第一話 終わっていない事件
「……ない」
ノラは本を閉じ、隣に置いた。
別の本を開く。
しばらく読んで、また閉じた。
「ない」
「さっきから何がないんだ」
向かいに座っていた相棒が顔を上げた。
「毒」
「あるだろ。大勢死んでるんだから」
「毒そのものじゃなくて、どこから持ってきたのか」
机の上には、古い新聞をまとめた資料と、事件について書かれた本が何冊も積まれている。
昨日、役所の待合室で見つけた、七十年近く前の集団毒殺事件。
午後、役所を訪れた一人の男が、公的な機関の職員を名乗った。
庁舎内で問題が起きたため、予防の薬を飲む必要がある。
そう説明して職員たちを一か所に集め、自分も飲んでみせたうえで、持参した薬を飲ませた。
多数が死亡。
混乱の中、庁舎に保管されていた書類が持ち去られた。
後に一人の男が逮捕され、裁判で死刑判決を受けている。
ノラは開いていた本を相棒の前へ押した。
「毒の名前は出てくるの」
「書いてあるな」
「事件で使われたのも、それだって」
「そう書いてある」
「じゃあ、どこから手に入れたの?」
「俺に聞くな」
「書いてないんだもん」
「だから俺に聞いても分からない」
相棒は机の上を見た。
「昨日の今日で、よくこれだけ集めたな」
「図書館の人に聞いた」
「お前が探したんじゃないのか」
「探したよ」
「見つかったのか?」
「図書館の人が」
「それは探してもらったと言うんだ」
ノラは次の本を開いた。
「まだあるから」
「まだ読むのか?」
「うん」
「全部?」
「毒がどこから来たか見つかるまで」
相棒はしばらく黙っていた。
やがて、机の端に積まれていた本を一冊取る。
「一冊だけな」
「手伝ってくれるの?」
「帰れなくなったら困る」
「図書館からなら帰れるよ」
「昨日、役所の中を探検していた人間が言うな」
「迷ってないよ」
「同じ噴水の前を三回通ったことがある奴も信用できない」
「それは別の町」
「場所の問題じゃない」
二人で本を開く。
ノラは目次から毒物に関係しそうなところを探した。
毒物の鑑定。
事件で使われた量。
男の供述。
裁判での証言。
それらしい言葉はいくつも出てくる。
だが、入手先になると見つからない。
「……やっぱりない」
「ノラ」
「なに?」
「これ」
相棒が本をこちらへ向けた。
「この事件、再審請求されてるぞ」
「再審?」
「裁判をやり直してくれって申し立てだ」
「それは知ってる」
「知ってるのか」
「言葉は」
「そこだけか」
相棒は本へ目を戻した。
「一回じゃないな。何度も申し立ててる」
「誰が?」
「最初は本人。その後は……遺族だな」
「へえ」
ノラは自分の本へ戻った。
数ページめくったところで、向かいからもう一度声がした。
「……おい」
「今度はなに?」
「これ、最近までやってるぞ」
ノラの手が止まった。
「最近?」
「去年まで」
「去年?」
「ああ」
「七十年前の事件だよ?」
「知ってる」
「去年?」
「二回言うな」
ノラは立ち上がり、相棒の横へ回った。
「どこ?」
「ここ」
死刑判決を受けた男は、判決が確定した後も無実を訴え続けた。
刑は執行されないまま長い年月が過ぎ、男は収監中に死亡した。
その後も遺族によって再審請求が続けられた。
最後の申し立ても長く審理が続いていたが、請求人だった遺族が死亡したため、手続きは終了している。
「……終わってないじゃん」
「今は終わってる」
「冤罪じゃなかったから?」
「いや」
相棒が続きを指した。
「申し立ててた人が亡くなったからだ」
「それで終わり?」
「そう書いてある」
「犯人だったかどうかは?」
「それで決まったわけじゃないらしい」
「じゃあ、終わってないじゃん」
「だから、手続きは終わってる」
「同じこと言ってる」
「お前もな」
ノラは別の本を引き寄せた。
「冤罪って書いてある」
「こっちにもある」
「この人、犯人じゃなかったの?」
「知らん」
「でも死刑になってるよ?」
「なってるな」
「なのに冤罪?」
「そう主張してる人たちがいるってことだろ」
「どっち?」
「俺に聞くな」
ノラは再審について書かれた資料をめくった。
自白の問題。
目撃証言の食い違い。
事件と男を結びつけた証拠。
逮捕に至った経緯。
いくつもの項目が並んでいる。
「あ」
「なんだ」
「毒」
「また毒か」
「ここにもある」
再審を求める側も、事件で使われた毒物を問題にしていた。
種類。
作用。
犯人とされた男が、それを入手できたのか。
ノラは最初に読んでいた本を持ってきた。
二冊を並べる。
「こっちは犯人だって書いてある」
「裁判の記録だからな」
「こっちは冤罪だって」
「再審を求めてる側だからな」
「どっち?」
「知らん」
「困った」
「何が」
「毒を調べてただけなのに」
「やめればいいだろ」
「でも気になる」
「毒が?」
「そっちも」
「増えたのか」
「うん」
ノラは机の上を見た。
「最初から見よう」
「何を?」
「事件」
「今見てるだろ」
「途中からだから分かんない」
「どこからなら分かるんだ」
ノラは資料の束をめくった。
一枚。
二枚。
戻す。
別の束を取る。
「……どこが最初?」
「俺に聞くな」
「事件が起きた日?」
「その前にも何かあるかもしれないだろ」
「じゃあ、その前」
「どこまで戻る気だ」
「分かんない」
「先に調べる範囲を決めろ」
「調べないと分からないよ」
「その調べる範囲の話をしてるんだ」
ノラは一番古そうな資料を一枚抜いた。
「これから」
「それは事件の半年後だ」
もう一枚。
「これ?」
「三年前だ」
「戻りすぎた」
「日付を見ろ」
「あった」
「今度は?」
「事件の二か月前」
「それならまだ近いな」
ノラはその資料を机の真ん中に置いた。
「じゃあ、ここから」
相棒がため息をつき、自分の椅子へ戻る。
「帰る時間だけは忘れるなよ」
「大丈夫」
「信用できない」
ノラは資料を開いた。
「毒が出てきたら教えて」
「結局そこなのか」
「そこが気になってるんだもん」




