第16話「遠い国の商品」
第16話「遠い国の商品」
白い帆が、見えた。
一枚や二枚ではない。何枚も、何枚も、重なるように張られている。大きな船だった。それが石組みの岸壁に、太い綱で繋がれていた。
風は、ない。帆は静かに垂れていて、黒い船体の影だけが、水面に長く伸びている。
帆柱が何本あるのか、数えようとしたところで、景色は端から溶けていった。
目を開けると、見慣れた天井の梁があった。
窓の外は、ようやく白み始めたところだ。
(変な夢だったな)
河港で見たばかりの船が、頭に残っていたのだろう。あの老人の話のせいかもしれない。
寝台から起き上がり、洗面桶の上に指をかざす。指先から水が落ちて、桶の底をうっすらと濡らした。顔を洗うには、十分な量だ。冷たい水で顔を叩くと、夢の輪郭は、すっかり消えてしまった。
その日の第二倉庫店は、朝から箱の山だった。
「おい、アッシュ。そっちの木箱、開けてくれ」
ダグが、顎で奥の箱を示した。
「釘は抜いてやったから、中身は丁寧に出せよ。割れ物だ。割ったら、お前の給金から引くからな」
「脅さないでくださいよ」
「脅しじゃねえ、本気だ」
口は悪いが、手つきは慎重な男だ。俺は蓋を持ち上げて、藁をかき分けた。
中から出てきたのは、白い器だった。
薄い。手のひらに載せると、驚くほど軽い。縁を指で軽く弾いてみると、澄んだ、鈴のような音がした。
(これだ)
老人の話が、頭に蘇る。薄くて、指で弾くと鈴の音がする、白い器。
「ダグさん。これ、海の向こうの品ですか」
「会頭が、少しだけ仕入れたらしい。どこの国のもんかは、俺も知らん。ただな」
ダグは、帳面をぱらぱらとめくって、俺に見せた。
「品代より、運賃のほうが高くついてる。割れた分の見込みも、乗ってるはずだ」
俺は、数字をじっと見つめた。
昼過ぎ、先輩が、倉庫に顔を出した。
「ただいま。会議、やっと終わったよ。あ、届いたんだね」
「おかえりなさい、先輩」
先輩は、積まれた藁と器を見て、にこりと笑った。
「ねえ、アッシュくん。それ、いくらで売れると思う?」
いきなりの出題だった。先輩は、こういうことを、よくやる。
俺は、白い器を手に取って、少し考えた。この国の陶器と比べたら、同じ大きさで、五倍はするだろうか。
「五倍、くらいですか」
「帳面を見てごらん」
ページをめくると、そこには、俺の予想の倍近い数字が並んでいた。
「産地では、この十分の一ほどの値段だったらしいよ。それが、ここに着くまでに膨らむの」
「運賃、ですよね」
「運賃もある。でも、それだけじゃないよ。分けて考えてみて」
先輩は、羽根ペンを俺に渡した。
紙の端に、書き出していく。品物そのものの代金。船賃。積み替えの手間賃。割れた時のための、見込み。嵐で荷を捨てる時のための、見込み。そして、金が戻るまで、待つ時間。
「……危険の分も、値段に入ってるんですね」
「そう。ちゃんと着くかどうか分からないものを運ぶ人には、その分の報酬が要るでしょう」
あの老人の、欠けた指が、頭に浮かんだ。
荷は、金に換えられる。人は、換えられない。だから、命を賭ける人の分も、値に乗る。
「じゃあ、遠いこと自体に、値打ちがあるわけじゃないんですね」
口にしてから、自分で少し驚いた。
「ここにいない誰かの代わりに、誰かが、運んでくれた。その手間と勇気が、値段になってるんですね」
先輩は、目を細めて、小さく頷いた。
「うん。いい見方だね」
嬉しかった。顔に出ていたのかもしれない。奥から、ダグの咳払いが聞こえた。
「にやけてんじゃねえぞ。手が止まってる」
「すみません」
先輩が、口元を押さえて笑っていた。
夕方、仕事を終えて、先輩と並んで市場の通りを歩いた。
最近は、帰り道に、こうして遠回りをする。手を繋ぐのは、人通りの少ない路地に入ってからだ。
灯りの魔導具が、ぽつぽつと点り始める。露店の主たちが、指先に火を灯して、ランプへ移していく。
「あ、あの店」
先輩が、足を止めた。
木箱を並べただけの、小さな露店。ぼんやりした目の若い男が、片肘をついて座っている。外装に傷のある品を扱っている、あの露天商だ。
今日の棚の端に、見覚えのあるものが、ちょこんと置かれていた。
縁が少し欠けた、白い器。
昼に見たものと、よく似ている。
「いらっしゃい。今日は、変わったのが入ってるよ」
露天商は、いつもの調子で言った。
「それ、海の向こうの品ですか」
「さあな。ここに来るまでに、何人の手を通ったか、分からねえ代物だ」
彼は、器の縁を指で弾いた。澄んだ音が、夕暮れの通りに、小さく響いた。
「出所は、聞かねえでくれよ。俺も、全部は知らねえんだ」
聞くつもりは、なかった。商人同士の、距離感というものだろう。
先輩は、器を手に取って、光にかざした。
「欠けているのに、安くはないんだね」
「手の数だけ、値が乗るんでね」
露天商は、そう言って、薄く笑った。
昼に先輩が教えてくれたことを、この男は、たった一言で言ってのけた。
結局、先輩は、器を買わなかった。代わりに、小さな香辛料の袋を一つ買って、「今度、何か作ってあげる」と、少し照れくさそうに言った。
帰り道、人気のない路地に入ると、先輩の指が、俺の手にそっと触れた。
「ねえ、アッシュくん」
「はい」
「さっき、お店の人の話を聞いてる時の顔、倉庫で器を見てる時と、同じだったよ」
「そうですか?」
「うん。見てるのは、品物じゃないよね。その後ろにいる人たちを、見てる」
言われて、初めて気づいた。
あの白い器の向こうに、俺は、会ったこともない人々を思い浮かべていた。船に積む人、運ぶ人、受け取る人。顔も名前も知らない、無数の手。
その向こうには、まだ誰も知らない市場が、あるような気がした。
「私、遠くのものが、ここにあるのが、なんだか不思議で」
「不思議だよ。でもね」
先輩は、俺の手を、軽く握り返した。
「その間に立つ人がいなければ、どれも、ここには届かないの。次は、そこを見てごらん」
「間に立つ人、ですか」
「そう。港から倉庫まで、誰が、どうやって繋いでいるのか。気にしてみて」
先輩は、それ以上は、何も言わなかった。答えは渡さずに、宿題だけを置いていく。
夜風が、路地を抜けていく。生活魔法の微風よりも、少しだけ、冷たい風だった。
俺は、もう一度、先輩の手を握った。




