第18話「情報も商品」
第18話「情報も商品」
「ねえ、アッシュくん。今朝、何か変わったことはなかった?」
倉庫の入り口で、先輩に、そう聞かれた。
「変わったこと、ですか。いえ、特には」
「そっか。じゃあ、これ、見て」
先輩は、懐から小さな紙片を取り出した。会頭の筆跡で、一行だけ、書いてある。
『北の街道沿い、二つの村で麦が不作』
「昨夜、会頭が、旅の商人から聞いた話だって」
「不作、ですか」
「そう。さて、問題です。この一行の値段は、いくらでしょう」
また、出題だった。
俺は、紙片を見つめて、考えた。
麦が不作なら、麦の値段は上がる。上がる前に買っておけば、儲かる。逆に、すでに麦を抱えている商人は、売り惜しむだろう。
「……今日の昼までなら、大きいと思います。でも、明日になれば、他の商人も知るから」
「どうして?」
「噂は、広まるのが早いので。みんなが知れば、値段に、もう織り込まれてしまいます」
「うん、その通り」
先輩は、満足そうに頷いた。
「情報には、鮮度があるの。同じ話でも、誰より早く知るか、遅く知るかで、価値がまるで違う」
「卵みたいですね」
「ふふ、そうかも」
先輩の笑顔に、少し気が緩んだ。
「でも、ね」
先輩は、そこで声を落とした。
「速いだけじゃ、足りないの。もう一つ、大事なものがあるんだけど、分かる?」
俺は、しばらく考えた。
噂は、速い。けれど、噂には、嘘も混じる。
「……誰から聞いた話か、ですか」
「そう。出所」
先輩は、紙片を、指でとんとんと叩いた。
「会頭が、これを信じたのは、話してくれた旅商人を、長く知っているから。何度も、確かな話をくれた人だったの」
「同じ話でも、信用できる人から聞いたなら、動ける」
「そう。逆に、誰が言ったか分からない噂で、大金を動かしたら」
「危ない、ですね」
「危ないよ。だから、商人は、情報を集めるのと同じくらい、情報をくれる人との関係を、大事にする」
(情報も、商品なんだ)
仕入れる物。運ぶ物。売る物。情報も、その一つだった。
そして、仕入れる相手によって、値打ちが変わる。
その日の昼、ダグが、倉庫で愚痴をこぼしていた。
「くそ、ハーゲン商会の連中、また先に動きやがった」
「どうしたんですか」
「麦だ。北の不作の話、もう、あっちには回ってたらしい。昼前に、買い付けの馬が出てったとよ」
先輩の言った通りだった。
(速さが、全部じゃない。でも、遅れれば、その分だけ取られる)
ハーゲン商会といえば、確か、同年代の見習いが、何人かいたはずだ。いずれ、会う機会もあるかもしれない。
そんなことを、ぼんやり考えながら、俺は午後の仕事に戻った。
夕方。
先輩と、いつものように、遠回りで帰り道を歩いた。
今日の話が、頭から離れない。
「アッシュくん、さっきから、ずっと考え込んでるね」
「あ、はい。情報の話を」
「うん」
「商人にとって、一番値打ちのある情報って、何なんでしょうね」
先輩は、少し首をかしげた。
「アッシュくんは、どう思う?」
「……仕入れ先、じゃないでしょうか」
口にしてから、自分でも、腑に落ちた。
何を、どこから、いくらで仕入れるか。それが分かれば、同じ商売が、誰にでもできる。逆に言えば、それを知っている人は、他の人にはできない商売ができる。
「いい線いってるね」
先輩は、にこりと笑った。
通りの端に、あの露店が見えた。
木箱を並べた、小さな店。ぼんやりした目の露天商が、片肘をついて、通りを眺めている。
「あ、今日もいる」
「寄っていきますか」
「うん」
「いらっしゃい。お、今日も二人揃ってか」
露天商は、手をひらひらと振った。
棚には、いつもの傷物が並んでいる。縁の欠けた皿、角の潰れた箱、布に染みのついた包み。
その一つ一つを、眺めながら、俺は考えていた。
(この人は、どこから、これを仕入れているんだろう)
さっき、先輩と話したばかりだ。仕入れ先は、一番大事な情報。
聞きたい。
口が、勝手に動いた。
「あの」
「ん?」
「この品は、どちらから――」
そこまで言って、言葉が止まった。
露天商の目が、こちらを、じっと見ていた。
ぼんやりした目つきではない。穏やかだけれど、はっきりと、俺の次の言葉を待っている目だった。
(これは)
さっき、先輩に教わったことを、思い出した。
情報をくれる人との関係を、大事にする。出所を、大切にする。
仕入れ先は、この人にとって、命綱のはずだ。それを、見ず知らずに近い俺が、軽々しく聞いていいはずがない。
「……いえ、すみません。何でもありません。この皿、いい色ですね」
そう言い直すと、露天商は、ふっと口の端を上げた。
「聞きかけて、やめたな」
「え」
「いい勘してる。ま、そのうち、店でも持ったら、教えてやるよ」
冗談めかして、軽く笑った。
(社交辞令だ)
分かっている。本気で言っているわけではない。けれど、その一言が、なぜか、心地よかった。
商人同士の、距離感。
聞かないことが、礼儀になる。
「その代わりと言っちゃなんだが」
露天商は、声を少し落とした。
「川下の荷が、今日は遅れてるらしいぜ。明日の朝には、市場の野菜が、少し高くなるかもな」
「川下の荷が」
「ああ。知らなきゃ、損もしねえ。知ってりゃ、ちょっとだけ得する話だ」
差し出された、小さな情報。
俺は、少し考えて、頭を下げた。
「ありがとうございます。それなら、こちらからも」
倉庫で聞いた話を、思い出す。
「北の街道沿いで、麦が不作だと聞きました。ただ、もうだいぶ広まってるみたいなので、今さらかもしれません」
「へえ。そいつは、知らなかった」
露天商は、目を丸くして、それから、にっと笑った。
「ま、いい取引だな」
帰り道、先輩が、くすくすと笑っていた。
「どうしたんですか」
「ううん。アッシュくん、聞きかけてやめたでしょう。あれ、いい判断だったなって」
「危なかったです。聞いていたら、きっと、嫌な顔をされていました」
「されなかったと思うよ。でもね」
先輩は、俺の手に、指を絡めた。
「聞かないで、代わりに自分の持ってる情報を渡した。それが、できる人は、信用されるの」
(情報は、集めるものじゃなくて、渡し合うものか)
商売の奥にあるものが、また、一つだけ、見えた気がした。




