抱えて立ち上がった。目線がほぼ同じ高さになる。学院に入った頃は、彼女のほうが頭ひとつ高かったのに、いつの間にか、俺が追い越していた。
「……アッシュ」
「うん」
「じっとして」
ヒルデが一歩近づいた。
何をされるのか分からず固まっていると、彼女の指が、俺の襟元に伸びた。卒業式のために慌てて着たシャツの襟は、片方が中に折れ込んでいたらしい。ヒルデは無言でそれを引き出し、形を整え、指先に小さな生活魔法の光をともして、皺をすっと伸ばした。
近い。石けんの匂いがした。
「だらしないまま行かないで」
ヒルデの視線は、俺の襟元に落ちたままだった。
「恥をかくのは私じゃなくて、あなたよ」
素直じゃない言葉だ。けれど声は、ほんの少しだけ震えていた。
胸の奥で、何かが強く鳴った。
言えたのだと思う。今なら、何か。「待っててくれ」でも、「会いに来る」でも。
でも、口から出たのは、たったの一言だった。
「元気でな」
ヒルデの指が、襟から離れた。
顔を上げた彼女は、いつもの、少し気の強い顔をしていた。プライドの高い、優秀な、俺の一番のライバルの顔だ。
「あなたもね」
それだけ言って、ヒルデは書類を抱え直し、校舎のほうへ歩き出した。一度も振り返らなかった。
背筋の伸びた後ろ姿が、角を曲がって見えなくなる。
しばらく、その場に立っていた。
やがて俺は鞄を肩にかけ、反対側へ歩き出した。
校門を出て、坂道を下る。スイーズの町並みが、春の光の中に広がっていた。市場の屋台には、朝から荷が並び、客と店主の声が飛び交っている。見慣れた景色だ。三年間、毎日見てきた景色だ。
なのに、今日はなぜか、遠く見えた。
ふと、頭の奥に、別の景色が浮かんだ。
高い、高い建物が、空を埋めるように並んでいる。夜なのに、道は昼のように明るい。見たこともない乗り物が、音もなく道を流れていく。人が、数え切れないほど歩いている。
そして、その人波の向こうに、店があった。
棚に、商品が並んでいる。誰かが手に取って、誰かが金を払う。ただそれだけの光景なのに、不思議と目が離せなかった。
遠くの誰かが作ったものが、遠くの誰かの手に届く。
その間に、たくさんの人がいて、商品が繋いでいる。
(……また、これか)
時々、こういうことがある。見たこともないはずの街が、ふっと頭に浮かぶ。理由は分からない。誰にも話したことはない。
ただ、その景色を思い出すたびに、決まって同じ感覚が胸に残る。
――知らない場所には、知らない市場がある。
足が、勝手に速くなっていた。
帝都には、この町の何倍もの市場がある。俺が見たことのない品が、聞いたことのない値で売られているはずだ。
寂しさは、確かにあった。襟元には、まだヒルデの指の温もりが残っている気がした。
けれど、それ以上に、胸が騒いでいた。
俺は振り返らずに、坂を下りきった。




