第19話「交際期の日常」
第19話「交際期の日常」
「アッシュ、今日は早く上がっていいぞ」
昼過ぎ、ダグが、帳面から顔も上げずに言った。
「え、まだ荷が残ってますけど」
「残りは俺がやる。今日は、秋の祭りだろうが」
そう言われて、はっと思い出した。
そういえば、朝から通りが、やけに騒がしかった。
「それにな」
ダグは、ようやく顔を上げて、にやりと笑った。
「待たせる相手が、いるんだろう?」
「……ダグさん」
「ほら、さっさと行け。先輩は、もう着替えに帰ったぞ」
追い立てられるようにして、俺は倉庫を飛び出した。
待ち合わせは、中央広場の噴水の前だった。
祭りの日の帝都は、いつもと、まるで違う顔をしていた。
通りの端から端まで、色とりどりの布が張られ、露店がずらりと並んでいる。焼いた肉の匂い、甘い蜜の匂い、揚げ菓子の油の匂い。子どもたちが、指先に小さな火を灯しては、笑いながら走り回っていた。
(人が、多いな)
噴水の縁に腰かけて、先輩を待つ。
見慣れた仕事着ではなく、淡い色の外出着で来るのだろうか。そんなことを考えていたら、背中を、とんと叩かれた。
「お待たせ、アッシュくん」
振り返って、言葉を失った。
淡い緑の服を着て、髪を、いつもより少し高い位置で結んだ先輩が、立っていた。
「ど、どうしたの。変かな」
「いえ、全然。その」
(やばい)
自分でも、顔が熱くなるのが分かった。
「……きれいです」
やっと、それだけ言えた。
先輩は、一瞬、目を丸くして、それから、ふわりと笑った。
「ありがとう。アッシュくんも、今日は、ちゃんとしてるね」
「普段は、ちゃんとしてないみたいじゃないですか」
「ふふ、ちょっとだけね」
並んで、人混みの中へ入っていく。
先輩が、さりげなく、俺の袖をつまんだ。
「はぐれないように」
「……はい」
手をつなぐのは、人の少ない路地に入ってからだ。そういう決まりを、二人とも、いつの間にか、守っていた。だから、これが、人前でできる精一杯だった。
最初に、串焼きの屋台に、足が止まった。
「これ、おいしそう」
「買いましょう」
二本買って、並んで歩きながら食べる。熱くて、脂がじゅわりと広がって、口の中が、一気に幸せになった。
「おいしいね」
「はい」
「アッシュくん、ほっぺにタレが付いてる」
「え、どこですか」
「そこじゃなくて、こっち」
先輩が、指先で、そっと拭ってくれた。
俺は、固まったまま、串を握りしめていた。
「……自分で拭けます」
「知ってる。でも、拭きたかったの」
さらりと言われて、さらに、何も言えなくなった。
(この人には、かなわない)
揚げ菓子、蜂蜜入りの果実水、串に刺した干し果物。二人で、半分ずつ分けながら、露店をはしごした。
「あ、これ」
先輩が、小さな店の前で、足を止めた。
並んでいたのは、硝子の細工物だった。小さな鳥、花、星。掌に載るほどの大きさで、光に透けて、きらきらと輝いている。
「きれい」
「欲しいですか」
「ううん、見てるだけでいいの。でも、きれいだな、って」
先輩は、そう言って、通り過ぎようとした。
俺は、その店の、隅に置かれていた、小さな鈴に目を留めた。
硝子でできた、親指ほどの鈴。振ると、澄んだ音がした。
(白い器の音に、似てる)
「すみません、これ、いくらですか」
「銀貨二枚だよ、兄さん」
懐を探る。ちょうど、給金から、少しだけ貯めていた分があった。
「ください」
包みを受け取って、先輩の後を、急いで追いかけた。
日が暮れる頃、広場の中央に、大勢の人が集まり始めた。
「あ、始まるよ」
「何が、ですか」
「灯り合わせ。毎年、祭りの最後にやるの」
広場を埋め尽くした人々が、一斉に、手をかざした。
そして、指先に、光を灯す。
一つ、また一つ。
最初は、ぽつぽつと。やがて、広場全体が、無数の小さな光で、満たされていった。大人も、子どもも、老人も。みんなが、自分の指先に、それぞれの光を灯している。
大きな光も、小さな光も、一つひとつ、違う色で揺れていた。
「……きれいですね」
「うん」
先輩が、そっと、俺の隣に寄り添った。
人混みの陰に隠れて、指先が、触れ合う。先輩が、俺の手を、ぎゅっと握った。
(今だけは、いいか)
俺は、握り返した。
そして、空いた方の手で、先輩と同じように、指先に、光を灯した。
小さな、頼りない光だった。けれど、周りの光と混ざって、広場の一部になっていた。
広場を、ゆっくり離れる頃には、人の波も、少し落ち着いていた。
路地に入ったところで、俺は、足を止めた。
「先輩。これ」
さっきの包みを、差し出した。
「え、これ」
「さっき、お店で見つけて。大したものじゃないんですが」
先輩が、包みを開いた。
硝子の鈴が、掌の上で、小さく鳴った。
「……鈴」
「音が、きれいだったので。仕事鞄にでも、付けてください」
先輩は、しばらく、黙って、鈴を見つめていた。
それから、ゆっくり顔を上げた。
その目が、少し、潤んでいるように見えた。
「ありがとう。大事にするね」
先輩は、鈴を胸に抱くようにして、微笑んだ。
「実はね、私からも、あるの」
先輩が、鞄から、小さな包みを取り出した。
「開けてみて」
中に入っていたのは、革の筆入れだった。
使い込まれた雰囲気の、柔らかい革に、金具が付いている。端に、小さく、俺の頭文字が刻まれていた。
「仕事で、いつも羽根ペンを、ポケットに突っ込んでるでしょう。折れちゃうから」
「……いつの間に」
「ずっと、前から、考えてたの。やっと、渡せた」
胸が、じんわりと熱くなった。
「ありがとうございます。大事に、使います」
「うん。使ってね」
先輩は、嬉しそうに、鈴を指で弾いた。
澄んだ音が、夜の路地に、小さく響いた。
帰り道、広場の方から、まだ、笑い声が聞こえてきた。
先輩の歩幅に合わせて、ゆっくり歩く。手は、しっかりと繋いだままだった。
「祭り、楽しかったね」
「はい。すごく」
「ねえ、アッシュくん」
先輩は、足を止めて、広場の方を振り返った。
遠くで、まだ、無数の光が、きらきらと瞬いていた。
「来年の祭りも、また来たいね」
その横顔が、あまりにも自然で、あまりにも、幸せそうだった。
「来ましょう」
俺は、迷わず、答えた。
「来年も、再来年も」
先輩は、少し驚いたように、俺を見て、それから、静かに頷いた。
繋いだ手の中で、鈴が、小さく、鳴った。




