第15話「船乗り」
第15話「船乗り」
「河港の問屋へ、見積書を取りに行ってこい」
朝一番、ダグに言われて、俺は、封をした木札を預かった。
先輩は、昨日から、本店の会議に出ずっぱりだ。今日は、この仕事を、一人でこなすことになる。
「馬車で半日だ。昼には着く。見積書をもらったら、その足で戻ってこい。帰りは夕方になるから、飯は向こうで食っておけ」
「分かりました」
「それと」
ダグは、にやりと笑った。
「港の空気を、ちゃんと吸ってこい。荷車引きが言ってたろ。船乗りの話は、面白えってな」
(聞いてたんだ)
乗合馬車に揺られて、半日。窓の外の景色が、少しずつ、緑から青に変わっていった。
最初に鼻をくすぐったのは、水と、濡れた木と、魚の匂いだった。
馬車を降りた瞬間、風が、頬をなでていく。湿り気を含んだ、少し重たい風。水鳥の鳴き声。軋む縄の音。桟橋の方から、荷役人足たちの掛け声が、波のように響いてくる。
(これが、河港)
広い。そして、大きい。
見上げるほどの帆柱が、何本も、空に突き出していた。船体は、俺が知っているどんな荷車よりも、はるかに大きい。桟橋には、樽や箱を担いだ人足が、蟻のように行き交っている。屋台では、魚屋の主人が、掌をかざして、氷の上に魚を並べていた。
荷車引きの言葉が、頭に浮かぶ。
――夜明け前から、荷役の連中が百人ばかり、桟橋に集まる。
昼のこの時間でも、人の数は、息を呑むほどだった。
問屋での用事は、すぐに済んだ。
見積書を受け取って、鞄に仕舞う。礼を言って店を出ると、ちょうど昼時だった。ダグに言われた通り、どこかで食事をとってから、帰ろう。
港通りを歩いていると、軒先に木の長椅子を並べた、古びた酒場が目に入った。昼間は食事も出すらしい。湯気の立つ魚のスープの匂いに、腹が鳴った。
長椅子の端に腰を下ろして、スープを頼む。
隣の席には、先客がいた。
白髪混じりの髭を伸ばした、六十に近い老人だった。日に焼けた顔は、深い皺だらけで、節くれだった指の左手は、薬指と小指が、欠けている。エールのジョッキを片手に、のんびりと港を眺めていた。
「坊主、見ない顔だな」
声をかけられて、少し驚いた。
「あ、はい。帝都の商会の者です。仕事で、港の問屋に」
「ほう、商人の卵か」
老人は、ジョッキを軽く掲げて、目を細めた。
「あの。もしかして、船乗りの方ですか」
「どうして分かる」
「手が。縄を引く人の手に、見えたので」
老人は、一瞬ぽかんとして、それから、豪快に笑い出した。
「いい目をしてる。ああ、四十年、船に乗ってる。今は、半分引退だがな。海の船を降りて、川船の水先をやってる」
「実は、荷車引きの人に聞いたんです。船乗りの話は、面白いって」
「あの口の軽い奴か。まあ、いい」
老人は、ジョッキを置いて、湯気の立つスープの椀を、俺の方へ押しやった。
「話してやろう。飯を食いながら、聞くといい」
船乗りの話は、驚きの連続だった。
「十年前の秋だったかな。南の海で、嵐に遭った」
老人の声は、穏やかだった。けれど、その目は、遠い場所を見ていた。
「三日三晩、波が船を叩いた。帆はちぎれ、船は傾いた。このままじゃ沈むと思った船長が、決めた。荷を、捨てると」
「荷を、捨てる」
「船を軽くするんだ。積んでいた絹と香辛料を、半分、海に放り込んだ。荷主は、青い顔をしていたよ。全財産を、賭けた荷だったからな」
俺は、スープの匙を、持ったまま固まっていた。
「でも、捨てなきゃ、船ごと沈んでいた。船が沈めば、荷も、人も、全部なくなる」
「……どうなったんですか」
「生き残った。荷主は、一文無し同然になった。でも、命はあった。その荷主は、今じゃ、別の船を持ってる」
老人は、エールを一口飲んだ。
「荷は、金に換えられる。人は、換えられねえ。それが、海の商売の、一番の掟だな」
「怖くは、ないんですか。そんな目に遭って」
「怖いさ。今でも、嵐の夜は、手が震える」
老人は、欠けた指の左手を、ゆっくり開いて閉じた。
「だがな、怖いから、四十年、生きてこられた。怖さを忘れた奴から、先に海に呑まれていく」
(荷は、換えられる。人は、換えられない)
胸に、重たいものが、すとんと落ちた。
あの倉庫の隅の木箱も。市場で買った、胡椒の袋も。一つ一つが、そんな海を渡ってきたのかもしれない。
「海の向こうには、どんな品があるんですか」
「そうさな」
老人は、遠くを見つめた。
「絹より軽い、透けるような布。夜でも光る、青い石。薄くて、指で弾くと鈴の音がする、白い器。香りだけで、部屋中が静まる、深い森の香木」
「割れ物は、運ぶのが大変そうですね」
「ああ。だから、割れ物は、品代より運賃のほうが高くつくことも、珍しくねえ」
老人は、にやりとした。
「それでも、運ぶ奴がいる。欲しがる奴が、いるからな」
(距離も、危険も、全部、値に乗ってるんだ)
聞くたびに、世界が、少しずつ、広がっていく。
「港ごとに、市場があってな」
老人は、懐かしそうに目を細めた。
「どこの国の港にも、見たこともねえ品を並べた店がある。言葉も通じねえのに、身振り手振りで、値を決めるんだ。笑ったり、怒ったり、最後には握手して終わる」
「言葉が、通じなくても」
「商売ってのは、案外、そういうもんだ」
知らない港の、知らない市場。見たこともない品と、見たこともない人たち。
胸の奥が、ざわざわと、熱くなった。
「ただな、坊主」
老人が、ふと、声を落とした。
「海の上のことは、計算どおりには、いかねえ。風も、嵐も、潮も、潮目の変わり方も、人間が決めた算盤の外にある。どんなに腕のいい船乗りでも、海に勝ったことは、一度もねえんだ」
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥に、ふっと、声が浮かんだ。
――海の向こうの話は、計算に入れられないから、苦手。
学院の教室の隅で、ヒルデが、そう言って、顔をしかめていた。
数字で割り切れないものは、信用できない。いつも、そう言っていた。いかにも、あいつらしい。
(計算に入れられない、か)
それだけを思い出して、俺は、スープの椀に、視線を戻した。
食事を終えて、老人に礼を言った。
「いい話を、ありがとうございました」
「なに、いい。坊主も、いつか、海を見るといい」
席を立とうとした時、老人が、腰の小袋に手を入れた。
「そうだ。土産話ついでに、これを見せてやろう」
取り出したのは、小さな、木彫りの小物入れだった。
手のひらに収まる大きさ。蓋には、見慣れない蔦の模様が、細かく彫り込まれている。ただ、縁の一部が欠けていて、角も擦り切れていた。
「遠い国の、港の市場で買ったもんだ。傷が付いちまってな。ただの、思い出の品だ」
そっと手に取ってみる。
軽い。けれど、蓋の彫りは、息を呑むほど精巧だった。傷はあるのに、細工の見事さは、少しも損なわれていない。
(外は傷ついているのに、中身は、立派だ)
ふと、頭に、浮かんだ。
(これは、あの露天商の店に並んでいそうだな)
あの、ぼんやりした目の若い露天商の顔が、鮮やかに思い出された。
河港の潮風が、小さな小物入れの彫りを、そっとなでていった。




